ニート姉さんと爪切り
窓の外は小雨が降っている。
部屋干しの洗濯物たちを前に、僕はげんなりしていた。
今日のようにせっかくの休日が来たと思ったら、その日に限って雨が降るということは珍しくない。ただ僕が憂鬱なのは先週に続いて今週も同じく雨だったからだ。季節は5月の終わり。まだ梅雨入りには早いというのに気分だけは立派に梅雨がやって来ていた。
僕は洗濯を終わらせた後、お茶を入れようか爪を切ろうかと迷った。それでお茶を入れているうちにさっさと爪を切ってしまおうとした。
姉さんは爪を切るときは風呂上がりと決めているのだけど、僕はあまりこだわりなく気が付いたときに切っている。一時期は丁寧に爪の手入れをしていただろう姉さんは、今では立派に爪を「削る」のではなく「切る」ようになってしまった。そもそも外出するつもりがないのだから仕方のない話だ。
姉さんはついさっき起きてきた後、「朝風呂を浴びてくる」と言って風呂場に行ってしまった。ホワイトノイズのような雨の音に混じってシャワーの音もわずかに聞こえている。
僕は古新聞を取り出してフローリングの床に広げた。そしてその上に座り、背中を丸くしながらゆっくりと、ぱちん、ぱちん、と音を立てて切っていった。
水音の聞こえてくる中で、部屋には乾いた音が定期的に響いていた。
やがて風呂上がりの姉さんがやってきた。グレーの部屋着を着ている。
「いやー。朝風呂って贅沢だよね」
笑顔で乳酸菌飲料の小瓶を飲んでいる。
「それは一日24時間を自由に使えないような人が使う台詞ですよ、姉さん」
皮肉を言うと、姉さんは僕の頭を無言でわしゃわしゃとかき回した。
「何するんですか」
「いーや、なんでも」
姉さんは小瓶の最後の一口を飲み干した後、僕の見えないところへ歩いていった。僕は爪切りを再開した。
が、すぐにまた中断されることになった。僕の背中に「ぼふり」という感触があって、重さを感じたからだ。
気が付くと、背中を丸めて座っている僕の後ろにもたれかかるように、姉さんも床に座っていた。
「重いです、姉さん」
姉さんはリクライニングチェアのように頭まで重さを僕に預けてきていた。少し長めの髪が僕の首筋から包み込むように垂れてきて、それはまだ湿気を含んでいた。濡れおしぼりに触れたかのように少しひんやりしていた。
僕が重さを訴えると姉さんはその状態のまま無言で暴れ出し、僕の背筋のあたりは謎の黒髪生命体に何度も押され打たれることになった。もうわけがわからない。
「爪切ってるんですから、暴れないで」
姉さんはそれで大人しくなった。姉さんは別に何かに怒ったり、からかったりしているのではなくて、単にかまって欲しいだけなのだろう。
「爪切ってんの」
「ええ」
「じゃあ私のも切ってよ」
「いいですけど、自分でやった方がやりやすくないですか」
「んーじゃあこうしよう。私のとっておきの爪の手入れ方法を教えるから、まずは勝彦ので試してみよう」
姉さんが何かよく分からないことを思いついたようだった。
「でも僕はもうほとんど切っちゃってますよ。それはまた今度にしましょう」
「残念」
心底不服そうな顔をしていた。
「じゃあ教えるから、私の手入れをしておくれ」
「自分でやればいいじゃないですか」
「やだよ。面倒くさいのに」
姉さんはどうあっても人に手入れを押しつけたいらしい。僕は一通り自分の爪切りを終わらせた後、姉さんの指を借りることになった。
「この特製やすりを使って少しずつ形を整えていくんだよ。こうやって45度くらいであてて、一方向に削るようにすればうまくいくよ」
僕は姉さんの手をとって、言われたとおりに一本ずつやすりをかけはじめた。王族の召使いなどというのはこういう仕事をやっていたのだろうかと思いながら、僕は丁寧に手入れをしていった。
「普段からこういうことをやるのは大変ですよね」
「昔はやっていたんだけどね。今はもう外に出ないから切るだけで終了」
風呂上がりだからなのか姉さんの手は温かかった。手も血行がよく赤く見えていた。
「必要が無いのに、今日はあえて人にやらせるんですね」
姉さんは笑った。
「お出かけがしたいんだ」
僕はその意味をはかりかねて、一瞬手を止めて姉さんの方を見た。
「姉さん、今日は雨ですけど」
「いや今日じゃなくてもいいんだけど、遠出ができたらいいなって思って。入院以来ろくに遠くに出かけてないし」
たしかに、花見をしようとして倒れて以来、姉さんの外出にはすっかり慎重になってしまっていた。近所を散歩できるくらいにはなっているし、通院もしているんだけど、それ以上は吐血の一件があってからずっと二の足を踏んでいた。
「そうですねえ。でも無理はダメですよ」
「どうしても行きたいところがある」
「どこですか」
「東京ディズニーランド」
「いやいやいやいや!」
少し前までは自分で「絶対に無理」とか言っていたような場所である。どういう心境の変化だろう。
「まあ簡単に言うと、私はこの先そんなにたくさんのものを見られないわけだ。だから人混みがどうとか知らない場所がどうとかはあまり気にしないことにして、見たい物を見たいなって思ったんだよ。変かな?」
「いや、変じゃ、ないですけど」
爪を削る僕の手が止まっていたので、姉さんに促されてもう一度削り始めた。それからは互いに無言になって、手入れを終えるのに数分がかかった。
「はい、できました」
「おお、さすが勝彦。そして私、らくちん」
「ぜひまたご用命を」
「くるしゅうない」
何だか妙なやりとりが終わった。姉さんは爪が綺麗になってスッキリしたのか鼻歌など歌っている。
一方の僕は姉さんが行きたいというその場所と、体力の兼ね合いについて悩んでいた。姉さんは最近、少し夜更かしをしただけで目に見えて体力が落ちていたり、時折睡眠時間を長くとっても起きてこないなど、体力に不安定な部分が出て来はじめていた。調子の良いときは調子がいいけど、悪いときは悪い。だから、普通の人のように遠出をするというのは博打のようなものだった。
でも、目の前で鼻歌を歌っている楽しそうな姉さんを見ていると、むげに「ダメです」とも言い切れない心苦しさがあった。
しばらく海外に出かけることになったので、連載は中断します。
次回更新は3月29日頃を予定しています。




