5th 【序曲、名は殺人】−5
「警部、あの方は――大賀俊佑さんですよね」
警視庁へ戻る途中で、尋江が言った。
「ええ、そうでしたね」
「なぜ来ていたのでしょうか」
「聞きたいですか?」
「警部はご存知なんですか?」
灰乃の答えに尋江は本気で驚いたように問い返した。
「長い付き合いですから。とは言っても、本人が気づいてないんですけど」
「はあ……」
「聞きますか?」
「いえ、遠慮します。なんだかややこしそうで」
「賢明な判断ですね」
と灰乃は苦笑した。
「それより、これからどうするんですか、警部。上には目をつけられてますし、栗栖さんにも追い出されたような状況です」
尋江は溜め息をついて、空を僅かに仰いだ。
確かに、茂木が関連している可能性があると分かってからというもの、その捜査を始めた灰乃は上層部に目をつけられている。
「そうですね……加刈さんは、どうします?」
「私は警部について行きます」
「貴女がそれでいいというなら、私は構いませんが」
何か含んだような灰乃の言い方に、尋江は不審に思って尋ね返す。
「何が仰りたいんですか」
「分からなければ、お父様にでも聞いて頂ければよいかと思います」
そこで尋江ははっとしたように立ち止まった。灰乃は気に留めるでもなく、ただ歩き続けた。ふと横のビルを仰ぎ見ると、そこには二階堂銀行の支店が建っていた。
警視庁へ戻った灰乃は、すぐに捜査本部へは戻らず、一課の自分のデスクへついた。遅れて尋江も戻って来る。
パソコンを開いた灰乃のデスク上に、湯気の立つコーヒーが置かれた。
「ちょうどコーヒーを淹れてたところだ。とは言っても、インスタントには違いないが」
そう言って自分もコーヒーを飲む男は、捜査一課長の田所だった。
「ありがとうございます」
田所は灰乃の隣の椅子に腰掛け、小さな声で言う。
「お前、気を付けた方がいいぞ灰乃。気付いているとは思うけどな」
「田所課長……」
「俺だって刑事だ。尾行する側では、プロだからな」
灰乃はちら、と一課の入り口を見遣る。
「見るなよ」
「いいえ、あちらも私が気付いていることを知っているはずですから、構いませんよ」
「本当か? なら話が早いな。猿芝居ってか。ありゃなんだ、お前の味方かそれとも敵か?」
灰乃はあえてその問いを無視した。
「敵、なんだろうな」
コーヒーを一口飲んで田所はそう言った。そして立ち上がって灰乃の肩を軽く叩き、課長デスクへ戻った。
尾行に気付いたのはついさっきだ。向かうときは気付いていなかったが、K2社からの帰り、そう、大賀とぶつかったときに気付いたのだ。あのときもしもあの場で立ち止まったりしなければ、玄関外にいる二人の刑事の不審な動きに気付きはしなかっただろう。
そしてそのとき、確実に刑事の一人と目が合った。相手は慌てて目を逸らしたが、灰乃はその顔を知っていた。同じ捜査本部の人間だった。おそらく上司に言われて、灰乃を尾行するよう言われたのだろう。
K2社との事件の関連が、それほど重要視されることだろうか。
ふと灰乃は疑問に思った。
確かに政治家とのつながりはあるだろうにしても、多少の政界とのつながりはどの企業にだってあるはずだ。事件によって警察組織に圧力がかけられる理由が分からない。だとしたら、上層部がこれほどに灰乃の行動を監視する理由とは何なのだろう。
「この事件に裏があるか、僕自身に何かあるか――」
灰乃は珍しく独り言を呟いた。見ているとも知れぬ相手に向けるかのように。
翌日、いよいよ灰乃は捜査本部から外された。独自で捜査していたことは本部全体の環境を乱す、そう言いたいのだろう。
当然このことは外部にも知れ、マスコミがすぐに報道した。
灰乃はそれでも捜査を止める気はなかった。上層部もそれくらいは分かっていたはずである。だがあえてそうしたのは、世間体を気にしてのことだったのだろうと灰乃は思った。
改めて灰乃は事件のあった現場へ向かった。今日からは加刈尋江を連れて行くこともできなくなった。
現場のNホテルのレストランは、まだ休業中だった。立ち入り禁止の黄色いテープが張られたままになっている。灰乃はそのテープを潜って中へ入った。
事件があった日の夜、人が死んでいると管轄の警視庁に通報があり、灰乃が現場へ駆け付けた。しかし灰乃が駆けつけたときにはすでに救急隊が到着して、病死との診断が出ていたため、灰乃たちの出番はないと思われた。
とりあえず一度現場を見てからということになり、灰乃は部下を連れて現場となったレストランの倉庫へ向かった。
