ニート姉さんと桜の木の下
姉さんが退院したのは日曜日のことだった。
本当は療養が必要なのと、検査をたくさん受けなければならないこともあってもう少し時間が掛かる予定だったけれど、姉さんが嘘のように驚異的な回復をして病状が落ち着いていることで、さっさと検査を済ませて普通の生活に戻れることになった。
「これだけ進行していればもっと体力も弱っているはずなんだが…」
と、医者は驚いていた。
退院の日は、満開の桜が咲く行楽日和だった。
入院している間、病棟の注目を集めていた姉さんへの飴玉奉納はやむことはなく、最終的には『飴玉観音』というよくわからない呼び名が付けられて高齢層にあがめられるほどになった。結局、退院の際に持って帰ることになった荷物は紙袋3個分にまで膨れあがった。全部、飴缶と飴袋だ。
見送りはたくさんの人がいて賑やかだった。
主におじいちゃんおばあちゃんから最後の飴をもらいつつ「またおいで」と言われ、「また来るね」と答えていた。いいのかそれで。ともあれ、たくさんの人と会話をすることで、それまで引きこもりで人見知りだった姉さんが多少愛想良くふるまえるようになっていたのは良かったと思う。普段姉さんが冗談のように言っている「その気になれば天下取れる」というのも、このように人を寄せるオーラをうまく使えばあながち嘘じゃないなと思わせられる。…その割にはほとんど死蔵させているけど。
タクシーに乗った僕たちは病院を後にして、そのまま家へと向かった。ただ、家の近所まで来たところで突然「花見をしよう」と言いだし、児童公園の前まで来るとタクシーを止めて降りてしまった。僕は一旦帰ってから来るよう提案したのだけど、はしゃいでいる姉さんはまったく聞かなかった。
花見をするのなら病院の近くにある大きな公園の方がよほど良いはずなのだけど、おそらく姉さんにとってそこはアウェーなのだろう。この間ショッピングモールに行くだけで大騒ぎすることになったように、自分の足が届くような近所でしか落ち着いて動けないのだ。
僕は姉さんが一人で歩いて行くのが心配だったので一緒にタクシーを降りようかと思ったけど、隣には病院から持ち帰る途中の荷物の山(主に飴玉)があり、それはどう考えても抱えて歩いて帰るには辛すぎるほどの量だったので、そのまま一人で先に帰ることになった。
「後で迎えに来ますから、はしゃぎすぎないようにしてくださいね」
座席の窓を開けて、僕は離れたところまで歩いていった姉さんに呼びかけた。
「わかったよー」
「奇声を上げるのとかも無しでお願いします」
「ばっ! ばかー」
姉さんは驚いて振り返ったようだったが、僕は聞こえないふりをして窓を閉めた。低いエンジン音を立てて車は走り出した。
僕は帰宅すると、すぐに奥の部屋から姉さんのカーディガンを取り出して出かけた。姉さんはわりと薄着だったはずなので、少し風のある今日はあまり外に居ると風邪を引いてしまう心配があった。
でも何より、姉さんが僕の目の届かないところにいることがどうにも心配でたまらなかった。まるで遊びたい盛りの子供を持つ過保護な親の気分だ。今まで姉さんは家にずっと居たし、入院中は病室から出ることもなかった。そうしてどこかの場所にじっとしている存在に僕の方が慣れてしまったからか、そして、いつ居なくなってしまうかもしれないことを知ってしまったからか、目の前に居ないところで何かをしていると想像するだけで僕は不安に駆られるようになっていた。
僕は知らないうちに駆けだしていた。
僕は息を弾ませていた。目の前には児童公園の桜の木々が広がっている。
狭い敷地だとは思えないくらいに奥行きを感じさせ、小さな遊具たちの上は桜の花ですべて覆われているように見えるほど、それは絶妙な配置で茂っていた。
日曜の午後だというのに、なぜか人は居ない。ただ、白い服を着た姉さんだけが立って上を見上げていた。
ただ美しいと思った。
散り始めた桜が舞っている中で儚げに花を愛でている姿を、ずっと眺めていたいと思った。もし自分が写真家なら、この絵を撮って誰にも見せずにずっとどこかに飾っておいただろう。それほどに綺麗な光景だった。
ややあって、姉さんはこちらに気が付いたようだ。
浮かれた顔で肩を揺らせながらゆっくりとこちらにやってきた。
「風邪引きますよ」
僕はカーディガンを渡した。
「穴場でしょ? ここ」
「本当ですね」
姉さんは満面の笑顔だった。
「これでもうちょっと余計なものがなかったら最高なんだけどね」
「立て看板とか特に邪魔ですもんね」
「えっ」
姉さんがあたりを見回すと、その児童公園には例によって『不審者出没注意!』の看板がいくつもあった。
「不審者ですもんね」
「う、うるさいわ!」
