9th 【序曲、名は殺人】−9
二階堂の声が途中で途切れ、一瞬ノイズが聞こえた。電話が切られたのかと思ったが、そうではないようだった。気味の悪い、嫌な感じ。まさかとは思ったが、思考よりも早く視線が大賀を捕らえた。彼もそれに気付き、灰乃の方へ他の三人と一緒にやってきた。
「もしもし?」
言いながら灰乃は耳に当てた受話器を指差す。
『こんにちは、探偵さんたち』
向こうから、優雅な女性の声が聞こえた。
「どなたですか?」
『忘れられてしまったのだとしたら、悲しいわね。どうせ分かっているのでしょうけれど』
「今、オーストラリアですか」
『そういうことになっておりますわ』
「……どういう意味ですか?」
思わせぶりな答えに、灰乃も他の四人も顔を見合わせた。
『さあ?』
相手がくすりと笑う気配がした。
『そんなことはどうでもいいことです。ただ一つだけ、覚えていて頂きたいわ。――私たちは今度こそ貴方たちに勝ちます。もちろん、負けただなんて一度も思ったことありませんけど……。いいこと、灰乃警部もそこにいらっしゃる他の方も』
誰もが驚いて、目を見合わせた。まるでその様子が見えているかのように、電話の向こうでまた笑う気配がした。
『驚きようが目に見えるようですわ……。二ヶ月ほどお時間を頂きます。その間にそちらが動くかどうかは自由ですけれど、私を見付けることは不可能ですから。それじゃあ、失礼』
相手が電話を切るのを、灰乃は止めなかった。
いや、止められなかった。何もかもが唐突で、否、何かが起こるのはいつも唐突だ。何か前触れがある場合もあるが、その前触れ自体がそのときは唐突なのだ。そして唐突に何かが起こり、それが意外なことであったときには毎度毎度、まさかと思う。しかしそれが現実なのだ。
「説明がまだだよ、灰乃」
沈黙を破ったのは、巫月だった。
「ここに呼んだからには、あたしたちに話す気があるのだろう?」
灰乃は黙って頷いた。
「もちろん、全て知ってもらう必要があります。ですがそれは同時に権利でもあります。その代わりと言ってはおかしいかもしれませんが、これから話す事を聞いた時点で協力するということを承諾したことになります。それは、お分かり頂けますか?」
大賀、巫月、空子の三人はいずれも毅然とした表情で頷いた。
まず、加刈尋江を紹介した。一度擦れ違っただけの大賀以外は彼女と一度会っている。
そして「九条ナツ」の脱獄に関して、先日起きたレストランオーナー殺人事件とのことを話した。
「なんや、それ……」
聞き終わって空子がまず呟いた。妥当な感想だと言えるだろう。大賀は舌打ちをしただけで、巫月は小さく、しかし鋭く溜め息をついた。
長テーブルに乗せていた掌を、急に平たいその面に叩きつけて空子は灰乃の胸座に掴みかかった。
「何でそんなことになるん!? もう、四年前に終わったはずやんか!」
左目にかかった髪の毛が横に流れ、視力を失ったはずの目が灰乃を睨んでいた。見えていないはずなのに、肉眼では見えない何かを捉えて瞳に映しているような、そんな幻想が浮かぶ。
灰乃は胸元の手をどかしながら、
「なら終わっていなかったということです。ただ、それだけですよ」
「どうして終わらないんだろう」
二人を見ずに、巫月が呟くように続けた。
「まるで螺旋みたいだ。進んでも進んでも終わらない、綴じることのないものだから……きっと終わらない。螺旋の先を作る人がいなくならない限り……。――なんて、馬鹿みたい」
そう言って巫月は皮肉げに笑ってブロンズの前髪をかき上げた。
空子が灰乃から離れて、髪を直しながらしゃがみ込んだ。
「なんや、泣きそうになってしもた……」
しばし誰も何も言わなかった。音を通さない造りをしているその場所は、ただただ静かなだけの空間になってしまった。少し経つと、小さく鼻を啜る音が聞こえた。
「――ごめん、あたし帰る。戻ってやらなくちゃいけないことが山ほどあるから。構わないだろう?」
言いながら巫月はもうドアの方へ歩き出していた。
「ええ、どうぞ。ただし用心してください。何かおかしなことがあればいつでも連絡を」
「分かってる。大賀、お前もだよ顧問弁護士」
ドアを開けながら少し振り返って大賀を見る。
「ああ……」
大賀も彼女の後を追って部屋を出て行った。ドアが閉まったあと、空子がゆっくり立ち上がった。目尻には涙のような液体が少しついていた。それを拭いながら彼女は言う。
「あの子、いっつもあんな顔しとる。だけど不安じゃないはずないよな、あたしも巫月も大賀も灰乃も、二階堂も。――警察がどうにかするん?」
「どうでしょう。今はまだ分かりません。必要になったときにはまたお呼びします。今日は十島さんも、お帰り頂いて結構です」
「分かった。ほなな」
ひらひらと手を振ってドアへ向かい、ノブに手をかける。しかし空子は一瞬止まり、振り返った。目を臥せがちに、
「今度こそ終わらせるんや」
誰にともなく言って、そのまま会議室を後にした。
後に残ったのは灰乃と尋江だけだった。
「私たちも戻りましょう」
尋江は黙って頷いた。
