2nd 【序曲、名は殺人】−2
「次の方を」
とドアのそばの警官に告げて、灰乃は溜め息をついた。結局、代わりの刑事が仮眠中で、灰乃は再び聴取に戻っていた。
「警部、大丈夫ですか? 一睡もしていらっしゃらないのではありませんか」
灰乃の隣に座る部下の加刈尋江が言った。
「これくらい大したことじゃありませんよ」
「そうやって無理ばかりなさって、倒れられては我々が困るんですから」
加刈尋江はまだ若い、二十二歳の新米刑事だ。落ち着きがあり、最近の若い女性とは違う雰囲気で、仕事をこなすスピードも早くなかなか有能だと灰乃は評価している。父親はある富豪の家で秘書をしている、灰乃の知り合いだ。
「父も心配します」
「それはありがたいですね。じゃあ、あと一人終わったら仮眠をとってくることにしましょう」
「仮眠してる刑事をたたき起こしてでもそうして頂けると、私も安心です」
ドアが開いて、次の聴取の相手が入ってきた。
「お名前は……」
「名前は十島空子、年は三十二歳であんたと同じや」
灰乃はそこでクリップボードから顔を上げて、初めて相手の顔を見た。
「貴女は……」
「奇遇やなぁ、灰乃。一体何年ぶりなんやろか」
そう言って目の前の女性はにっ、と笑った。関西弁で話すその姿は快活そのもので、以前のままだと感じた。
「そうですね、お久しぶりです。卒業依頼ですから、十三年ぶりですか」
「あんたのその喋り方も懐かしいわぁ」
親しげに言葉を交わす二人の傍らで、尋江が一人困惑の表情を浮かべる。
「警部……あの、お知り合いですか」
彼女は小さい声で訪ねた。
「ええ、高校時代の友人で、十島空子さんです。――今日はどうしてあのレストランに?」
「医大のときの連中と集まってったんよ。厄介なことに巻き込まれてしもたなぁ」
空子はため息と共に大きく体を逸らした。
「そのとき、現場の倉庫の方へ近付いた、または近付いた人物を見たということはありますか」
「そこまで気を付けては見てへんかったわ」
だいぶリラックスした姿勢で、机の上で腕を組ながら彼女は首を振った。
「でしょうね。――長く待たせてしまってすみませんでしたね」
「仕方ないやろ、仕事やもん。はよ片が付くとええな」
「ええ」
誰かさんの予想が外れて――と灰乃は心の中で付け足す。
聴取に代わりの刑事を寄越すように頼んで、灰乃はその部屋を空子と共に後にした。
「あんた、休んでへんのやろ」
少し歩いたところで空子が灰乃に向かって言った。
「どうしてです?」
「目の下に隈。薄っすらとやからパッと見は分からんやろ。睡眠不足の証拠」
「一晩でそんなんじゃ、先が思いやられますね」
と灰乃は肩をすくめた。
「自分の体調くらいちゃんと管理せんと、またあんた倒れるで」
「それ、俊佑にも言われました」
「相変わらずやな、あんたら」
空子は笑った。
「あいつまだ暇人弁護士でもやっとるんやろか」
「若手監察医の貴女と比べたら、私も暇人ですよ」
「謙遜やな。なんぼ上手い言うても、所詮若造は若造なんやで。忙しいんやったら、ここに来る余裕もないはずやもん。とにかく、ちゃんと寝るんやで」
「二人に言われたらこれは叶いませんね」
灰乃は苦笑して、ホテルの玄関から出て行く空子を見送った。ロビーには部屋にいることに耐えかねた、事情聴取待ち人々が集まって不満げな表情を浮かべている。
玄関やあらゆる出入り口には警官が設置され、このホテルから安易に出ることはできない。帰られるのは聴取が終わった人間だけだ。いつまでも彼らをここに閉じ込めておくことはできないのだから、急がねばならないと思っていた灰乃だが、周囲が言うようにここは寝ておこうと思った。
気が抜けたのか、不意に欠伸が漏れた。
* *
灰乃との通話を切り、大賀は事務所の椅子に腰掛けた。今日もまた暇だ。
それほど名が売れているわけでもないため、彼の日常の大部分は暇で出来ているようなものだ。だいたい、ここに弁護士の事務所があると知っている人間がいるのかどうかすら怪しい。
だがそのとき、事務所のドアを叩く音がした。大賀が返事するまでもなく、その人物はドアを開けて顔を覗かせた。大賀の姿を認めた彼女はこう言った。
「あの……弁護士さんの事務所ですよね、ここ」
