ニート姉さんと見た海(3)
夜の暗闇の中で、激しくうなっている声が聞こえた。
僕はすぐに飛び起きて、ベッドサイドの明かりをつけた。姉さんはもう一つのベッドの中で低いうなり声をあげている。それも、吐血しているようだった。
夕食のワインが引き金になったことは言うまでもないだろう。
寝間着を汚さないようタオルを渡し、ゴミ袋を用意した。ベッドの掛けカバーにはすでに赤黒く固まった血が付いていた。辺りには酸っぱさと鉄臭さの混ざった臭いがただよっている。
背中をさすって楽にしてやり、落ち着いたところで薬と大量の水を飲ませた。この薬は医者から発作の際の緊急用として渡されていたものだ。退院以来はじめてここで使うことになった。
姉さんは吐血の反動か、ずっと涙目になっている。様子が落ち着いても僕はずっと背中をさすり続け、姉さんを安心させようとした。
しばらくして、そのまま寝入ったことを確認して僕は後片付けをした。幸い汚したのはベッドの掛けカバーだけで、部屋にあった別のものに替えて凌いだ。これはホテルに謝らないといけないだろう。
一通りの始末を終えて戻ってくると、姉さんは再び苦しそうに息をしていた。
僕はまた寝入るまで背中をさすってやり、寝返りを打とうとするのを助けてやりつつ、再び静かな寝息に戻るまでそうしていた。
そうして、すっかり寝入ったことを確認して僕は自分のベッドに戻ろうとしたが、姉さんは座っている僕の、腿のあたりを抱きかかえたまま体重をかけて眠ってしまっていたので僕は困ってしまった。
せっかく寝たのを動かすのも悪いし、かといってこのままベッドに座ったまま一晩過ごすのは苦しい。仕方がないのでそのまま動かさないよう、ベッドの空いた隅っこにうまく横たわるようにして寝ることにした。第三者的に見れば「ツインルームじゃなくて初めからダブルで取れや」と誤解を受けそうな状態だが、そういうつもりではないのでご勘弁願いたい。
なお、翌朝目が覚めた場所は床の上だった。やっぱり寝方に無理があったようだが、しばらくして起きてきた姉さんの顔色は復活していたので、これでよかったんだと思うことにした。
◇
「ええっと、地図だとこの交差点だから、もうひとつ向こうか!」
「姉さん飛ばしすぎです。またへばっちゃいますよ」
「ワインパワーは無限のパワー!」
「わけがわかりません」
蝉の声がこだまする海岸沿いを、二人は歩き回っていた。
深夜の吐血など夢だったかのようなはしゃぎようだ。朝起きたとき僕は本気で心配していたのだが、目覚めた姉さんの表情はいつも通りだった。まじまじと顔色をうかがう僕に姉さんは「やんエッチねえ☆」などと照れていたが、あまり気にしなかった。
ただ、今さら言うような話でもないが、昔より肌の色素が落ちていて顔や腕にまったく赤みが差しておらず、そのことに少なからずショックを受けた。
そして、元気を取り戻した姉さんはこの旅行の目的地を変えるとあっさりと言い出した。テーマパークではなく、この町にある海浜公園に行きたいという。姉さんがそう希望するなら従うしかない。姉さんが見たいものを見るというのがこの旅行の目的だったのだから。
その海浜公園は町のはずれにあり、昔この町に家族旅行で来たときに立ち寄った場所らしい。そのとき僕はまだ5歳だったからあまり詳しい記憶はない。一方の姉さんは10歳だったのでよく覚えているようだ。
「その時もこういう夏の日だったんだよ」
しかし、先を行く姉さんの進むペースがだんだん落ちてきた。
朝の日差しはじりじりと照りつけ、1秒ごとに体力を奪っていく。ついに姉さんがへばったのかと思ったけど、そうではなかった。
海浜公園は廃墟になっていた。
バスの終着地である小さな漁港から徒歩10分、立ち並ぶ防風林を過ぎると広い空間があったが、そこに整備されていたはずの芝生や、海の家や、植栽などはすべて廃墟になっていた。
たしかにバスを降りるとき気になっていた。バス停の表示では、この先に伸びていたはずの海水浴場と海浜公園へのバスルートは不自然に消されていた。これらはおそらく交通の便が悪いとか、目的に適さないとかで閉鎖されてしまったのだろう。
