ニート姉さんと僕
姉さんのことは昔から好きだった。
僕が小学1年生だった頃、同じ小学校に通っていた姉さんは修学旅行に行くことになった。そのとき僕は姉さんがどこか遠くに行ってしまって二度と帰らないと思ったらしく、旅行の荷物にしがみついたまま泣いて離れなかったらしい。今の僕はそんなことなどちっとも覚えてないのだけれど、姉さんはそのエピソードを何度も持ち出しては僕をからかい続けている。
若い自分が起こした過ちについてそんなに引きずるつもりはないけれど、そうやって昔から僕は姉さんが好きで、いつも姉さんの後をずっと付いてきたらしい。
僕より5つ年の離れた姉さんは小学生や中学生だった僕にとって、腕力的にも頭脳的にも口喧嘩的にもとうてい敵う相手ではなかった。だからおやつのプリンを勝手に食べられたり、ランドセルの中にトカゲを入れられたり、虫の居所が悪いことだけを理由に家から閉め出されたりしてもまともな反撃はできなかったし、同じことを姉さんにやろうなんてことはついぞ考えたことが無かった。姉さんは絶対的な存在だった。でも、姉さんは単なるいじめっ子ではなかった。僕があるとき別のいじめっ子に泥まみれにされて泣いて帰ってきたことがある。それを知った姉さんは家から飛び出し、そのいじめっ子を血まみれにして、白いシャツを真っ赤に染めて帰ってきた。(当然双方の家庭で大問題になったが、血はほとんど鼻血だったことが判明した)。僕が高熱を出して倒れたときは、姉さんは自分が看病すると言ってきかなかった。(母は小学三年生の姉に、その時初めて料理の作り方を教えたらしい)。
その後、姉さんが高3、僕が中2のときに姉さんの身長を抜き去り、おそらく腕力的にも勝つようになって、姉さんもいくぶんか大人になったことで理不尽ないじめ構造は幕を閉じた。でも姉さんにとって僕は相変わらずいじめ甲斐のある弟のようで、何かにつけて命令してきたり、お説教を垂れてくるところは変わらない。僕も僕で姉さんは相変わらず“反撃可能だが”絶対的な存在として、苦笑いしながらも従っているのが現状だ。
腕力では勝って、頭脳では並ぶようになっても、姉さんについぞ勝ったことのないところがある。というかおそらく僕が逆立ちしてもとうてい敵いっこない分野、美貌だ。
姉さんは世間で言うところの美人というカテゴリーに入っている。その美貌は身内のひいき目を差し引いても特異と言うべきところで、実際言い寄る男は数知れなかったらしい。そのうちの何人かは晴れて姉さんの隣というポジションを得たようだけど、僕をいじめることで高飛車な態度が基本となってしまった姉さんはどうにもそういった対等な関係が苦手なようで、長く続いたような話は聞かなかった。話を聞かなかった、としか言えないのは姉さんがそういった人との関係を、僕をはじめ家族にはできるだけ伝わらないようにしていたからだ。僕も知り合いを通してようやくそういった情報を知ったにすぎない。
ただ一度だけ、姉さんが男と歩いている姿をはっきり見たことがある。姉さんは雑誌のモデルのような高そうな服で着飾っていて、男の方は役者のように格好いい顔と、その顔のためにあつらえたとでも言うべきセンスのいいファッションでがっちり固めてあって、まさにファッション雑誌の中から飛び出してきたかと思うようなカップルだった。それを見るまでは、僕は漠然と「姉さんが男と一緒に歩いているのを見たら、僕は嫌な感じに受け取るんだろうな」と思っていたのだけれど、霊的なほどにオーラをまとったそのカップルをいざ見るとそんなことはなかった。ただただ客観的に「美しい」という言葉しか出てこず、姉さんに対しての主観的評価というものなどどこかへ吹っ飛んでしまうような、純粋な美というもので全身が包まれていた。このときの姉さんの美しさは、今も脳裏に焼き付いて離れない。
そんな姉さんに事件が起こった。事件の詳細は後で説明するが、とにかく姉さんの心境に大きな変化があったらしい。大学に進学して3年目を迎えた頃のことだった。美人で頭脳明晰で高飛車な僕の自慢の姉さんはその頃を境にダメ人間へと変化していった。
いま、僕の目の前で泥酔していびきをかいて寝ているのは、その姉さんだ。
姉さんの生活パターンはいわゆる「ダメ人間」と呼ばれるものに近い。というより、ダメ人間そのものである。
