ニート姉さんと見た海(2)
姉さんはルンルン気分で支度をしている。朝食の食器を洗っている僕の後ろで、ハイテンションな鼻歌がずっと聞こえていた。
「浮かれて薬飲むの忘れないでくださいね」
「わかってるよぅ」
テーマパークへの長旅にあたって、僕には二つの心配があった。
まずは姉さんの体調が悪化しないか、そして、姉さんが人ごみというものに耐えられるかどうかだ。リハビリが進んだとはいえ『引きこもり上級者』と『重病人』の二重苦である。……まあ、今のところはハイテンション無敵モードなので大丈夫だろう。
姉さんは遠くに行くという一大イベントの時点でずいぶん喜んでいたが、やはりディズニーランドに行けなかったことには多少なりとも心残りがあるようだった。
家を出てバスターミナルに着いたとき、休暇らしい家族連れがこれから飛行機に乗ってディズニーランドに行くらしい会話をしていた。それを聞いて、姉さんはつぶやいた。
「なんで私たちはディズニーランドに行かないんだろうね」
「特急と新幹線を乗り継ぐと着くのが夕方になっちゃいますよ。姉さんは飛行機乗れませんし」
「そんな言い方だと、私がまるで飛行機に乗れないことが悪いとでも言ってるようじゃないの」
「今どき飛行機に乗るのが怖いなんて人は珍しいですよ」
「怖いものは怖いし、嫌いなものは嫌いなんだからしょうがないじゃない。食わず嫌いじゃなくて、実際に乗ってもやっぱり怖いし一生受け入れられないと思った。それくらい嫌い。あれは人類の敵!」
「そこまで言わなくても…」
このような感じで、目的地については飛行機との兼ね合いで姉さんは納得したのだが、以前から「死ぬまでに見たいものを見たい」と言っていた姉さんの願いを、こうして妥協するしかなかったことが悔しくてならない。
駅のプラットフォームには既に特急列車が到着していた。
売店でお茶を買って列車に乗る。それを見て姉さんは「列車の旅といえばビールでしょ」などとわけのわからないことを言って不満そうにしているが、気にしないでおこう。
間もなく特急列車は動きだし、僕たちはこの住み慣れた町にしばしの別れを告げた。小さなこの町の市街地はあっという間に過ぎ去り、田園地帯を抜けて山岳地帯へと入っていった。渓谷沿いに見える新緑が眩しかった。
車内には子供連れの客が数多くいて、いかにも夏休みという雰囲気を醸し出している。それに負けず、隣に座っている約一名は山沿いを走る特急列車の窓を開けてきゃあきゃあとはしゃいでいる。こちらも子供連れだと言えなくもない。
「見て、見てよ。景色が綺麗だよ」
姉さんは目に映るものすべてが気になる子供のようになっていて、何やかやといちいち僕に言ってくる。僕は苦笑いしながらそのハイテンションぶりを眺めていて、まるで保護者になったような気分でいた。
しかしそんなひとときも、長くは続かなかった。
特急列車が終着駅に、つまり新幹線との乗り換え駅に着くまでは2時間半以上。その間に姉さんは少しずつ静かになっていった。
「姉さん?」
「酔ってない…よ…」
終着駅に近づく頃には姉さんは一言もしゃべらなくなっていた。ハイテンションでただでさえ少ない体力を使い切ってしまったのか、人混みに出るというストレスが知らず知らずに力を奪っていったのか分からない。しかし、姉さんの顔はもともと白いのにすっかり血の気が引き、弱々しい息づかいが聞こえていた。
ほどなく列車は終着駅に着いた。
僕はぐったりしている姉さんをプラットフォームの椅子で少し休ませた。朝の涼しさとは打って変わって今は蒸すように暑く、しかも鉄道駅独特の金属の熱気が辺りに立ちこめていた。それに、夏休みに入ったことによる人出の多さで、ホームの不快指数はかなり高くなっていた。せめてクーラーの効いた待合室にたどり着ければよかったのだけど、階段とエスカレーターを使ってそこに移動することさえ難しい有様だった。
「心配しないで、まだ時間はたくさんあるからゆっくり行けばいいよ」
列車を降りていった人混みを見届けて、僕は姉さんに声をかけた。
姉さんはうっすら目を開けて少しだけ頷いた。背もたれに体を預けたまま姉さんは肩で息をしていた。
こんな状況なので、結局、テーマパーク行きは延期することにした。たぶんそうなるかも、と半分くらい予想していた事だった。僕の休暇は余裕を見て何日間か取ってあるし、これまでの実績から姉さんは明日あたりにケロッと回復している可能性が高い。だからこの町に宿を取って、あらためて明日出発することを考えていた。
ひとまず姉さんをとりあえず残して観光案内所に行き、宿の手配をした。値段は少し張るが、駅すぐそばにある小綺麗なホテルを見つけた。