姉さんはゆっくりと何も言わず歩いていた。僕は、何か見ればその旅行や母さんのことを思い出せるかもと多少期待していた。しかしそれらの希望は叶わなそうだった。
姉さんは立ち入り禁止と書かれた看板を無視して公園の敷地内へと入っていく。公園は海水浴場と一体化していて、道路から公園地帯を抜けていくと砂浜へと出る。
砂浜には海の家だったような建物が廃墟になっていくつも並んでいた。
「姉さん…」
僕はどう声をかけたものか迷っていた。
「ああ、うん。思っていたのと違うものだったね!」
姉さんはしょんぼりしているのをわざと隠すかのように言って、苦笑いしながら振り返った。
「帰ります?」
「いや、昔の面影があるから、これはこれでいいよ」
遠くで雷鳴が聞こえた。見上げると青い空が半分ほど隠されていて、不気味な雲が残りの半分を覆い隠そうとしていた。間もなく夕立が来ることがすぐに分かった。
「朝なのに夕立とはこれ如何に!」
「馬鹿なこと言ってないで、雨宿りできるところを探しましょう」
雨から逃げるには二人とも身軽な姿だった。今は、昨日までがらがらと引きずっていたキャリーバッグは駅に預けてある。
廃墟の建物をいくつか見ていると、立派な東屋があるのが見えた。海の家らしい建物はプレハブ造りのような安っぽいものだったが、この東屋だけは立派な公園にあるようなしっかりした作りのもので、現役で使われていてもおかしくないようなものだった。
二人が東屋に入ったとき、ちょうど雨が降り出してきた。
雨足はあっという間に強くなり、遠くまで見渡せないほどの豪雨となった。
「間一髪、濡れなくてよかったですね」
「……私、疲れた」
気を悪くしたかのように姉さんはぽつりと言って、屋根の下にあるベンチに座った。でもそれは気を悪くしたのではなくて、本当に疲れていたようだった。しばらくそのまま喋らないのを見て僕はその事にようやく気付いたぐらいだ。
僕もその隣に座る。正面には砂浜と水平線が見えた。今来たばかりの雨雲が海面を遠くまで覆っていく様子が見えた。
激しい雨が屋根を叩き、さっきまで熱気に覆われていたこの辺りの空気は急にヒンヤリとした冷気に包まれている。
「17年も昔のことだもんね。そのまま残ってなくても仕方がないよね」
「そうですね。僕はあんまり覚えてないですけど」
「ちょうどそのあたりでね、勝彦が転んで血まみれになったんだよ。ひざは擦るわ鼻は打って鼻血だらけになるわで、大変だった。
それで、母さんが海の家でホース貸して貰って丸洗いして…」
物語を語るように、昔の思い出を聞かせてくれた。
そこには母さんがいて、姉さんがいて、僕がいて、旅行では一緒じゃなかったけど、父さんも生きていて。
もう思い出すこともなくなってしまった、温かかった時代の家族の記憶を、少しずつ辿っていた。
「ところで、タイムカプセルの中に入っていた宝箱、覚えてる?」
「ええ。何が入ってるのか分からずじまいですけど」
「あの中にはねえ、災いと希望が入ってるんだよ」
「パンドラの箱ですか! ……でも、吹江さんも似たようなこと言ってましたよ。そういうものって、意外と開けない方が幸せなんじゃないかって」
「そうかもしれないね。でも、本当にそうなのかどうかさえ開けてみるまで分からないんだよね」
姉さんはそう言って笑った。
「勝彦さ、もしここにあの宝箱があったとしたら開ける?」
「いきなりですね。鍵があったら開けたいですよ」
「本当に? 本当に災いと希望が入っているかもしれないよ」
「たかが子供の入れるものでしょう。そんな大層なものとは思えないですけど」
「そう。子供の入れるものだからこそ、大変な災いかもしれない」
僕は姉さんの言っている意味が分からなかった。箱の中身を知っているようなそうでないような口ぶりだった。
「それでも開けたい?」
「箱の中身の何が災いで、何が希望かは自分で判断したい。なので開けます」
もったいつけた姉さんの言い方が気になったが、僕の考えは変わらない。
「そっか」
姉さんはそれだけ言うと、黙ってしまった。
会話の消えた中で、雨音はますます激しさを増していった。




