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ニート姉さんと赤いハンカチ

 暖かな陽気の中を、僕は姉さんと2人で歩いていた。

 引きこもりをこじらせた姉さんは相変わらず、昼間に一人で出歩くだけの勇気はない。でも僕がそばに付いていれば安心するらしく、いまは普通の人と同じようにニコニコしながら歩いている。足取りも軽やかだ。

「超しあわせー、超超しあわせー♪」

 テンションの高くなった姉さんは歌など歌っている。

「あんまりはしゃがないでくださいね。また倒れられると困りますから」

「夜ごとに少しずつ体力つけてるんだから大丈夫だよ」

 僕の数歩さきで、笑顔で振り返って言った。それは少しだけ咲いた桜並木の背景と重なって、まるで写真に撮ってずっと眺めていたいくらいの魅力的な情景だった。


 桜並木は川沿いに近所の寂れた商店街へとつながっていた。川には名前が付いているけど川というよりドブ、ドブというより溝だった。でもこのドブ川でもなかなか、桜の咲くときだけはこの町の隠れた名所になり、町の人は散歩のためにここを通り抜けることを好む。寂れた商店街も年に一回だけ活気が戻ってくるのだ。今日は再び巨大ショッピングモールに行くつもりだけど、少し遠回りしてこの桜並木を通っていこうということになったのだった。

「この桜並木を歩くのも何年ぶりかなあ」

「そうですね。姉さんがニートになってから一度一緒に歩いたきりですね」

「そんな余計な情報はいらないよ。ニートとか」

 姉さんはちょっとむすっとした表情になったけど、すぐに元に戻った。

「もう少しすれば満開になりますよ。アパートの部屋からもよく見えるでしょうね」

「そうだね。楽しみ」

 姉さんは“にししっ”と両頬いっぱいに笑っていた。


「ときに勝彦。聞きたいことがあるんだけど」

「何です? 姉さん」

「なんで今日まで勝彦はうちに住もうとしなかったの」

「いじわるな質問ですね。僕が答えにくいの分かってるくせに」

「いやまあ、一度その口で釈明するのを聞いておこうかと思ってね」

 姉さんは意地悪っぽい顔をした。

 姉さんと僕が一時期疎遠になっていたことは一度説明したと思う。僕は反抗期を迎えていた中学~高校の頃、強圧的な姉とはできるだけ関わらないようにしていたのだ。両親が死んで二人ともまとめて伯母さんの元へ引き取られ、姉さんが今暮らしているアパートの部屋をあてがわれた時も、僕はそこに住もうなんて思わなかった。その時の僕は理不尽に召使い扱いをする姉さんに我慢がならず同じ場所で生活を一緒にするなど不可能なことに思えたからだ。だから中学の時は友人宅などに厄介になり、高校では寮生活を選択した。伯母さんや吹江さんも寛容なもので、僕が伯母さんのもとへ連れ戻されるようなことはなく、ある程度好きにさせてくれた。

「姉さんと一緒に暮らしたくなかったんですよ。なんとなく」

「うん」

 姉さんは「わかってるよ」といった調子で反応し、続けた。

「でも、今はそう思ってないんだね?」

「姉さんは本当に意地悪だなあ。そのとおりですよ」

 僕は赤面した。若気の至りで反抗心を抱き、僕は姉さんの部屋を飛び出したも同然なのだ。今日こうして僕がのこのこ元の場所に戻ってくることは、実は非常に気まずいことなのだ。ましてや「なんで今さら戻ってきたの?」とでも言いたげな意地悪姉さんの顔がいま目の前にある。昔の僕なら姉さんとつかみ合いの喧嘩でもしていたかもしれない。しかし僕は何だかんだで大人になって、姉さんの世話のためにアパートを訪ねるようになって、過去に残したままの小さなプライドを捨ててこうして姉さんの元に戻ってきたのだ。

「気まずいじゃないですか。飛び出した場所に戻ってくるにはタイミングというものがあるんですよ」

「うん。わかってる」

「それに、あの頃は姉さんが怖かったんですよ」

「えっ、私が?」

 姉さんは意外そうな顔をして、それから長い長い大笑いをした。

 当時の僕にとって姉さんは恐怖だった。腕力では勝つことができたとしても、姉さんの性格と存在は僕にとって畏怖すべきものだった。何しろ小さい頃から一緒に居てつねにいじめられてきた存在だから、僕の弱点も嫌いな場所もすべてお見通しで、隣に居るだけで僕の何もかもが支配されてしまいそうな気がしたからだ。今でこそ姉さんの性格は後ろ向きで丸くなっているけど、ダメ人間になる前の姉さんは高飛車な性格で“強い女性”そのものだった。まるで生まれ落ちたときから周囲全てのものがひれ伏すよう神様に運命づけられているかのような、生まれながらの女王様だった。