そんなに自分は弁護士らしくないだろうか、と大賀は少し傷心した。というか、確かにそう確認したくなるのも当然かもしれないと思えた。なにしろ事務所内には大賀しかいないし、妙にこざっぱりとしている。
「ええ、そうです。ご依頼ですか」
「あ、はい」
女性はなぜかほっとした表情をして、後ろ手にドアを閉めた。大賀が来客用のソファを手で示し、座るように促すと女性はそこに腰掛けた。
「どのような依頼でしょうか」
見たところまだ若い、二十代も前半だろうから、離婚調停というのは考えにくい。だとすればストーカーか、空き巣か。
「私、井月瑠璃子といいます。K2社の社長秘書をしております」
「K2社?」
「はい。そう言えばきっと大賀様はお分かりになるだろうと、栗栖社長が仰っていました」
K2社といえば国内ナンバーワンのIT企業の大手だ。今や携帯電話会社と提携し、さらにその規模を広めている。社長の栗栖響介には娘がいる。
「ということは、栗栖社長の紹介かなにかで?」
「確かに大賀様を推したのは栗栖社長ですが、初めに大賀様の名前を挙げたのは巫月様です」
「ああ……」
娘の名前は栗栖巫月。彼女自身もK2社で働いていて、親譲りのビジネスの才能を現しているようある。マスコミにもよく顔を出す常連だ。そんな彼女と大賀、それに灰乃は高校時代の友人として繋がりがある。
「懐かしいな。――それで、天下のK2社が、この俺にどんな用向きですか」
「ご謙遜を。しかし突然やってきた無礼をどうかお許し下さい。今日は、大賀様にK2社の顧問弁護士になって頂くべく参りました」
「それはつまり、社内に不穏なな動きがあるということと思っていいんですか」
瑠璃子は微笑んだ。
「巫月様に聞いた通り、勘の鋭い方ですね。その通りです。現場で働いている巫月様がお気づきになったのは三週間前、横領の疑いがあるのです」
「まさかそれを俺に調べろと?」
「顧問弁護士、引き受けてくださるんですか?」
「考えてみるよ」 大賀は肩を竦めて頷いた。
「いいお返事をお待ちしております。私は今日はこれで失礼します。もし何かございましたら、こちらまで」
と瑠璃子が差し出した名刺を大賀は受け取った。
瑠璃子が出て行くのを見送って、
「顧問弁護士ねぇ……」
と呟いた。
聳え立つ巨大なビル。幾人もの人々が絶え間なく出入りする入り口に、吸い込まれるようにして大賀は足を踏み入れた。
広いエントランスはやはり人がひしめき合っていた。IT企業の本社ビルというだけあって、受付には人がいない。デジタルのようだ。
大賀はそこにあったマイクに向かって、
「大賀俊佑といいます。専務の栗栖巫月さんにお会いしたい」
『少々お待ちください』
機械の声が告げた。
しばらくしてそばの画面に女性の顔が現れた。
『大賀俊佑様ですね』
そう言う彼女は先ほど大賀の事務所を訪ねてきた井月瑠璃子だった。
「社長秘書ではなかったですか? あなたは。俺は栗栖巫月に会いに来たんですが」
『依頼の件ではないのですか』
「残念そうだが……とにかく栗栖巫月と話をさせてもらえないか」
『……そうですか。どうも皆さん頑固なようです』
画面の向こうの瑠璃子はそう言って溜め息と共に肩を竦めた。皆さん、と言った意味が理解できなかった大賀だが、すぐにそれに気付くことになる。
振り返ると、ブロンズの髪を持つ女性がそこに立っていた。
「何か用か」
「立ち話も何だな」
「遠慮も知らないのか、あんた。子供から成長できてないんじゃないか、大賀」
栗栖巫月は呆れたように言う。
「そう言うなよ。あんたに話があるんだ」
大賀は至って真面目に言った。その目を見返して栗栖は仕方なさそうに頷いて、
「分かったよ」
と言った。
巫月は近くにある喫茶店を大賀に教え、先に行っているよう促した。
「あたしはオフィスにやり残しの仕事があるから、それを終わらせてから行くよ」
「分かった。じゃあ後でな」
再びエントランスから出て、大賀は教えられた通りの道を辿り、店に入った。
「Domina」という看板を掲げたこの店は、まるでそこだけが切り取られた空間であるかのように異国の雰囲気を作り出していた。大賀が入るのを尻込みするほどだった。だが、巫月がこの店を指定したのは頷ける。彼女のあの髪の色なら、他の店にいたら――ことに、日本料理店などでは目立ちすぎるが、この店ならおかしくも思えないのだ。
