ニート姉さんと宝箱のカギ(3)
散らかったゴミ屋敷の中で、僕と吹江さんは立ち尽くしていた。
腐海――というほどではないが、様々なもので散らかっているこの部屋はさながら異世界のダンジョンのようだった。足の踏み場をよく選ばないといろいろなものを踏んづけたり、その衝撃で積まれた物が崩れたりする。僕はこのカオス空間をどのように表現すればいいのか分からなかった。
「奥の方でぽっくり死んでたりしたら…嫌よね」
吹江さんが不吉なことを言う。いつもなら吹江さんがチャイムを鳴らすと出てくるらしい。寝ていてもだいたい起きてくるそうだ。だから何も反応がないのは怪しい。
「大学に行ってるのかも」
「そうかもね。でも基本的に引きこもってるから出かける日は限られるし、玄関の鍵が開いているのはおかしいわ」
吹江さんは何か嫌な予感を感じたのか、部屋の中を眺め回していた。
僕は不在の人の家捜しをするような後ろめたさがあったのだけれど、少しおせっかいな性格でもある吹江さんは開けられたドアから構わず中に入り、様子を伺っていた。吹江さんは足下に気をつけながら奥の方へ歩いていき、鼻をつまみながら2DKの奥の部屋の扉を開けた。
僕はそれを後ろから見守っていたのだけど、扉が開けられたその部屋の中には何も見えなかった。僕がいま立っている部屋よりもその部屋のほうがいっそう暗かったからだ。
そしてしばらくして、昼間とは思えない暗さに少しずつ目が慣れてきた頃、吹江さんは奥の部屋のカーテンを少し開けた。そこから差し込んできた光は眩しく見え、その明るさのために僕の目はしばらく何も映さなかった。
「あっ」
吹江さんが声をあげた。彼女の視線は部屋の隅に転がっていたしわくちゃの布団の中に向けられていた。僕は目を凝らしてそのあたりを注意深く見ると、布団にくるまっている人間がいるのが分かった。
「沙絵!」
吹江さんはその布団の塊に駆け寄り、両手で抱き起こした。布団に隠れていた頭部が姿を現したが、長く垂れた髪のために顔はよく見えなかった。その人物は抱き起こされても力を持っているようには動かず、衝突実験用のダミー人形のようにぐったりしていた。
「よかった!息してるわ」
吹江さんが髪をかき分けると、僕の知っている姉さんの顔だということがようやく分かった。ただ、何となく面影があるくらいで、だらしなく伸びた長い髪や、生気のなくなった顔ツヤや、生きているのが不思議なほどに骨張っている手先などを見るかぎり、みんなの憧れの存在とも言うべきだった自慢の姉の印象はほとんど失われていた。生けるミイラ、幽霊、糸の切れた操り人形…どう見ても悪いたとえにしかできないような半死半生の人間がそこにいた。
「勝彦君、水を持ってきて!」
ゴミ屋敷に吹江さんの快活な声が響いた。僕は急いで台所に行ったが、そこは何かわけのわからないものの養殖場のようになっていてまともに使えなかった。僕は仕方なく食器台の中から一番埃やらの少ないきれいなコップを取り出し、一旦外に出てゴムホースを見つけ、アパートの庭の水やり用に使っているその水道から水を注いだ。
吹江さんはそのコップを受け取り、意識があるのかないのか分からないような状態の姉さんに水を飲ませようとする。でも、やはり意識が定まっていないらしくうまく飲めないようだった。次に吹江さんは頬を軽く何度か叩いて、そして何度も名前で呼びかけた。
ぺちぺちと音がしていた。そうこうしている間に、近くにあった酒瓶やらビニール袋やら本やらが堆く積まれた山が大きな音を立てて崩れたが、僕らにはそれを気にしているような余裕はなかった。
「栄養失調と脱水症状かもしれないわ。呼びかけても反応が無いようなら救急車を呼ぶしかないわね」
「姉さん、しっかりしてください」
「勝彦君、もっと呼びかけて!」
僕と吹江さんは何度も呼びかけた。姉さんはそれに反応しているのかしていないのか、わずかにうわごとのような声をもらしていたが、しばらくしてからようやくはっきりと目を開けた。