 僕はそんな強力な存在を間近で見てきたために、僕は“優男”とでもいうべき人畜無害の性格になってしまい、中学高校のときの自分にとってはそれが許せないことのように思えた。だから僕は姉さんの元を飛び出したのだし、それからしばらく経ってダメ人間になりかけていた姉さんの元を訪ねるまで、姉さんの住むアパートに一度も近づいたことがなかった。

「はっはっは。あはっはっはっはっ」

 姉さんはまるで久しぶりのように快活に笑い続けていた。外の空気は貴重だから今のうちに深呼吸をしておけと言わんばかりに全身を使って大きく豪快に笑っていた。ひとしきり笑って、姉さんはこぼれた目尻の涙を拭いた。

「それで、今は怖くなくなったんだね」

「おかげさまで。これだけダメ人間になってしまった姉を見ると、なんで昔そんなに恐れていたんだろうと思いまして」

 隣を歩いていた姉さんから軽く肘鉄を食らわされた。

「まったく、うちの弟は最近調子に乗ってるな」

 姉さんはぼやいていたが、とはいえ楽しそうだった。

「姉さんは昔より丸くなりましたね」

「えっ、私が?」

「ええ」

「昔の私より、こっちの姉の方がいいか?」

「ええ」

「じゃあこれからもニートであり続けよう」

「なんでそうなるんですか! 性格丸いままで外に働きに出るという選択肢はないんですか」

「そんな分岐はありません」

 いつもの軽口だった。僕は姉さんに絶対服従だった時代があり、そして恐怖のあまり疎遠になるという時代を経て、こうして対等(とはいっても姉さんの方が若干上だが)に笑える関係になったのだった。


 歩いているうちに桜並木は終わり、寂れた商店街の入口に到着した。この入口をさらに通り過ぎてしばらく先を折れて、田んぼ道を真っ直ぐ突っ切っていけば巨大ショッピングモールに到着する。

「それで姉さん、今晩は何が食べたいですか」

「えっ、今日は勝彦の引越祝いなんだから勝彦が食べたいものにしようよ」

「そうですねえ…」

 僕は少し思案して、それでも姉さんに決めてもらおうと思った。

「いやいや勝彦が決めないと意味ないでしょ」

「うーん、姉さんの体が欲しがっているものなら僕の体も欲しがっているかと思って」

 そう言ったそばから姉さんは少し赤面した。

「なんか…妙に…艶っぽい言い方するね…」

「えっ、あ、いや…そんな変なつもりじゃ…」

 さっきまで軽口を叩いていたはずなのに、2人揃って顔が赤くなった。

「うちの弟は姉に劣情を抱くヘンタイですー!」

 姉さんは照れ隠しのためか叫び始めた。とは言っても叫ぶのはポーズだけでじっさい声はそれほど大きくない。以前にも見た光景だ。

「やめてくださいよ姉さんー」

 僕がやれやれと思って呆れているうちに、姉さんは僕の歩く随分先まで行ってしまった。


「コフ」

 そこで、姉さんが不思議な咳をするのが小さく聞こえた。正確にはそれは咳ではなく、口の中に何かがつっかえてそれをなんとかしようとしているような音だった。その時は何ともないように思えたが、こちらを振り返った姉さんを見て僕は動揺した。口にべったりと赤黒い血が付いている。

 姉さんは目を見開いてこちらを見ていた。無言だった。

 僕も呆気にとられて何もできずにいた。姉さんは慌ててポケットの白いハンカチを取り出して口元を押さえた。まるで子供がいたずらの準備をしているところを大人に見られたときのように動揺し、精一杯の取り繕いをしているかのような慌てぶりだった。ハンカチは赤さが少し透けて見えた。

「ゴブ」

 姉さんは立て続けに咳とも嘔吐ともつかない音をたてた。すると白さの残るハンカチはあっという間に真っ赤になった。姉さんは下を向き、吐血が止まるのを待っている間はもう、こちらを見ていなかった。

「姉さん…」

 しばらく固まってしまっていた僕はようやく声を絞り出した。それでようやく我に返ることができた。僕は姉さんに駆け寄った。

「どうしたんです。姉さん!」

 姉さんは真っ赤に染まるハンカチで口元を押さえながら一瞬だけこちらを横目で見た。

 その直後、姉さんは崩れ落ちた。僕の腕が血で染まった。

「姉さん! 姉さん!」

 やっとのことで抱き留められた姉さんは小さく呻いていた。顔色がどんどん青ざめていく。突然のことに僕はどうしていいか分からなかった。


 赤く染まったハンカチが春風で揺れていた。

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