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ニート姉さんとキャラメルマキアート(1)

 僕は玄関の扉を閉め、手探りで部屋の電灯のスイッチを入れた。ここは姉さんのアパートの部屋…じゃなかった、姉さんと僕が同居しているアパートの部屋だ。

 スイッチを入れてから一瞬の間を置いて、暗闇は見慣れた部屋の風景に変わった。僕が引っ越してきて間もないので開けられていない段ボール箱がダイニングの端に積まれている。脱ぎっぱなしの上着やら使い掛けのタオルやらがその山に載っかっている。それから、洗濯機のそばには二人分の洗濯物も積もっている。雑然とした生活感に包まれて、まるでものぐさなニートが二人に増えたような有様だった。

 この散らかった有様には言い訳をしておきたい。

 姉さんの容体が悪くなってからというもの、僕はほとんど自分の時間が取れなかった。



 吐血した日曜日、姉さんはそのまま病院に運ばれて意識を戻さなかった。次に姉さんが目を覚ましたのは一日経った月曜日の午後のことで、それまで僕は何も手に付かなかった。病室の外でずっと待ちながら夜を過ごし、途中からは知らせを聞いて駆けつけた多恵子さんも一緒だった。

 朝になって、多恵子さんは学校があるからと帰っていった。そうして午前中はそのまま姉さんは目を覚まさず、面会謝絶のまま過ぎていった。

 昼を過ぎた頃、ようやく看護師さんから意識を取り戻したとの知らせを受けて僕は治療室へ通された。

 姉さんは少しぼうっとしていた。しかし体が苦しかったり辛かったりするような様子はなかった。はじめはまるで寝過ぎた朝に目が覚めたかのようなふわふわとした語り口で不安定だったが、少しずつ会話をしていくうちにいつもの姉さんが戻ってきた。

「心配したんですよ」

「ごめんね。なんだか事情が飲み込めなくて、浦島太郎みたい」

 姉さんはどうやら吐血した直後に意識を失っていたようで、それからの記憶が飛んでいるらしい。桜並木を歩いていて急に倒れたんだと話すと「ああ、そういえばそうだったね」と笑っていた。

「三途の川を渡ろうとしたんだけど、お母さんに似た人がやってきて“お前はまだ早い”って言うもんだから…」

「はは。ひどい冗談ですね」

 軽口に頭が回るほどになったので、まずは一安心だ。

「あ、そうだ。多恵子さんに連絡してって言われてたんだった。いま学校にいると思いますけど、きっと飛んできますよ。ちょっと電話かけてきますね」

 僕は電話を掛けるため、病室を出て携帯電話の使えるところを探した。


 多恵子さんにはすぐに繋がった。電話を心待ちにしていたに違いない。姉さんが目を覚ましたことを告げると、多恵子さんは長い長い安堵のため息をついた。そしてしばらく無言になった後、揺れるような声で「勝彦君、良かったわね」と言った。それは涙を堪えているように聞こえた。

 僕は「あとで来てくださいね」と伝えて電話を切ろうとしたが、返ってきたのは意外な答えだった。

「私は行けないわ」

「どうしてです」

「こうなったのは私のせいだもの。私が外に出ろって圧力かけてたから無理して出歩くようになって…、前にショッピングモールに買い物に行こうとして体調を崩した時だって私が…」

「多恵子さん、姉さんが外に出ないといけなかったのは当然のことじゃないですか。たまたま調子が悪かっただけのことなんですから、多恵子さんは悪くありませんよ」

 サバサバした性格のはずだった多恵子さんが、柄にもなく取り乱しているようだった。いつも歯切れがよかった口調が随分とくぐもっている。

「だって、どんな顔して会えばいいのか分からないもの」

「自分が目覚めたときに居てほしいって、きっと姉さんは思ってます。姉さんがそう思う人なんて他にいませんよ」

「勝彦君がいれば大丈夫よ。沙絵は勝彦君の…いや、なんでもないわ」

「とにかく、予定が終わってからでも来てくださいね」

 僕は自分の失礼を詫びながら一方的に電話を切った。いつもは説教されてばかりの僕がなぜか今日は逆転していた。

 それにしても、昨日から多恵子さんは予想外に狼狽しているようだった。

 もちろん僕だって目の前で吐血されて狼狽しないわけがない。しかしそれは自分で緊急事態を目の当たりにして、人を呼んだり病院で手続きしたり忙しさの中でその収拾にあたったことで何とか自分を保っていられたのかもしれない。例えばもし僕が誰かから突然「お前の姉は意識不明になった」なんて言われたとしたら、自分がそのまま正気を保てるかどうか分からない。姉さんは大事な家族なのだから。家族だから。家族…。


 夕方になって、多恵子さんは見舞いにやって来てくれた。僕には会うなり小声で「ずいぶん迷ったんだけど」と言い訳じみたことを言っていた。

 多恵子さんは病室に入るなり姉さんに抱きついた。

 その様子は一言で言うなら「仲のいい女子高校生同士が再会してハイテンションで何度もハグする」ような具合で、二人は終始そのような感じできゃあきゃあはしゃいでいた。

 僕はあまり邪魔するのも良くないと思って病室を後にした。多恵子さんがこのように女の子らしい振る舞いをするというのは今まで僕はあまり見たことがなかった。ここのところ僕は怒られるか説教されるか、いずれにせよクールで理路整然と反論のできないことを言ってくるようなイメージが定着していたので、そのギャップにどのような反応をしてよいか分からなかった。

 ただ幸いなことに、僕が時間を潰して病室に帰ろうとして廊下で会った多恵子さんは、いつものクールな多恵子さんだった。

「帰るんですか」

「ええ。元気なことが分かればもういいのよ」

 多恵子さんはほんの一瞬だけ恥ずかしそうな顔をして、くいっと眼鏡を直した。

「それで勝彦君、医師は何と言ってるの」

「肝臓の病気で、病状はかなり進んでいるようです。まだあまり詳しく聞いてないので、このあと説明の時間を取ってもらっています」

「そう。今まで沙絵が病気だなんて全然分からなかったわ。よほどポーカーフェイスだったのね」

「はは。姉さんのポーカーフェイスは油断ならないですからね。花札すると分かりますけど」

「でもさっき見ると、衰えが出ているわね。生気が突然落ちたというか…ごめんなさい。悪い想像はあまりするものではないわね」

 多恵子さんはそうして帰っていった。



それから僕はその日医者と話をし、しばらく入院が必要だと説明された後、いくつかの書類にサインをして入院の準備にとりかかった。着替えやらの準備と、自分の引越手続きの残りもまだあったので、僕の仕事はその月曜日と翌日の火曜日も休むことになった。

 水曜日からは、毎日仕事から帰って病院に行くということが続いて、ようやく今日、金曜日の夜を迎えたのだった。それまでは部屋を片付けたり洗濯をするどころの騒ぎではなかったのだ。

 というわけで、このように部屋中が散乱するという事態になっている。


 僕が部屋を片付けて病院に行く準備をしていると電話が鳴った。発信元は多恵子さんだった。

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