ニート姉さんと見た海(1)
1年以上開きましたが、連載再開します。
姉さんが退院した後、春から夏にかけての3ヶ月は特に目立った事件もなく静かに過ぎていった。
春のときのように姉さんが突然吐血したり倒れたりといったことはなく、むしろ健康で動き回りすぎて困るくらいだった。
しかしそれはあくまで表面的なものだったらしい。何回か通院と検査を繰り返した後、医者が言うことには、内臓の劣化が当初考えていたよりも速く進行しているとのことだった。
当然のように、再入院を勧められた。
しかし姉さんはずっと入院することを拒否していた。僕の方も、慣れ親しんだ家から出て変にストレスをかけてしまうよりは、できるだけ家で療養したいと医者に伝えた。
医者はそれほど強くは勧めなかった。はっきりと言わなかったが、もはや死ぬことが運命づけられている状態の患者に入院をさせても仕方がないと考えているようだった。
姉さんの食餌制限と服薬はずっと続いている。深酒は姉さんの病気のもっとも有力な原因らしく、医者からは特に強く止められている。それにも関わらず、姉さんが勝手に酒を買ってちびちび飲んでいるところを何度か発見した。
ただでさえ短い余命なのに、そんなことをすればますます縮んでしまう。経過観察で医者が病状が早く進行していると言っていたのも、このように隠れながら飲酒をしていたのが大きく影響しているのだろう。
「あっ姉さん。いま何隠したんですか!」
「かか勝彦、なんでこんな時間に帰宅してんの!」
「役所に行く用があって早引けしたんですよ。それより後ろに隠したその小瓶は何です」
「肉体疲労時の! 栄養補給に!」
「栄養ドリンクとでも言うつもりですか。この部屋なんだかお酒くさいですよ」
「料理作ってたから。その、昼ご飯に。きっと調理酒の香りだよ」
「せっかく昼食用に置いといた肉じゃががあったのに、それとは別に何か作ったんですか。キッチンはウィンナーソーセージを焼いたような香りがしてますよ。どれだけ肉を食べるつもりなんですか。酒飲んでたでしょう」
「飲んでないよ」
「じゃあ後ろの小瓶は何ですか。何飲んでも僕怒りませんから」
「みりん…だよ」
「みりんなんか飲んでたら体壊しますよ。まだ酒の方がマシです」
「じゃあ、酒」
「こらあ!」
「怒らないって言ったじゃん!」
はじめはこのような調子で、酒を見つけた僕と言い訳をする姉さんとの間でしばしば喧嘩が繰り広げられた。でもそのうちお互いに慣れるようになり、僕は姉さんのどうしようもない癖だと考えてあまり強く言わないようになった。
今では酒を見つけても僕は僕で淡々とそれを没収し、姉さんもあまりそれに抵抗しなくなった。でも、次の日には姉さんはどこからか(おそらく近所のコンビニだろう)酒を調達してくるので、まったく懲りる気配がない。
やがて梅雨が明けて本格的な夏がやって来た。
近所の小学校の登校風景は見られなくなり、代わって公園からは朝早くにラジオ体操の音が聞こえてくるようになった。
退院後に姉さんの健康面で唯一改善したのが生活リズムだった。かつて夜更かし・朝寝のリズムが当たり前だったのが、今では早寝早起きの真人間のようになっている。体力回復のための日課だった夜の散歩は早朝の散歩に変わり、今では人通りさえ少ないところを選べば2駅先くらいまでは歩き回れる。
そんな感じで、毎日一緒にいる僕にとっては、入院する前の状態よりもよっぽど健康的に見えた。
姉さんはずっと「おでかけがしたい」と言ってたけれど、今のところお出かけといえば2週間に一度の通院くらいだった。そのほかの慣れない場所に行くことは負担をかけてしまうと思い、僕の気が乗らなかった。花見に行こうとして入院したことを思い出してしまうからだ。
「勝彦はこのまま私を家に閉じ込めて死ぬまで居させる気だ」
姉さんはそんな文句をずっと言っていて、僕にプレッシャーをかけてくる。あまりにも繰り返し繰り返し言うので、このままどこにも行かないというわけにもいかなくなってきた。しばらく僕は「7月になったら夏休みを取ってもいい期間になるから、それまで待って」と言って場を取り繕っていたが、やっぱりそれは一時しのぎにしかならなかった。