観光案内所から戻ってくると、姉さんはプラットフォームの椅子のところで誰かと話していた。まともに会話ができるくらいには回復しているようだ。話している相手はこれから特急電車に乗るらしいお婆さんだった。具合が悪そうにしているのを見て声をかけてくれていたらしい。
姉さんの手にはペットボトル入りのお茶があり、お婆さんは「うちのじいさんも具合が悪くなることがあるけどね、濃いお茶を飲めば楽になるよ」とアドバイスしてくれた。見ず知らずの人の親切を受けることに慣れていない僕は恐縮していたが、一方で多少なりとも世渡りがうまく親切慣れしている姉さんは、お婆さんとフレンドリーに会話していた。
お婆さんは去り際に「飴をなめると頭がすうっとするよ」と言ってパイナップル味の飴を一つくれた。ここにきて“飴玉観音”と呼ばれた姉さんのパワーは健在だった。
テーマパーク行きを明日にして宿で休むことを告げると、姉さんは同意した。今朝のはしゃぎっぷりからすると、無理にでも行きたがるのではないかと僕は心配していたが、姉さんは意外に聞き分けが良かった。
「それで、ここ、どこ?」
僕が駅の名を伝えると、姉さんは「久しぶりに来るところだね」と言った。そういえば、その昔母さんと姉さんと家族旅行で来たことがあったような気がするが、小さくてあまり覚えていない。
「勝彦が転んで血まみれになりながらワンワン泣いてたんだよ」
どうでもよい思い出を聞かされて、僕はちょっとだけ恥ずかしくなった。
◇
ホテルに着いた後、姉さんは日が暮れるまでずっと寝ていた。寝息は消え入りそうなほど弱く、そのままずっと起きてこないんじゃないかと僕は心配した。
そして日が暮れて部屋のカーテンを閉じる頃、ちょうど姉さんがベッドから起き上がった。顔色を見るとずいぶん回復しているようで、僕は安心した。しばらくぼうっとしているようだったが、ミネラルウォーターを飲ませるといつもの姉さんになっていた。
「夕ご飯、何か食べますか?」
「肉!」
さっきまで死にそうだったとは思えないほどの元気さだった。
「せめて胃腸に優しいものにしたらどうですか」
「じゃあ、肉」
「譲るつもりはないということですね」
「うむ。肉」
「また体調悪くなっても知りませんよ」
「我慢することで一日寿命が伸びるなら、私は我慢しない方を選ぶ」
そう言ってにんまりと笑った。
僕は苦笑した。姉さんはこれまでもそういう考え方だったし、これからもそうなのだろう。
「じゃあ何にしましょうかね。焼肉ですか。焼き鳥ですか、鍋料理ですか」
「ここって駅前だよね。歩いて探してみる?」
「そうですね」
姉さんは服を着替え、町へと出発した。
「私としては、客単価2万円以上のところを所望」
要求が高すぎる。
「そういうのは目的地に着いてからにしてください」
「今日じゃなきゃダメなんだよ」
姉さんの横顔が一瞬、真剣なものになったような気がした。
しかしすぐに笑顔に戻り、デートだデートだー、なんて独り言を言ってはしゃいでいた。
駅の近くの地下街には、オシャレな店が並んでいた。姉さんの所望する高級料理店もそこにあり、僕らはその一つに入った。
「酒はいいねえ。人類の生み出した文化の極みだよ」
「それは前にも聞きました。っていうか姉さん、いつの間にワインなんか頼んでいるんですか!」
「こんな美味しいコース料理が用意されているのに、酒を頼まないなんて無粋の極みじゃないの。それに、勝彦が注文するときに止めれば良かったのに」
「すみませんねえ、ワインの銘柄に疎くて、姉さんがいったい何を注文しているのか分からなかったんですよ。それにワインメニューのリストは僕が渡さないようにしていましたし」
「私の酒への執念を甘く見ないでほしい。ほかの座席に並んだワインのラベルを見回して、すべて脳内データベースと照合し、もっともお気に入りのものを注文することなど容易いことだよワトソン君」
「誰がワトソン君ですか」
「それに、私くらいのグレードになれば高級料理店など人のカネで食べ慣れたホームグラウンドのようなものよ。ちょっと色目を使えば毎日これくらいの料理などタダでいくらでも食べられるさ。ザッカーバーグにも負けんよ」
「男としてそういうあからさまな台詞は聞きたくないです…」
「勝男も男を磨いて、プロデュットリ・ネッビオーロ・ディ・カレーマとか、コネリアーノ・ヴァルドッビアデーネ・プロセッコとか、舌を噛まずにワインを注文できるようになるんだ」
「む、無理す…」
姉さんは勝ち誇ったような顔をしてワインを飲んでいた。いつもより飲むペースが遅いようで、ちびりちびりとまるで噛みしめるかのように飲んでいた。