起床するのはいつも12時から15時の間。それから酒を飲み、ネットをし、ゲームをして、酒を飲みながら朝方に就寝する。いわゆる「ニート」というやつだ。資金源は僕の給料と、自分の貯金の取り崩し、そしてたまに働いた時の給料からなっている。
「酒はいいねえ。酒は心を潤してくれる。人類の生み出した文化の極みだよ」
休日の朝だというのに姉さんはジョニーウォーカーをちびちびと飲んでいる。僕はそんな戯れ言などおかまいなしに掃除機をかけている。今や姉弟ともに大人になり、僕は2年ほど前に近所のスーパーマーケットで職を見つけた。給料手取り20万。この町の物価にしてはなかなか悪くない水準である。しかし僕にはろくに貯金などしている余裕が無い。姉さんの生活費に消えていくからだ。悪態の一つでも突きたくなる。
「非人間的な立場で人類とはまた壮大ですね」
「酒を飲むことは非常に人間的なのに、量が増えると途端に非人間扱いはどうかと思う」
一理あるが、姉さんの酒量は非人間認定してもよいくらいの量だ。
と言っても別に姉さんが並外れて酒豪とかそういうわけではない。ごく普通のレベルで酩酊してごく普通のレベルで酔いつぶれる。同じ遺伝子を持つと思われる僕にしたってそうだ。ただ、姉さんは一日の大半を酩酊して過ごしている。そして、そのために生活が普通の人間レベル以下になってしまっている。もはやアルコール依存症とでも言うべきなのだが、実際の依存症の人ほど重篤な状態ではないし酒のために凶暴になったり無理して飲むといったこともないので、単に「酔ってても酔ってなくてもダラダラするのが好きで、趣味として酒を飲んでいる」とでも言うべき軽度なダメ人間である。とは言っても病気では無いだけでれっきとしたダメ人間であることには変わりなく、ニートであることにも変わりない。こうして休日に僕が姉さんの住んでいるアパートに出かけて床の掃除やシンクの片付けをしないと、途端にゴミ屋敷の主人と化してしまうだろう。
「勝彦はいいお婿さんになるよ」
「そう呼ばれる立場になんかなりたくねえよ」
元々姉さんの性格はちゃんとしていた。綺麗好きで掃除を欠かさず、身なりに気を配り、食べ物も健康に配慮するものを摂っていた。それが今や、掃除はせず、風呂に入る頻度も低く、カップ麺をすすり、その空き容器やら麺屑やらがシンクの中に溜まっていてもおかまいなしだ。ゴキブリが出ても驚かないし、ノーメイクにどてら姿でコンビニに行くのに慣れてしまっている。最近になって、近くのコンビニで姉さんが非常に不名誉な名前で呼ばれているのを耳にしてしまった。それはあまりに不名誉で気分を害すること必至なので詳しくは言わない。
「姉さん今日は何食べたい?」
「んー、コロッケピラフ」
姉さんはこのように既存の食べ物を組み合わせたメニューを好む。姉さんの部屋でご飯を作るようになって覚えたことだ。姉さんの料理の腕はそれほど悪くなかったと思うけれど、最後に料理をしたのがいつなのか覚えていないくらい本当に料理をしなくなってしまったので、こういうときは僕が掃除洗濯の延長で炊事をすることになる。僕は別に料理が得意というわけでも何でもないけれど、普段からひとり暮らしをしていることと姉さんに食べさせることが多くなったこととで料理のバリエーションはずいぶん増えた。もちろんたまに失敗することはあるが、姉さんは文句言わずに食べてくれる。以前ピラフを作ったときは炊飯器の設定を間違えてびちょびちょになってしまった。今日の姉さんはそれを踏まえて、リベンジを期待したリクエストをしてきたのだろう。
「買い物いくけど、一緒に出る?」
僕がそう尋ねると返事は無かった。たいてい姉さんは僕が掃除機掛けをしている間、部屋の隅で布団にくるまって所在なげに座っていることが多い。
「あれ、姉さん?」
よく見ると姉さんは布団にくるまって座った状態のまますやすや寝ていた。さっき会話をしてから3分とたっていない。赤ん坊のような寝付きの良さだ。僕は諦めて一人で買い物に行く支度を始めた。
「コロッケピラフ―」
寝言らしい。
「はいはい。行ってきますよ」
このような感じでダメ人間の生活は週に一度リセットされる。こんなことをもう一年ほど続けている。
玄関に出ると、早朝には晴れていた空が雲で包まれていた。今日は洗濯物を外に干すのはやめておいた方がよさそうだった。