こうして7月も中旬を過ぎてしまうと「夏休みはいつとるの?」と姉さんがしつこく聞いてくる。日に日に高まる姉さんからのプレッシャーの中で、僕は勤務シフトを調整して7月中に夏休みを取ることになった。
勤務先は経営が危ぶまれるような状況で職場の雰囲気も暗く、そのような重い空気の中で積極的に休暇を取るのは少し勇気がいった。
ただ、夏休みを取ることは姉さんには内緒にしておいた。
サプライズのつもりでそうしようと思ったのだが、僕にとっても、姉さんにとって最後の旅行になるであろうこの休暇までのカウントダウンを意識したくないという気持ちがあり、その未来の日付を意気揚々と伝えられるような自信もなかった。
休暇を取ることになった前日、夕食メニューはコロッケピラフにした。姉さんが朝にリクエストをしてそうなったのだけど、僕はさらにもう一つ、駅前にあるケーキ屋の、姉さんお気に入りのケーキを買って帰った。
「今日はなんだか勝彦が優しい」
「気のせいですよ」
「私をまるまると太らせて、取って食ってやろうという雰囲気を感じる」
「そんなつもりがあったら、姉さんはとっくに腹の中です」
食卓のそばのテレビからは『小学生の皆さんは夏休み3日目ですね! まだ40日もありますよ』と言いながら季節の話題をレポートしていた。それを聞いて姉さんはツッコミを入れる。
「まじかよ夏休みかよ。私これから小学生になるわ」
「姉さんは小学生にならなくても、毎日が夏休みじゃないですか」
「そんで最終日に宿題を一気に片付けるの。頭脳は大人だから楽チン」
「体は子供、頭脳は大人、みたいなどっかの探偵ですか」
「いやあ冷静に考えて、頭脳が大人でも体が子供だったら酒が飲めないよなあ。あの探偵はもったいないことをしているよな」
「もったいないも何も、あの探偵は高校生ですよ。どっちにしろ飲めないじゃないですか」
「高校生で酒の味を知らないなんて益々もったいないじゃないか」
「あー…、姉さんが20代で体壊した理由、なんとなく分かりました」
僕は頭を抱えた。成長期の飲酒は体に害を与えることが判明しているので、良い子は姉さんの言うことを真に受けてはいけない。
◇
予定通り、サプライズになるはずの朝が来た。まだ日課の散歩に出るには早い時間だ。
「姉さん、朝ですよ。起きてください」
「ぬーん…」
「何がnoonですか。まだ朝ですよ」
「うー…勝彦がナチュラルにボケてる…」
布団の中で丸まっている姉さんは起きたくないようでひたすらゴロゴロしていた。
姉さんはこのように布団の中でゴロゴロしているうちが可愛げがあってよい。起きていれば酒を飲むかネットをするか、あるいは僕にからむか僕の邪魔をするか僕をイライラさせるかだ。ゴロゴロ惰眠を貪っているうちが害がなくてよい。
しかし今日はあえて、その姉さんの惰眠を打ち破らなければならない日だった。
「お出かけしますよ」
僕がそう言うと、丸まっていた布団の動きが止まった。
「……ディズニーランド?」
「ディズニーランドはちょっと遠くて無理ですけど、同じくらい大きくて有名なテーマパークに行きますよ」
「映画のテーマパーク?」
「そうです。埋め立て地にある映画のテーマパーク。あれなら特急と新幹線を乗り継いでいけますし」
ちなみに、大都市からかなり離れた地方都市に住む僕たちにとって、ディズニーランドに行くというのはとても大変なことだった。姉さんは飛行機が苦手なので、鉄道だけを使うなら往路だけで一日仕事になってしまう。
「いつ行くの?」
「今から」
「仕事は?」
「休暇取りました」
「ほんとに?」
「ほんとに」
姉さんの目がカッと見開かれ、突然布団の中から立ち上がった。そしてよろめいて壁に頭をぶつけた。
「大丈夫ですか? そんなに興奮しないでください」
ぶつけた頭を押さえてはいるが、顔がキラキラしていた。
「だって巨大テーマパークだよ? 映画の遊園地だよ? …って痛いっ! でもうれしい!」
ぐしゃぐしゃになった寝間着姿のまま、大慌てではしゃいでいる。起き上がった後も足下が浮ついて頼りない感じになっていた。もはや、体も子供、頭脳も子供の残念ニートだ。
「なんか私、今日は無敵になった気分だよ。テーマパークに着いたらキャラクターたちに力いっぱい跳び蹴りを食らわせよう」
「やめてください…つまみ出されますよ」




