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ニート姉さんとキャラメルマキアート(4)

 コーヒーショップを出て姉さんの病院に着いたのは、もう院内が静まりかえっているような時間だった。とっくに消灯時間を迎えていて、病棟の廊下は薄暗かった。


 窓口では事情を伝えて中に入れてもらった。「同室の方も居ますので、あまり長居はしないでくださいね」と釘を刺されたが、着替えなどを渡せればそれでいい。むしろ、それで済んでほしい。おそらく僕が面会時間内に来なかったことで姉さんは機嫌を損ねているからだ。

 小さなカバンを持ったまま廊下を進んでいく。

 姉さんの病室を確認してそっと中に入る。部屋の中は照明が消されているのでずいぶん暗い。僕はあまり音を立てないように中に入り、姉さんのベッドへと向かった。

 ベッドサイドのカーテンを少し開けると、脇の小さな机に大量の飴袋や飴缶が置かれているのが見えた。とくに暗がりの中で鈍く光る金属製の缶は存在感があった。

 そしてベッドの方をみると、頭から足まで毛布を被っている芋虫がいる。反応しないところを見るとどうやら寝入っているらしい。

 面倒事が消えて僕はほっと胸をなでおろした。僕は起こさないように注意を払いながら着替えを回収して、持ってきた新しいものに換えておいた。それから希望のあったいくつかの本と雑誌も一緒に置いた。これで今日の用事は終了だ。姉さんはよく寝ているのか少しも動かない。


 退散しようとすると、毛布の固まりから姉さんの手だけが出ているのが見えた。病室の窓にかけられたカーテンの隙間から月明かりがわずかに漏れていて、それがベッドの上にある姉さんの手の甲を照らしていた。

 さっき多恵子さんと会ったとき、内臓の病気についての委細を伝えると多恵子さんは納得したように言っていた。「昔に比べて皮膚や目が少しだけ黄色っぽくなっていたのは、そのためだったのね」。僕はあまり気が付かなかったが、しばらくぶりに会ったからこそ気付いたのかもしれない。

 しかし、この暗がりと月明かりの中で姉さんの手は透き通るように白く見えた。

 そしてその手がわずかに動いた。

「姉さん…?」

 毛布から伸びていた手がわずかに持ち上がった。そして、手を丸めてこちらを招くように上下に動いた。

 姉さんはおそらく起きていたのだ。


 僕は持って帰ろうとしていた荷物を下ろし、ゆっくりとベッドに近づいた。そして椅子に腰掛けてベッドまで目線を落としてみた。手のほかには毛布の固まりはまったく動かない。

 無言の時間がしばらくあったので、僕は姉さんが起きているのかいないのかよく分からず、諦めてその手を毛布の中に戻して帰ろうとした。

 そして姉さんの手を持った瞬間、それは握り返してきた。あまり急なことだったので僕はずいぶんと驚いた。そして姉さんの手は僕の手を掴んだまま毛布の中へとするする引き込まれていった。

(えええ? ちょっとちょっと…!)

 僕はわけもわからず毛布の中に片腕を引きずり込まれることになった。毛布の中はずいぶん温かく感じた。僕はあまりに片腕を取られてしまったのでバランスを崩しそうになり、姉さんのベッドの上、隅っこに置かれていた文庫本目がけて顔面ダイブしそうになった。

(あぶない)

 僕はなんとかバランスを取った。唐突にこんな無意味な嫌がらせをするあたりが非常に姉さんらしいが、病院にいるときくらい大人しくしておいてほしいものだ。

 僕は文庫本の寸前、ベッド表面の上空数センチともいうべきところで顔面を救って踏みとどまっていた。そしてベッドに這いつくばったような姿勢のまま毛布のほうを見る。


 目が合った。


 たとえばこの毛布を砂丘に例えるならそれはいくつもの風紋に覆われていて、訪れた旅人がひときわ大きな丘があると思って角度を変えて見てみたらそれは大きな洞窟だった、というような寸法。毛布のわずかな隙間の奥から姉さんがじっとこちらを見ていた。

 静かだった。

 暗がりのため、こちらからは瞳のわずかな輝きくらいしか確認できない。ただ、その二つの目はじっとこちらを見ていた。おそらく姉さんは、その顔から見える場所に僕を寄せるために腕を引き寄せたのだろう。