ここのところ姉さんには苦労をかけさせられていたので、軽い反抗のつもりでからかってみた。効果はてきめんで、姉さんは赤面しながら僕の腕を叩いたり尻を蹴ったりしている。たまに子供のようになるところが可愛かった。
「アイドルの振り付けでしたっけ」
「うるさいうるさい! 私の芸術的なダンスの価値なんてみんな分かんないんだ!」
怒った姉さんは持っていたカーディガンを僕の頭から被せてきた。
ぼふり、と音がして視界が覆われた。
「ああああ姉さんやめてください。下に引っ張るのはやめて。服が伸びちゃいます」
「黙らない口はこうやって塞ぐのよ! ついでに私が不審者に見えるその目も塞いだままで一生いなさい」
うろたえた声で叫んでいた。傍目にはとんでもない痴話喧嘩のように映っていることだろう。
でもこういう些細なことが楽しかった。
「やめてください。もう降参です」
「黙るまでやめないー」
あいかわらず姉さんは僕の頭からかぶせた布を下に向けて引っ張り続けている。
僕はそれから逃れようと右を向いたり左を向いたりするが、いかんせん視界が奪われているのでもたもたするばかりだった。そうこうするうちに僕はよろめいてしまった。
「あっ」
僕はよろけるところを片足で支えようとしたが、姉さんをかばおうとしたために盛大に転ぶことになった。野球漫画なら土煙が上がったまま物音一つ立てないシーンが続くような、偉大な転び方だった。
「だいじょうぶ?」
少しテンションの落ちた姉さんの声が上から聞こえた。
姉さんも僕も少々はしゃぎすぎたかも知れない。
「いてて、大丈夫ですよ」
「あ、血が出てるじゃないの」
よく見るとジーンズの膝の部分が破れていて、その隙間から擦り傷ができているのが見えた。おそらく転ぶときに支えようとして膝を擦りつけながら着地したからだ。
「ちょっと待ってね」
立ち上がった僕の前に姉さんがしゃがんだ。
「いたいのいたいのー」
傷口のできた膝の上に手をかざして、子供っぽい呪文を唱え始めた。
思えば僕の一番古い記憶はこの「いたいのいたいのとんでけ」を姉さんにやってもらっているところから始まる。ぶつけたりすりむいたりして僕が外で泣きそうになるたびに、お姉さんぶって「いたいのいたいのとんでけ」と慰めてくれたのだった。
「いたいのいたいのー」
この年でこんな馬鹿らしいことをするのは少し可笑しいのだけど、何年ぶりかにやってもらうこの呪文はなんだか懐かしい気がして、心の底がくすぐったくなる不思議な気分になった。
が、
「あつまれー」
そう言うと、姉さんはかざした手でそのまま膝を叩いた。
バチィィィン! と威勢のいい音がした。
「痛ってえええぇぇぇえええ!」
「これでよし」
「よし、じゃねええ! なんですか姉さん! 僕を殺す気ですか」
「こんなんじゃ死なないよ? 流水で異物を取り除いて湿潤療法用の絆創膏でも貼ってればすぐに治るよ」
「不思議そうな顔をしながらなんという正論! じゃあなんでわざわざ叩いたんですか」
「気合いを注入した」
自信満々の顔だった。
「死にかけてる細胞に気合いだけ与えてどうすんですか! それに今『痛いの集まれ』って明確に言い切ったじゃないですか。なんで痛みを増幅するようなことするんですか!」
「世の中には『痛みを耐えるためには別の痛みを与えてごまかせばよい』という理論があって」
「痛みの総本山にさらに痛みを与えてごまかすも何もありませんけど!」
「やあねえ、呪文ごときで痛みが集まってくると思ってるの? 本気で?」
蔑むような顔で煽っていた。
「こ、の、く、そー」
「不審者呼ばわりした奴には鉄拳制裁です」
完全に仕返しだった。姉さんは軽くふくれていた。
僕はもう怒ることをやめ、ハンカチを取り出した。
「姉さん、手を出してください。たぶん血がついてますよ」
「いいじゃない。帰ったらどうせ手を洗うし」
僕は手を取ってハンカチで拭いた。
「いいんです。自分が血だらけになっても仕える主人には綺麗でいてほしいんです」
姉さんはその言葉を聞いて、ちょっとだけ笑った。
そして家に帰った後、姉さんはさらに悪ノリしたかったのか流水で洗った後の僕のヒザを舐めようとし(もう洗った後だというのに)、僕はそれにツッコミを入れつつその迫ってくる姉さんに多少エッチな想像をして、うろたえつつまた転んでもう一度ヒザを強打し、悲鳴を上げることになった。
その昭和のコントのような僕の不運っぷりに姉さんは呆れたのか、「ちょっとじっとしていなさい」と言って、今度は真面目に「いたいのいたいのとんでけ」とやってくれた。
ただ、やった後はお互い「何をやっているんだろう」と妙に気まずくなってしまったので、たぶん二度とやることはないと思う。




