8th 【序曲、名は殺人】−8
誰もが黙したまま、微動だにすることを許されていないかのようだ。静まり返った捜査本部内で、灰乃郁風だけが動いていた。
灰乃は捜査本部長の宇都宮の目の前に、ビニール袋に入った三通の封筒と便箋を差出た。便箋の最後に書かれた差出人の名前が見えるようにして。宇都宮は、正に苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「九条ナツが脱獄したのは、いつです」
「脱獄? まさか、そんなことがあるはずなかろう」
宇都宮はせせら笑ったつもりだったのだろうが、その頬はひきつったように痙攣していた。彼だけではない。灰乃と尋江、そして田所以外の刑事たちも彼と同じように、馬鹿らしいとでも言いたそうな目で灰乃を見ていた。
「それはこちらの台詞です、宇都宮本部長」
「そんなに言うならば、何か証拠があるのだろうね。その九条ナツの脱獄に関する」
「この手紙をお読みになれば分かります。三通とも確かに宛名はそれぞれ茂木強、宍戸夫妻、碓井耕一になっていますが、手紙の内容は我々に向けられたものです」
いまいち信じていないような目で、宇都宮は灰乃から手紙へ視線を落として文字を目で追い始めた。
親愛なる警察諸君へ
すっかりご無沙汰してしまっているが、おかげさまでこの通り外で自由に暮らせている。
貴殿たちへ謝辞を申し上げなければならないだろう。
私を狂人扱いし、精神鑑定を理由に裁判を先延ばしにし、
果てには死刑すらも免れることができたことに対して。
貴殿たちへ、というのは間違いだろうか?
正確には、貴殿たちの愚かさへ、とでも言い直そう。
最後に、一つ貴殿たちの間違いを指摘しよう。
それは、私をあんなちゃちな監獄へぶち込んだことだ。
いずれまたお手合わせ願おう。とはいえ、役に立たない連中なんぞ送ってくれるな。
いくらでも骨のあるのが好みだ。あえて名前は出さないがね。
まるで警察を嘲笑い、馬鹿にするかのような内容と口調でそれは書かれていた。三通とも同じ内容、同じ筆跡であった。手紙の最後には、「九条ナツ」と署名があった。
「こんなもの――」
「筆跡鑑定にも回させて頂きました。データに残っている九条ナツの筆跡と、ほぼ完全に一致しました」
宇都宮は苦しげに次の言葉を飲み込んだ。そしてなぜか一度、灰乃の斜め後ろにいる加刈尋江に視線を投げた。灰乃がその視線を追うと、尋江が微かに頷くのが見えた。
「……一ヶ月前だ」
観念したように宇都宮が呟いたとき、微かに捜査本部がざわついた。
「公表すれば混乱を招く、そうお考えだったのですね」
「その通りだ……」
宇都宮はまだ何か言いたそうだったがその先は口を噤んだ。代わりに灰乃が口を開く。
「だとすれば、今回の事件の犯人は存在しない事になりますね。彼女が刑務所に入っているということになっているならば、不可能な犯罪ということに……碓井耕一を殺したのは、九条ナツです」
誰も何も言わなかった。
「あの日、関係者以外の人間が現場の倉庫に入ったと言う情報はありませんでした。だとすれば関係者が犯人だと見るのは当然のことです。ある運送業者が荷物を運んできたので手の空いていた碓井さんが自ら倉庫へ案内してやったそうです。夕方の人が入り始めた時刻で、誰もそちらに注意を向けなかった……誰も、その運送業者が出てくるところを見ていないのです」
「つまり、その運送業者が九条ナツだったってわけか。殺した方法は……そうだな、クロロフォルムで眠らせて無理やり飲み込ませるか、強引ならチューブを喉につっこんででも、何とでもなるな」
奥からこちらへきた田所が言い、灰乃は頷いた。そして宇都宮に向き直り、
「もし九条ナツがちゃんと刑務所にいるというのなら、この事件の捜査はこのまま進めていかなければなりませんね」
灰乃は言った。
* *
ところ変わって、海の向こう。
オーストラリア、シドニー空港のロビーにブロンズの髪の日本人女性がいた。このような容姿の持ち主は、栗栖巫月しかいないだろう。 両脇に屈強そうなボディガードを二人と後ろに秘書らしき人間を一人連れているその一団は、混雑した空港のロビーの中でもかなり目立っていた。
「巫月様、外に迎えが」
そう告げる秘書は井月瑠璃子ではない、男であった。
その秘書の言葉通り、空港の外には大きなリムジンが停まっていた。巫月の姿を認めてか、助手席から背の高い中年の男が出てきた。
「お久しぶりです、栗栖様。加刈です」
「わざわざ出迎え感謝します」
男は加刈と名乗った。加刈尋紀というこの男は、これから訪ねる二階堂和麻の父親の秘書をしていた男だ。今は二階堂和麻の秘書をしている。そして警視庁の灰乃の相棒である加刈尋江の父親でもある。
加刈がドアを開け、巫月たちはリムジンの後部座席へ乗り込んだ。当然のように、一般人には車内とは思えないような空間が広がっていた。
「二階堂様はホテルでお待ちです。お送りいたします」
しばらくリムジンで走り、二十分ほどのところにある大きなホテルの前で車は停まった。加刈が降りるより先に巫月のボディガードが降りて、巫月をエスコートして降ろした。
このホテルの最上階に部屋をとってあるという。二階堂もそこにいるそうだ。
ホテルの中は、正に異国。古代ギリシャのイオニア式を模したような優美な内装で、中央には噴水があり、周囲は植物に囲まれている。そこにいる巫月はまた美しさが映えていた。
吹き抜けのエントランスの一番見晴らしのいい場所にエレベーターがある。
