6th 【序曲、名は殺人】−6
取調室の中、空子は機嫌を損ねた子供のごとく、唇を尖らせて刑事から目を逸らしていた。担当になった刑事たちはまたも困惑するしかなかった。
空子がふて腐れるのも当然といえば当然である。灰乃が捜査本部にいると思って来てみれば、彼は本部のメンバーから外されていたのだ。それを聞いてからというもの、空子は何も話さなくなった。
「否定もしないと、あなたにとって不利になりますよ、十島さん」
取調べにあたっている刑事は、四十代ほどの男で、相川と言った。
なおも空子は何も言わずに黙っていた。こうしていて、もう一時間近く経っただろうか。
刑事もさすがに疲弊の色を隠せず、溜め息を漏らして周りと視線を交わす。そのとき、取調べ室のドアが開いて、一人の女性が入ってきた。若いな、と空子は思った。
「相川さん、代わります」
「しかし……」
「女は女同士の方が」
渋っていた相川も、その言葉に頷いて周りの男刑事たちと共に取り調べ室を後にした。女性は隅にいて調書を書いている女性にも、出ているように言った。
「加刈と申します」
「ああ――確か、事情聴取のときに灰乃と一緒におった……」
「ええ、覚えていて下さいましたか」
「知り合いによう似とったからなぁ。父親は二階堂銀行で、まだ秘書さんか?」
「そうです。ところで、こうしていられる時間もあまりないでしょうから、本題へ」
「そやなぁ……灰乃がおらんのやったら、仕方ないなぁ。何でも聞いて」
「感謝します。とはいえ、あなたが無実であることは我々も承知です。ただなんとしても犯人を挙げなくてはならなくて、上司が焦ってるだけなんです。ご勘弁を。しかしすぐには帰れないでしょう」
「分かっとる。本題は?」
尋江は持ってきた資料を黙って捲った。
「……灰乃郁風、大賀俊佑、栗栖巫月、二階堂和麻、そしてあなた」
「何やて?」
「私が今ここであなたと話をしているのは、Nホテルのレストランで起きた殺人事件のことだけではありません。むしろそれを越えて聞かなければならない、これが私の任務です」
空子は、尋江の言っていることが嫌と言うほどよく理解できた。背中を汗が伝う――できることなら触れたくないとは思っていた。だが触れなければならないとも分かっていた。
「あんた、何者や?」
「今はまだ早すぎます。ただ、誰にもこのことを言わず、私に協力してくださればそれでいいのです」
きっぱりと尋江が強気に出た。やがて二人の間には、鼓膜が破れるかと思うほどの沈黙が流れた。
* *
そのころ、警視庁に設置された「Nホテルレストランオーナー殺人事件」の捜査本部では、捜査に進展があった。
事件のあった日、同じフロアの式場で行われていた結婚式があった。新郎、宍戸洋平。新婦、笹本凌子。
新郎の宍戸洋平は証券会社を経営している四十二歳の若社長である。会社自体は父親から譲り受けたものだが、その父親は三年前に癌で死亡。
新郎について特記する点といえばこれぐらいで、たいしたものではない。ただ今回捜査に影響を与えたのは新婦の笹本凌子の方である。
笹本凌子は離婚歴がある。しかもつい最近のことで、別れる以前の苗字は茂木――元の夫は、事件の日にレストランにいたK2社の社員であった茂木強であった。
ここで浮上した仮定が、茂木強はオーナーの碓井に呼ばれたのではなくて元の妻である凌子の結婚式のあったホテルに来ていただけではないか。とすれば、取調べのときになぜそう言わなかったのか。ますます茂木に対する疑いは深まった。本部の中には、茂木は凌子を恨んで殺そうと思いホテルに来たが、それがレストランのオーナーである碓井に、何かの拍子にばれてしまって殺してしまったのではないかと考える人間もいた。
結局、本部ではその線が濃いとして捜査を進める方針を固めた。
会議に参加していた加刈尋江は、やはり灰乃へ連絡を入れていた。
灰乃は尋江からの連絡を受けて、ある女性の家を訪ねていた。高級住宅地の一角に佇む、その中でも一際目を引く豪邸。