しかし一つ残念なことは、その店名がどう言う意味なのか大賀には分からなかったことだ。
彼女の髪のブロンズは異国生まれの母親譲りだと昔聞いた。染めたりするのとは違う、独特の輝きがある。それが人目を引くのは当然だし、何しろ彼女は美しい。おそらく誰もが認めることだろうが。
中へ入ると、中はがら空きだった。マスターらしい還暦を越えた男が大賀に優しい老人の笑みを向けた。
「いらっしゃい」
大賀は奥の方にある席についた。
「お一人だったら、カウンターへどうです」
マスターが言う。
「いや、待ち合わせてるんだ。コーヒーを」
「今日入ったやつを淹れますよ」 マスターは久々の客に嬉しそうに笑みながら豆を取り出した。
窓際の一番店内を見渡しやすい席に座り、ポケットから携帯を出す。灰乃郁風からメールが一通来ていた。
[十島さんに会いました。貴方と同じことを言ってましたよ。
メディアで知っているでしょうが、毒物による死です。毒物はアルカロイド系。今のところ手がかりは特にこれといってはありません。
何か気付いたことでもあれば、連絡待ってます]
おそらくやっと休んでいるところなのだろう。邪魔をするのも気が引けたため、返信はしなかった。
コーヒーの香ばしい香りが店に充満してきた。
よく厄介な事件に逢うと灰乃は大賀へ連絡を寄越す。そんなに情報を漏らしていいのかと前に尋ねたが、灰乃はただ、
「ばれなければ、平気ですよ」
と微笑んだ。送信メールはちゃんと消しているから安心なのだそうだ。そういう問題ではないと思うが。 そうはいえ、大賀も事件に興味がないといえば嘘になるのだから、灰乃にはありがたく思っている。
カラン、と小気味のいい音がして、誰かが来店したことを告げた。
「マスター、あたしにもコーヒー」
女の声がした。
「待ち合わせってあんただったのか、巫月さん」
「まあね」
「彼氏かね」
「まさか、ビジネスだよ」 と巫月が鼻で笑ったのが聞こえた。
そして大賀の向かいに座り、
「話って?」
と尋ねた。
「俺に顧問弁護士なんて頼みに来させて、何のつもりなんだろうと思ってな」
「跳ね付けるとでも? 報酬は約束させてもらうよ」
「そうじゃない。俺を知らずに訪ねてくるような連中ならともかくだ、あんたは俺を知っている。知り合いである俺でなければ、知られたくないようなことが社内で起きてると憶測するには、十分すぎる要因だ。そうじゃないなら、俺じゃなくてもっと名の通った弁護士に頼めばいいだろう」「引き受けるの? それとも辞めるのか? その返事もなしに社内の極秘事項をぺらぺらと話すわけにはいかないよ」
「つまり、それほどの大事ってことか」
巫月はふっと笑った。
「だからあんたに頼んでるんだ。その勘の良さでどうにかならないのかと思って」
「相当参ってるな」
「分かるならさっさと決めてくれないか」
彼女はため息をついてコーヒーに口をつける。大賀は顎に手をやって少し考え込んだ。マスターが静かにコーヒーを運んで来て、言った。
「いいだろう、引き受けるよ」
「そう言ってくれると思ってたよ。ありがとう」
巫月は立ち上がって手を差し出した。大賀はその手を取り、首を左右に振った。
「あのとき、弟を助けてもらった礼をしなきゃいけないと思っていたところさ。礼には及ばねぇよ」
「そうか。じゃあ、よろしく頼んだよ。近日中に資料を井月さんに持たせるから」
「彼女はあんたの秘書じゃないだろう」
「いいんだよ、父さんには秘書がもっと大勢いるから」
「なるほど」
「じゃあ、あたしは仕事に戻るよ。来週からオーストラリアまで行かなきゃならないんだ」
「忙しいんだな、お前も」
「提携の話を結びにね。よくあることさ。それじゃ。ここは払うよ。前金だ」
巫月は伝票を二枚掴み、忙しそうにさっさとマスターのところへ歩いて行って、小銭を払い店を出て行った。
大賀はその姿を見送って、
「いつもああですか、あの人」
「今日だけですよ、今日だけ」
マスターは含み笑いを漏らして、訝しげな顔をする大賀を見た。