その焦点はしっかりとこちらを見ているようだった。
「勝彦…なんで?」
弱々しい声で言った。よく事態を飲み込めていないらしい。
「よかったあ。本当に、生きてて、よかった」
僕は言葉にならない言葉をあげて喜んでいた。僕がこの部屋に来るまで何を考えていたのかもすっかり忘れて、ただ目の前に居た肉親が一命を取り留めたということに安堵と喜びを感じていた。そして、あまりの衝撃に涙が溢れていた。
「姉さん、本当に生きててよかった…」
僕は自分でもびっくりするほどに感情が高ぶって、涙を流していた。
姉さんはその様子をどういうつもりで見ているのかよく分からなかったけど、うっすらと微笑んでいるように見えた。
◇
思えば、それが些細なきっかけだったのだろう。
そのまま、なんとなく心が離れてしまっていた姉さんと僕は、おそらく何のきっかけもないままフェードアウトして絶縁状態になっていたかもしれない。
しかし、その日なぜか僕はそれまで立ち入ることのなかった姉さんの部屋を訪れ、それまで“兄弟なんていなくてもいい”というような考えをしていたのに、目の前で死にかけている姉さんを見て衝撃を受け、死なすまいと必死に呼びかけたのだ。僕自身、どう考えを整理してよいのか分からないほどいろいろな感情がこみ上げてきて、涙を流して顔を崩しながら精一杯姉さんのために声をあげて、この世につなぎ止めようとしていたのだった。
自分でも驚きだった。
その驚きを感じると同時に、それまで僕が小さなプライドやらに囚われて姉さんに反抗していたことが恥ずかしくなった。吹江さんに「お姉ちゃん子」と言われるほどに付き従っていたことによる反動で距離を取るようになったのかもしれないけれど、僕の振るまいはあまりにも身勝手だった。両親を亡くした混乱の中で、姉さんと僕はもっとも選択してはいけない「互いに孤独に生きる」というルートを選んでしまっていたのだ。
それから数日、姉さんは吹江さんの家で療養し、やがて元気になった。それから吹江さんは姉さんと僕をできるだけ会わせようと気を遣っているようで、僕のほうも宝箱の鍵を探すという理由があったので姉さんの部屋には何度か足を運ぶことになった。
姉さんのゴミ屋敷はその後少しずつ改善されていった。僕は元々寮生活で掃除洗濯などはできるようになっていたので、僕が訪れる度に少しずつ綺麗にしていった。風呂場や台所といった水回りはかなり手こずったが、アパートの管理人でもある吹江さんが「ここまで綺麗なら退去のときもクリーニングいらないわね」と言うほどにまともになった。
そうこうする間に、姉さんと僕の関係は元通りの距離感になり、それにプラスして『ダメな姉とそれを世話する弟』という役割が加わった。そして姉さんは何とかギリギリ大学を卒業することに成功したのだけど、そのまま就職せずに両親の遺した貯金(主に進学費用)を綺麗に食いつぶしてくれたので、『ニートな姉とそれを食わせる弟』という役割に変化した。
ちなみに、苦学生に生活費を養ってもらう無職、しかも大卒資格者という存在なんて聞いたことがない。
大学時代の僕は自分の学費と生活費、そして姉さんの生活費をいくつものアルバイトで稼ぎ出すという、奴隷も真っ青の働きづめの毎日だった。おかげで3年目を迎える前に学費が続かなくなり、退学して今のスーパーに就職することになる。今では、姉さんの臨時の投資の収入も加えつつこうして二人でまともに暮らせるようになった。いや、終始一貫して姉さんには本当に働いて欲しかったのだけど、僕のほうが何とか姉さんの生活レベルを維持できるように人生を選択してきたといった方がしっくりくるかもしれない。
ここまで、ほんの5年ほどの間の話だ。
奇妙な話だけど「お姉ちゃん子」だった時代の僕が入れたタイムカプセルの中身が、僕を再び姉さんの元に招くことになったのかもしれない。
不思議な因果というべきだろう。
なお、一言いっておくと、宝箱の鍵はいまだに見つかっていない。
開くことのない宝箱は、僕の引越荷物の中に転がったままだ。