技術の進歩を感じる速さでエレベーターは最上階へ到着した。
予約のある部屋はロイヤルスイートだと言う。なるほど、当然のように部屋は広かった。中では、大人にしては割りと小柄な男が、子供っぽいような人懐こいような笑みを浮かべて、待っていた。加刈に下がるように言って、巫月たち一行を迎え入れた。
「やあ、巫月さん。こんな遠いところまでわざわざありがとう」
「こちらこそ、招いてくれたことに感謝するよ」
「いえ……ところで、今日は井月さんが一緒じゃあないんだね」
「まあね」
手を離してなぜか携帯電話を取り出した。
「おかしいな。巫月さんは女性の部下しか連れて歩かなかったはずなんだけど。あんた誰?」
巫月――いや、目の前の見知らぬ女性は不適に笑った。
顔は確かに栗栖巫月だ。しかしそんな笑みを浮かべる巫月を、二階堂は知らなかった。
「その電話、どなたに繋がるのかしら。いえ、聞かなくても見当はつくわ……そう、灰乃警部辺りが妥当なんじゃなくて?」
その声は、その口調は、すでに栗栖巫月のものではない。
クーラーが聞いているスイートルーム、嫌な汗が出てくる。携帯と掌との接触部分からじわりと汗が出てくるのが分かる。そしてこの豪華な部屋に似つかわしくない雰囲気が漂っていた。
「だけどそのボタンを押すよりも早く、うちの子たちが貴方を殺してしまうと思うの。できればここで舞台のメインキャストを減らすような真似だけは私もしたくないの。だからその電話、貴方の懐に返して頂けないかしら」
「それはおれが何もしなければ、君も何もしないということだと思っていいね」
「もちろんだわ、二階堂和麻さん」
二階堂は携帯電話を素直に懐にしまい、その女性にソファに腰掛けるよう促した。
「先ほど私が誰なのかお尋ねになりましたけど、ご存知でしょう」
「うちの情報屋が間違っていなければ、本物の栗栖巫月さんはまだ日本にいる。まだ未公開の極秘情報によれば、『九条ナツ』が脱獄したとか。ならあんたは九条ナツなんだろうなと思っただけだよ」
「もうすぐ怖いおじさんたちが来ると思って。あら、灰乃さんにおじさんは失礼かしら」
「あんたの方が、十分怖い。おれを殺しに来たわけじゃないね」
「ええ、ただ逃げてきただけなの。逃亡先が海外なんて、メジャーでしょう?」
上品に口元を手で覆い、彼女は笑った。
「だけどあなたがその情報を持っているということは、ここも安全ではなくなるということ。そろそろお暇しなくては」
「最後に一つだけ、聞いてもいいかな――?」
「何かしら」
「どうして君は今さらここへ来た?」
「ここ? オーストラリアへということ?」
「それもだ。だけどもう一つ、どうしておれのところに来たのか」
「その答えは限りなく等しいに近いわ。オーストラリアへ渡ることを決めたのは、私の計画が思い通りにいったからというのと、貴方という人がここにいたからよ」
「日本で灰乃が捜査している事件は君が――」
「あら違うわ。惜しいところをついていらっしゃるわ。確かに事件が起きるように仕向けたのは私ですけれど、私が直接手を下したわけではありません。――さあ、これで貴方も私に再び関わらざるを得なくなりましてよ?」
途端、二階堂は背筋が凍りつくような寒気を感じた。肩が跳ね上がるほど、九条ナツの放った笑みが冷たいものだったから。
まるで時が止まったような瞬間だった。いつのまにか九条ナツはドアから出て行こうとしているのに二階堂は気付いた。
「ちょっと……!」
思わず彼は立ち上がって彼女を呼び止めた。黒服の男たちに囲まれた彼女は、ドアの前で立ち止まって振り返らずに、僅かに顔を横に向けただけで、
「またお会いしましょう。次は日本で……」
そう言って部屋を後にして行った。
彼女が出て行き、車に乗って出発したのを窓から見下ろしてから二階堂はソファに崩れ落ちるように座り込んだ。
まるで、一か月分の疲れと緊張が今の数十分の会談のうちに襲ってきたかのようだった。だが二階堂はすぐに立ち上がり、部屋の電話を取って秘書の加刈を呼んだ。
「どうしました? 栗栖様はもう帰られたのですか」
「うん、彼女は帰ったよ。日本へね」
「え、もう?」
「加刈、灰乃郁風に連絡をしたいんだけど、できるかな」
「もちろん可能ですが……なぜです?」
「今は何とも。彼に連絡をしてから、話せることだけ話すよ。だから頼む」
いつになく必死に頼み込む二階堂の様子に、訝しげな顔をしたものの加刈は頷いて一旦部屋を出て行った。
そうしてすぐに部屋の電話が鳴った。
『灰乃さんにつながりました』
「ありがとう」
少し間があって、相手が電話に出たのが分かった。
『灰乃です』
「おれ、二階堂和麻だよ。久しぶりだね」
『そろそろだと思っていましたよ』
「分かっているなら話が早いや。周りには誰が?」
『今、警視庁の会議室にいます。私の他に四人……栗栖巫月さん、十島空子さん、大賀俊佑、それに加刈尋江刑事』
「いろいろ説明してもらえるかな」
『それはもうこちらから願い出たいことですが、物騒な時代ですからできることなら直接お話したいと思います。日本へはいつ?』
「明日にでも発とう。早い方がいい」
『分かりました。こちらから迎えをやります』
「分かった。それじゃあ明日」
そう言って電話はすぐに切れた。いつも礼儀を重んじる灰乃にしては珍しいとは思いながら、しかし今の状況では仕方ないことかと二階堂は納得して受話器を置いた。まるで浮かんだ嫌な直感を捨て去るかのように強く。