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ニート姉さんと月明かり

 寝息は穏やかだった。姉さんは病室のベッドで静かに寝ている。

 いまは何時だか分からないが、遅い時間であることは間違いない。病室の灯りはすべて消えており、目の前には白黒だけの世界が広がっている。

 僕の腕には姉さんが吐いた血のあとが付いているはずだが、この暗がりではせいぜい黒いシミにしか見えなかった。


 姉さんはしばらく入院することになった。

 医者が言うには、重い肝臓の病気だそうだ。

 詳しい病名は難しくて忘れたが、普通なら暴飲暴食を繰り返した人が人生の終わりにやっと掛かるような病気らしい。酒ばかり飲んでいる姉さんらしいといえばらしい。でも医者は、どんなに暴食していても二十代で発症することは稀だと言っていた。たまたま内臓にダメージを受けやすい体質になっていたことと酒量が多めだったことが組み合わさって発症したという。

「治るんですよね? 先生」

「可能性はあります」

 医者は、治る見込みがあるとは断言しなかった。既にダメージを蓄積していることで病状がかなり進行していて、完全に治る確率はそう高くないという。

 最悪、3ヶ月の命。

 もって、1年。

 病気の進行を完全に止めたとしても、一生酒は飲めないし、食事に制限が付く。薬を飲み続けなければならない。

 それを聞いて、目の前が真っ暗になった。


 神様というものはきっといないに違いない。いたとしても、人間が泣き叫ぶ姿を見て楽しむような悪趣味な存在に違いない。

 幼い姉弟から父を奪い、母を奪い、それでも残された貯金を丸ごと使って姉さんは大学に行き、しかしダメ人間になり、僕は僕でアルバイトを重ねて大学に行くも、ついに金が続かずに途中で退学し、姉さんだけを心の支えにしてここまで働いてきたのに、なのに。また僕から一切を奪っていこうというのか。もし幸いに姉さんが生きながらえたとしても、治療の負担は重くのしかかる。どうしたって神様は僕を苦しませたいに違いない。

 自業自得だと人は言うかもしれない。酒に狂った引きこもりニートに、ついにツケを払う時が来たのだと。そうかもしれない。でも、それにしたってもう少し長い目で待ってやってもいいじゃないか。姉さんは堕落によってニートになったんじゃない。多恵子さんが言うには、どうしようもなく精神的に重い負担があって、そこから逃げるために堕落することを選択したのだという。僕も本当のところをよく知らないが、とにかく姉さんは5年経ってようやく少しずつ努力をはじめ、出歩けるようになったと喜んでいるところなのだ。その出鼻は、その5年間に重ねた、ほんの5年間に重ねた暴飲暴食によって脆くも壊されてしまったのだ。

 本当に、神様というものはいないに違いない。


 相変わらず、目の前には白黒の世界が広がっている。病室の白い壁と天井は凍らされたように硬い質感をもって冷たさを主張している。ベッドのシーツも冷えた夜の砂丘のようで、辛うじて息づかいと共に上下する胸のあたりだけが暖かさを保っているようにみえた。

 どうやら僕は疲れて寝てしまっていたらしい。まだ頭がぼんやりしている。パイプ椅子に座ったまま寝落ちしていたためか、腰のあたりが不自然に痛い。まだ頭の中には医者の言った無情な言葉がぐるぐると渦巻いている。

 最悪、3ヶ月の命。

 もって、1年。

 医者はとても親切だ。ご丁寧にも分かる範囲で死期というものを教えてくれる。それが受け取る側の準備が整っていようがいまいが、はっきりとした言葉で教えてくれる。まるで暴力だ。暴力のような現実だ。現実をしっかりと見せて、それに向けての準備をするように強要する。逃れることは許されない。救いから見放された僕たち姉弟にとって、現実はいつだって過酷だ。明日には希望がある? ふざけるな。今日より明日の方が生きづらい。なぜなら、このどうしようもない一生が明日には一日分伸びるのだから。

 幸せというものは長くは続かない。たしかにそうだ。でも僕の一生のうち幸せを感じられた期間というのがどれくらいあっただろうか。姉さんがダメになる前は、両親を亡くして頼るものは自分しかいないと思い込んでいたから、気の休まる時はなかった。幸せを感じられるようになったのはダメになった姉さんの世話をするようになってからだ。だから、せいぜいこの5年ほどの話だ。そして、その期間も今日で終了してしまった。これは決して被害妄想ではない。本当に、自分が並みの人生を楽しんでいると胸を張っていえる期間がそれくらいしか見つからないのだ。


 頭が少しずつすっきりしてきた。目も暗闇に慣れてきて、カーテンの隙間から月明かりが差し込んでスポットライトのようになっているのが確認できるようになった。

 ふと、自分の膝の上に水滴が落ちた。

 悲しいといえば悲しいのだろう。悲しい理由をあげればいくらでもある。涙が出る理由など指摘するまでもない。でも、自分が涙を流している自覚が無かった。何かがあふれ出るような感触はなく、ただ汗のように勝手に水滴が出てきて勝手に膝の上に落ちているような、自分の体でさえも自分のものではないような一歩引いた感覚しかなかった。

(人は、悲しいと涙が出るんだな)

 さっきまで自分が被害者思考で神様を呪っていたのとは対照的に、ブレーカーが落ちたかのように感情的な考えが収まってしまっていた。


 しばらく、ただ膝の上に落ちる粒が淡い光で照らされる様子をじっと眺めていた。

 その時の僕の顔は、きっと能面のように見えただろう。ひたすら下を向いて、流れる雫を堪えることもしないただの能面に。

「勝彦」

 ふいに声が聞こえた。ゆっくり顔を上げると、姉さんが起き上がっていた。明るいカーテンの逆光で表情は見えないが、いつの間にか上半身を起こしてこちらを見ているようだった。

「勝彦」

 姉さんは穏やかに僕を呼んでいた。何か意志を伝えようとしているのではなく、何か尋ねようとしているのでもなく、ただ僕の存在を認めて名前を呼んでいた。

 そのとき、僕はさっきまで落ちていた感情のブレーカーが元に戻ったのを感じた。涙を流し、神を呪っていた大きな感情がいま蘇ってきた。力強い波となって能面は砕かれ、涙をこらえようとしはじめた僕の顔からは少し呻き声が漏れた。

「おいで」

 優しい声だった。

 僕は引き寄せられるように姉さんのベッドに体を預け、泣き崩れた顔が胸の中に抱き留められるのを感じた。

 姉さんは何もかも知り、何もかも悟っているかのように僕の頭を撫でた。


 そのとき僕は「おかあさん」とつぶやいたかもしれない。

 しかしシーツに埋もれた僕の口からは静かに泣き呻く声しか出ていなかった。

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