毒物を体内に摂取したその苦しさにもがいたのだろう、遺体周辺には倉庫にあった備品が散乱していた。
このレストランのオーナーである碓井耕一がこんな倉庫にいるのは、いささか不自然であると灰乃は感じていた。
その後の取調べでは、レストランにいた人間全てに聴取を行った。その人数は、従業員や客を全て含めて五十人ほど。一人に掛る時間が十分程度だとしても八時間はかかる計算だ。
その大部分の人間は、事件については救急隊が来るまで知らなかったと言うし、それ以上聞いても何も目ぼしい情報は見つからないと思われた。
しかし、そんな中で気になる人物が一人だけいた。一人で来ていたと言う、茂木強である。彼は自分をK2社の社員であると名乗り、自分は死んだ碓井と知り合いだと漏らした。話によれば、大学時代の友人だとかで、レストランのオーナーになったから一度来て欲しいと言われてその日はレストランにいたのだとか。
「碓井が死ぬとはね……」
焦点の合っていないような目でそう呟いたことを、灰乃は鮮明に覚えていた。
調べてみると、確かに茂木と碓井は同じ大学を卒業しているが、学部は違う。自分のレストランに碓井が彼を招くほど、二人は親しかったのかどうか、疑問に思えた。
茂木強は事件の重要参考人として捜査線上に浮上した。
そしてもう一人、気になる証言をした人間がいた。十島空子、大阪府警の監察医で、レストランへは医大時代の友人と一緒に来ていたらしい。
「男一人でレストランに来るもんやろか。それが気になって、あたし、あの男のこと何回か観察しててん」
あの男とは、茂木強のことである。
「そしたらな、何回もちらちら時計見てて、まるで誰かと待ち合わせしとるみたいやったで。もしかしたら誰かと会う予定やったんと違うか?」
茂木が一人でレストランにいたことについては、碓井に招かれたという点で説明がつく。だが空子の言うように、時計を何度も気にしていたという点は気に掛った。確かに誰かと待ち合わせしてるような行為ではある。
灰乃は現場の棚の裏や下の隙間まで隈なく探したが、新しい手がかりは一つもなかった。諦めて帰ろうとしたとき、灰乃の携帯が鳴った。
「灰乃です」
『警部、加刈です。本部に進展がありまして、容疑者候補として十島空子……さんの名前が挙りました』
「……そうですか。分かりました、ありがとうございます加刈さん」
『いえ。それより警部、今どこにいらっしゃるんですか?』
「私は一人で捜査活動をしてますよ」
『それは分かってますけど、無茶なことはしてないでしょうね』
「無茶といえばもう無茶をしてると思いますよ。加刈さん、いいんですか、本部の情報を私に流しても」
『もちろん駄目です。だからそろそろ切らせて頂きます。トイレにいますけど、誰かに聞かれないとも限りませんので。失礼します』
「それでは」
通話を切って、灰乃は息をついた。
十島空子の名前が本部に挙ることは、薄々予想していたことだった。聴取を行った人間の中で唯一医学に携わる人間であり、当然毒薬などに詳しい。だが彼女には犯行は無理だ。彼女は医大の友人と一緒の席に座り、一度も席を立っていない。それくらい本部も承知のはず。
十島空子を逮捕するには証拠がない。その上、周りにいた友人の証言は空子に有利に働く。その証言を覆すほどの証拠となると――自白しかない。
本部はきっと空子に対し、徹底的な取調べを行うだろう。
それを想像して、灰乃はふっと嘲笑した。
* *
灰乃の予想通り、十島空子の元へ警視庁の刑事がやってきた。
「――そういうわけですので、任意同行願います」
「任意やろ? そやったらあたし、行かへんで」
頑としてホテルのエントランスの椅子から動こうとしない空子に、二人の刑事は為す術もなく顔を見合わせた。
「何遍言うたら分かるん? あの子らかて言うてたやろ。あたしはあの日、レストランの席を一度も立っていないって。東京からわざわざ来てもろうて悪いんやけど、帰ってもらえへんか」
見たところまだ若い刑事のようだ。二人とも空子を相手に、どう対処していいのか分からないような困惑した表情を浮かべている。せっかく捕まえた手がかりに会い、手ぶらで帰るわけにもいかないのだろう。
空子は前髪が短い方の髪をぐしゃぐしゃと掻いた。そして思い出したように、
「そうや、灰乃がおるやん」
二人の刑事はまた顔を見合わせた。
「せやったらえぇかもな、行っても」
片方の刑事が何か言おうとしたが、もう一人が空子に気付かれないようにそれを制した。
刑事の乗ってきたパトカーへ乗り込み、空子は警視庁へ向かった。