* *
翌日、メディアを傍観しかつその事件に関心があった人々と、一部を除いた警察関係者にとっては意外な形で、Nホテルレストランオーナー殺人事件と銘打たれた事件が幕を下ろした。
碓井耕一の死は事件ではなく、自殺であるという結末であった。
その終わり方に疑問を持った人間も多かった。しかし彼らを納得させたのは、警視庁の捜査員である灰乃郁風が発見したという「遺書」だった。もちろん事実はもっと別にある。
捜査本部にいた人間たちには、真実について堅く口止めが施された。それは九条ナツの脱獄であったり、事件の犯人であったりその他諸々である。
「真実を晒すことはできない」
それが上層部の出した結論だった。「九条ナツ」が脱獄した事実が知れたら、パニックが起きるかもしれない。事実、彼女が事件を起こしたときには、どこにいるのか分からない凶悪犯に人々は怯え、もしすぐに彼女が逮捕されなかったら暴動が起きていたかもしれなかったのだから。
真実を晒せば――何が起きるか分からない。
例え九条ナツの脱獄が事実でも――確かにそれは事実だが――それは知らないほうが幸せなことなのだ。そういう事実もときには存在する。
「それから、これは僕の憶測なんですが、碓井耕一の事件が起きたとき、彼の死が自殺だったとすでに知っていた人間がいたと思われます」
「なぜ?」
大賀は問い返した。
店内はうるさい。お好み焼きが鉄板の上で焼ける音や、コップをぶつけ合って乾杯する音、たった一人で注文を受けて回る女店主の張り上げられた声。しかし二人とも声を大きくすることはせず、お互いに聞こえるやっとの音量よりは上げない。
「現場を見たとき、おかしいとは思ったんです。どこにも……他殺と思われる物証が見当たらない。もし『殺人だ』と聞かされずに現場へ行ったなら、僕はその現場を自殺として処理していたでしょう」
現場には碓井耕一の死体が横たわり、周囲には現場にあったと思われるダンボールと中身が散乱。不審人物の目撃情報もない。
「確かにそうだな……」
頷きながら大賀はビールを飲んだ。もう酔ってきたのだろうか、ジョッキの中の液体の減るペースが早い。そして、
「ったく、何なんだろうな……」
そう呟いた。
灰乃は水割りを、大賀はビールを飲んでいた。店にもよるがだいたい灰乃は洋酒の水割りだとかワイン。大賀はもっぱらビールだ。その飲みッぷりをいつだったか二階堂和麻が「親父臭い」と評価したことがあったな、と灰乃は思い出していた。
そして顔を大賀に向けて、問う。
「何がです?」
「どうして――いや、もう訊かないことにしたんだったな、これ」
大袈裟に溜め息をつく。
店は騒がしい。馴染みのお好み焼き屋で、人柄のいい店主のおばちゃんも客たちも知っている人間ばかりだった。いつもは気兼ねが要らないから、肩が凝らなくていいのに、今日はこの喧騒が耳障りに感じる。それは灰乃に限ったことではなくて、大賀も同じだろうと感じた。
不意に大賀が伝票を掴んで立ち上がった。
「出よう」
灰乃は手を差し出して、
「僕が」
と支払いをする意を示したが大賀は、
「割り勘だ」
そう言って先に会計を済ませにレジへ行ってしまった。灰乃は苦笑しながら頷くしかなかった。
今日は早いんだね、という女主人、通称「おばちゃん」がかけた声に適当に答えながら、二人は会計を済ませて店から出た。
「二ヶ月だと」
どこへともなく歩き出しながら大賀が呟いた。いや、話しかけたのかもしれない。どちらだろうと考えながらも、
「ええ」
いつのまにか灰乃は答えていた。
大賀がなにか言いかけようとしたが、結局何も言葉にせずに口を閉ざした。
沈黙。無言。その時間が思考を呼ぶ。まるで自然現象。望んでなどいない思考、考えることを、今は拒否したい。せめて今夜だけは。
きっとまだ何も起きないから。
「俊佑」
顔を向けず、隣に呼び掛ける。
「今日は飲みましょう」
「ったりめーだ」
今夜は酔わなくてはいけない。思考を遮ってくれる何かが必要だった。それは灰乃だけでなく大賀も同じ。
歩き続ける足元を見ていた視線を、上にあげた。
せめてそこに星空があったなら。もしくは満月が漂っていたなら。
「夢だったらいいのに……」
呟き。
星や月があったらどうだと言うのか。せめてもの慰めにでもなったというのか。
「ん?」
間をおいて大賀が顔を上げた。
「夢だったらよかったのに、と言ったんです」
「残念だったな」
夢じゃなくて。
「やめようぜ、考えるの。考えても不毛だ。どうして巻き込まれるのが俺たちなのかなんて、俺は知りたくもないしな、今は」
灰乃は力なく頷いた。いつもの笑みが、今は力ない。その顔を横目で見た大賀は、
「…………」
何も言わなかった。
ただ、頭の中では四年前のことが思い出され、リプレイされていた。
ぐるりぐるりと螺旋を転がり落ちていくビー玉を彷彿とさせる。螺旋はこれまで辿ってきた道、ビー玉は彼らの意識だった。
それほど飲んでなどいないのに、もう酔ったのだろうか、と灰乃は頭を振った。
一章【序曲、名は殺人】 2007/10/29