彼女の名前は宍戸凌子。まだ三十代の若い女性で、成金の奥様というより貴族の夫人という形容が似合う。突然の招かれざる客にも、嫌な顔一つ見せずに茶を淹れる姿は、昔からそういう環境で育った麗々しさを感じさせる。
綺麗なティーカップに注いだ紅茶を灰乃の目の前に差し出しながら勧め、その女性は灰乃の向かいに腰掛けた。
「突然申し訳ありません」
灰乃は突然の来訪を詫びた。
「いいえ、構いません。ですけど、私がお話できることは先に来た刑事さんにお話しましたけど……まだ何か?」
「ええ、一つだけ。失礼なことをお聞きするかもしれませんが」
「私でよろしければお答えします」
「ではまず、Nホテルで殺人事件があった日に、元の夫である茂木強氏がレストランに来ていたことをご存知でしたか」
「先ほど来た刑事さんにもお答えしたのですけど、それは知りませんでした。来ていたとしても会って話すこともなかったでしょうし、私には関係ありませんわ」
「そうでしょうか」
「え?」
灰乃が逆に尋ね返したことに、凌子は驚いたようだ。一重の目が見開かれる。
「貴女が関係ないと思っていても、相手はそうではないかもしれません」
「え、ええ……それはそうですけど」
「離婚は裁判で?」
「はい、弁護士の方にお願いしました。結局示談で済んだのですけど」
「離婚の原因というのは……差し支えなければお教え頂けませんか」
「裁判に関することでしたら、大賀さん――弁護士の方にお聞きくださればいいかと思いますが。彼に全てやって頂きましたから」
「分かりました。では次で最後にしましょう。被害者である碓井耕一氏と接点は?」
「存じません」
「宍戸洋平さんはどうでしょう」
「あの人がですか? いいえ、聞いたことはありません……」
凌子は言いながら不安になってきたようで、語尾が小さくなっていった。そして不安げに眉根を寄せて、
「あの人も事件に関係あるのでしょうか」
と聞いた。
「それはまだ分かりません。もしご主人からそのようなことを聞いたり、何か他にありましたら私まで連絡ください」
言って灰乃は初めて手帳を取り出して、一ページ破ってそこに自分の携帯の電話番号を書き記した。それを凌子へ手渡しながら、
「それでは失礼します。今日はありがとうございました」
凌子に見送られながら、灰乃は宍戸邸を後にした。一度振り向くと、二階の出窓のカーテンの隙間から誰かがこちらを伺っているように見えた。
* *
巫月がオーストラリアへ発ち、置いてけぼりを食らった大賀は、大きく快適なK2社では居心地が悪いといい、自分の事務所へ戻ってもらってきた資料の整理にあたっていた。こういう作業は嫌いではない。雇った人間など一人もいないのにも関わらず、事務所内がこぎれいに片付いているのは、そんな大賀の性格のせいだろう。
無心に資料整理をしていると、何の前触れもなく事務所のドアが開いた。特に休みの報せも出しているわけでないし、そのこと自体へは驚きはしなかった。だが、
「大賀俊佑さんの事務所はこちらですか」
と僅かに笑みを含んだ声がして、大賀は慌てて振り向いた。
「お前、何してんの?」
「捜査ですけど、いけませんか」
「いけないわけじゃねーけど……」
柔らかに笑みを浮かべた、スリムで割りと長身の男が――灰乃郁風が、そこに立っていた。
「捜査本部から追い出されたって、あれは嘘だったのか?」
大賀は取り落とした資料を拾いながら尋ねた。
「本当ですよ。本部に縛られないで自由に捜査しろということだと、勝手に理解している次第です」
「まじかよ……」
呟く大賀を尻目に、灰乃は窓辺に寄った。
「まあ、監視がつくのは仕方ないことでしょうけど」
大賀も隣へ寄って窓から下を眺める。灰乃が知っていると分かってか、かなり大っぴらにしているようだ。まるで姿を隠そうとしていない。
「呆れたもんだな」