 なぜだか僕は居心地の悪い気分になった。

 居心地が悪いというより、所在のないというか、気まずいというか、家族で見ているテレビがラブシーンを映しているときのような若干の照れと恥ずかしさと、それから、サファリパークでガラス一枚隔てた向こうで猛獣が食べたそうな顔をしてこちらを見ているような、間合いの近すぎる妙な居づらさを感じつつ、姉さんと僕はそのまま至近距離で向かい合っていた。

 その間、部屋の中には何も動くものが無い。暗い部屋は音のない張り詰めた音で満たされていた。

「…」

 姉さんが小さく何かを言った気がした。僕はよく聞き取れずにいたが、何もできずにいた。相変わらず僕の片腕は毛布の中に引きずり込まれていて、主導権が握られたままになっている。この些細ないたずらを何とかして打ち切ってもらわないことには僕は帰れない。おそらく僕が来るのが遅れたことについて、姉さんに何かお詫びでもしないといけないようだ。

「起きてたんですか。姉さん」

 毛布の隙間の中は暗く、表情はうまく読み取れない。とりあえず僕は当たり障りのないように小さく声を掛けた。

「遅かったのね」

 囁くような小さな声だった。

「すみません。用事があったもので」

 姉さんはわずかに笑った。笑ったように見えたのは少しだけ白い歯が見えたからだ。その瞬間、姉さんの口から何か甘い香りが広がった。ここのところ姉さんは毎日飴をなめているので虫歯が心配になっているところだ。

「姉さん、寝る前に歯磨きしました?」

「さっき食べたのは人工甘味料のガムだから大丈夫よ」

 とぼけたような返答だった。

「それより勝彦、多恵子に会ってきたでしょう」

 僕はどきりとした。

「ほら、いま焦ってる」

「なんで分かるんですか?」

 僕は取り立ててそのことについて隠すつもりでもなかったのだけど、言い当てられるとは思っていなかった。

「お姉ちゃんは何でもお見通しなんだよ」

 僕はそれに何と返していいか分からなかった。さっき多恵子さんとは姉さんの病気についての話はしたが、それを何と言って説明していいものか困ってしまったからだ。まだ姉さんには大ざっぱな病気の内容しか伝えておらず、医者が推測した余命のことはまだ伝えていない。僕がどんな顔をしてそのことを姉さんに伝えていいのか分からなかったし、僕自身その内容について完全に受け入れられたわけではなかった。

「じゃなけりゃ、たぬきさん口座から自由にお金を引き出せたりしないじゃない」

「そうでした…姉さんには敵いませんね」

 僕は降参した。

 姉さんは、ふふ、と小さな笑い声を漏らした。

「種明かしをするとね、こうして近くにいると、わずかにキャラメルとコーヒーの香りがするんだよ。だからたぶん、どこかのコーヒーショップでキャラメルマキアートの香りを拾ってきたんだろうってね」

「姉さんは本当に鼻がいいですね」

「そして私の知り合いには、ずいぶんと甘い物好きで、コーヒーショップではキャラメルマキアートしか頼まない人が約一名おります。ここまで言えば分かるかねワトソン君」

「まったく敵いませんよ。その通りです」

「よろしい」


 しかし姉さんは、多恵子さんとなぜ僕が会っていたのかについて特に詮索するようなことはしなかった。

「本当に多恵子は甘い物が好きだからねえ。それで途中で仕事やめて菓子職人になるとか言い出すし、本当に面白いんだよ」

 過去を思い出すかのような口調で、ずっと囁くようにつぶやいていた。

「私が死んだら、この飴玉の山は多恵子にあげてね。たぶん喜ぶから」

「!」

 唐突に姉さんは自分の死について触れた。

「姉さん、そんな縁起の悪いこと言っちゃダメです。まだいつ死ぬかどうかも分からないのに」

「ふふ。ありがと。でも私はもう死ぬんだよ」

「姉さん、ちょっと入院したからって変な冗談はやめてください」

 姉さんは妙に確信したような口調で言った。自分が必死に避けていた死についての話題を、姉さんは躊躇なく持ち出した。そのことに自分のなかで抑えていた悲しみを刺激され、僕は半ばムキになって否定してしまっていた。

 しかし、姉さんの口からは僕にとって無情なことしか出てこなかった。

「私もう知ってるよ。もうこの先長くないこと」

 確信の口調は断定に変わっていた。

「なぜ…です…」

「お姉ちゃんは何でもお見通しなんだよ」

 その瞬間、毛布に引き入れられた片腕が感じている温もりが消えたような気がして、僕はひやりとした。

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