「隠れないことですか? それとも、僕の捜査を止めようとしないこと?」
「どっちもだ。――コーヒー飲むか? インスタントだけどな。どうせ聞くことがあるんだろ」
「お願いします」
灰乃はもう一度視線を見張りの二人へ流して、窓から遠ざかった。
ソファに腰かけ、一息つく。捜査本部から離されたことは、一課の誰もが知っている。誰もそのことで話し掛けてくることもないし、影で何か言う事もない。ただ、息が詰まるようで嫌なのだ。正直、できるならあの場へは極力戻りたくないと思ったりもする。
「しんどいのか?」
目の前に差し出されたコーヒーに、顔を上げる。大賀が立ったままカップに口をつけていた。
「そう言う顔してる。知らねぇぞ、倒れたって」
「そんなことないですよ。気にしすぎです」
「そんなもんか? まあいい。それで、話は?」
大賀は灰乃の向かいに腰掛けて尋ねた。
「この間会ったときに言っていた、離婚調停の話ですけど。もうご存知では?」
「茂木強か? K2社の社員だった男だ。確かに俺は、旧姓茂木凌子から依頼を受けた」
「内容は?」
「DV――ドメスティック・バイオレンスと言えば、大体の内容は分かるはずだけどな」
「ああ……。そういえばさっき僕がきたとき驚いてましたけど、僕のほかに刑事は来ていないんですか?」
「ああ、来てない」
「呆れましたね。十島さんを仕留めていい気になってるんでしょうか」
一瞬、沈黙があった。灰乃が大賀の顔を見ると、なぜか彼は不思議そうな顔をしていた。
「お前、それ本当か」
「そんなに驚くことではないと思いますけど。あの中にいた人間の中で現在も医療に従事し、毒物に詳しい人物は彼女だけでした。他の医大時代の友人というのは皆、内科や眼科で――」
「そんなことが気になるんじゃない。その情報はどこから入ったんだ」
「なぜ?」
大賀はコーヒーカップをテーブルに置き、本腰を入れるように構えた。足の上で手を組み、顎を乗せる。
「なあ、郁風……お前本当は気付いてるだろ」
「何のことですか」
対して灰乃はあの微笑を浮かべたままで答える。
「殺人事件自体は、もしかしたら大したものじゃないかもしれない。むしろそうだと思う。それなりに一般的で、特に猟奇的ではない。だけどその背景で何かが動いてること――お前が気付かないはずがないんだ。当事者でもない俺がそう感じるのに。もしあの四年前のことが関係しているとしたら――」
「俊佑、あまり深く勘繰らない方がいいかもしれません。どこに、何があっても、おかしくありませんからね、我々の周りは」
灰乃は立ち上がってコーヒーの礼を言った。
「帰るのか」
「ええ、今日はこれで」
大賀は特に送り出すこともせず、その場で見送ることにした。
「それでは」
「じゃあな。気を付けて帰れ」
来たときと同じ笑みを浮かべて灰乃が出て行くと、大賀は大きく息をついた。
十島空子が任意同行を求められた事実を、本部から外された灰乃へ教えたのはおそらく加刈尋江だ。いくら上司と部下の関係であったとしても、彼女のその行動は捜査本部には歓迎され得ないもののはずである。だから誰かが彼女を咎めてもおかしくないはず。むしろ彼女こそが本部から外されてもおかしくないと思うのだ。だがそうならないということは、彼女の背後に何か力が働いていると仮定できる。
今回の事件、上手い具合に十島空子、栗栖巫月、灰乃と大賀の四人が関わっている。一人欠けてはいるものの、四年前のあの事件に関わった人間が揃っている。
「いや、欠けてなんかない――」
確か茂木強と結婚する前の凌子の仕事は、二階堂銀行の行員だ。
不吉なこの符合――単純な殺人事件、この背後に何が動いているのか。
そして今日やって来た灰乃。どこか様子がおかしかった。まさかたった一つ聞くために大賀のところへやって来たと言うのか。それに、何か大賀をこの事件から遠ざけようとしているようにも彼には感じられた。
「どうした、郁風……」
一抹の不安が、胸に生まれた。