13th 【S O L D E R】−Gathering
まるで、雪でも降りそうな空の色。どんよりと曇ったアッシュ。
そんな空を見上げたところで、何も事態は変わりやしなかった。
目の前には、コンクリートの建物。無機質にこちらを見つめている。外は常に流転しているのに、その中だけはいつまでも変わらない状況を保っているのだろう。
――俺は、何をしに来たんだ?
そうだ、友佑を助けに来たんだ。だがどうやって? 自分にはなす術もない、ただこうして動くことのない状況を見つめていることしかできない。そんな自分に苛立ちを覚えることにさえ、飽きてしまう。
それほどに、時間は経っていた。犯人がここに立てこもったのが午前十一時半頃。現在、午後二時をすでに廻っている。三時間近くも経過した。その間、外から分かるような動きは何一つ見られなかった。彼のように昼からずっとこの場にいるのは、保護者や教員の親族とマスコミだけだった。他の野次馬は、多少減ってきているようだ。
時が経つとともに、大賀俊佑の気分も落ち着いてきた。それと同時に空腹であることに気付く。どんな状況にあっても、体は正直だ。仕方なく、彼は近くのファミレスに出向くことにした。
昼時が過ぎたこともあってか、中はそれほど混んでおらずすぐに席に着くことができた。幸いまだランチの時間帯だったので、それを注文して、手持ち無沙汰に彼は店内にあるテレビを見上げた。
『犯人はまだ立てこもったまま、動きはありません。警察も何の対応も見せず、保護者たちも怒りを感じているようです――』
自分と同じように、何をしていいのか分からずに校舎の外で右往左往する保護者たちにカメラが向けられ、インタビューの映像が流れた。
冷静になって考えてみれば、犯人側の行動はおかしかった。犯人たちがあの小学校に立てこもっている目的は? 身代金だろうか。しかしこの辺りには他にも私立の学校が他にもある。金が目的なら、そちらの方が確実であろう。他に何か目的があるのだろうか? それは一体――。
考えに詰まり、大賀はウェイターが持ってきた水を一口飲んだ。
犯人は、恐らく九条ナツだろうとマスコミや野次馬が言っていた。聞くところによれば、九条ナツ本人が警察に電話をしてきたというのだから、信憑性は高い。もちろん、誰かが九条ナツの名を名乗っているという可能性も否定できない。
彼女の目的は、一体何なのか。
『さらに続けて、現在何者かによって占拠されているK2社にも中継が繋がっております――』
大賀は顔を上げた。
テレビの画面が、巨大なビルの前を映し出した。こちらも野田小学校の前と同じ、人で溢れかえっていた。K2社の、本社ビルである。キャスターが、その事件の犯人が九条ナツであるかもしれないことを伝えている。
それは彼にとって新しい情報だった。それが、彼をある可能性へと導いた。
十四年前と、今との繋がりへ。
テレビを見上げていた大賀の目の前に、いつの間にかフライの乗った皿を持ったウェイターの手が伸びていた。ライスやサラダなどが次々とテーブルに置かれていく。
ウェイターが去って、彼はフライを切るためにフォークとナイフを手に取る。
いつの間にか、客が増えたのだろうか、と彼は思った。来たときよりも、周りが騒がしかった。
その喧騒を淡々と遮って、テレビに映ったキャスターが歯切れのいい口調で話した。
『お伝えしたように、二つの事件の犯人として九条ナツが名乗り出、それぞれに三億円の身代金を要求しました。繰り返します、九条ナツは両事件合わせて六億円の身代金を要求しています』
* *
恐らく、自分たちの存在は忘れられているのだろうなとそこにいる誰もが薄々は感じていた。
つい十分ほど前に、野田小学校に立てこもっていた九条ナツから再び110番に電話が入った。彼女は、野田小学校、K2社の両事件の犯人は自分だと断言し、小学校の教師や生徒など合計354名に三億円、K2社社長の栗栖響介にも三億円をそれぞれ身代金として要求した。
しかし要求はそれだけではなかった。
マスコミで急ぎ報道された身代金要求額も驚くべきものでありながら、彼女はさらなる要求を本部につきつけた。
「いますぐに、私のいる野田小学校に車を一台寄越してください。それから、今から約二時間半後の五時丁度、K2社の屋上ヘリポートにヘリを一機。着き次第、操縦士は帰してください。よろしくて?」
本部側が頷くと、彼女はすぐに通話を切った。
合計六億円の身代金と、逃走用の車両一台にヘリ一機。下手をすれば、夜にはチャーター機でも要求してきそうな気もする。
警視庁には、それまで分かれていた二つの事件の捜査本部が合わさった、とてつもなく大きな捜査本部ができた。K2社付近のビルに小さな仮本部を構えていた連中もそちらへと移動したのだが、灰乃たちにはその連絡が来なかった。連絡より先に、本部との通信が切れてしまっていた。ばたばたとしているうちに、誰かが仮本部の方の通信機器の電源を落としたのだろう。
「ったく」
「関さん、それ何回目です?」
「六回目よ、三谷くん」
女性刑事が答えた。未だに彼女の名前を灰乃は知らない。
狭い車内に残された灰乃たち五名の刑事は機材を撤収し、出来上がった捜査本部へ向かう準備をしていた。
それを椅子に座って眺める栗栖巫月。人質として身代金三億円を要求されているK2社社長、栗栖響介の娘。その事実を知らされても「ああ、そう」と呟くだけで、彼女は眉一つ動かさなかった。それからと言うもの、何かを考えているのか腕を組んでどこか一点を見つめている。
「おい、灰乃」
開いたドアの外から関が、灰乃を呼んだ。片手に携帯電話を持っている。
「はい?」
「お前、お嬢様を送ってやれ。本部がそう言ってる」
と彼は電話を持った片手を少し持ち上げて見せた。
「一人で帰れる」
巫月がようやく顔をあげて言葉を発した。しかし表情は動かない。
灰乃はそんな彼女を一瞥し、関に顔を戻して言った。
「送ります」
背中で舌打ちが一つ、聞こえた。
送るとはいえ、灰乃は自分の車で来ていなかったため、巫月が呼び、栗栖家から迎えがきた。
どう見ても高級そうな黒塗りだったが、長くはなかったことに灰乃は安心した。以前、一度だけ、彼女が呼んだ迎えの車が酷く胴長だったことを覚えている。乗り心地はいいのだが、広すぎて落ち着かなかった。
もちろんこの車だって、灰乃の車よりは広々としているが車と呼べる範疇だ。落ち着いて乗っていられる。
しかし今、落ち着いていないのは彼女の方である。
車に乗り込んでからというもの、巫月はずっと腕を組んで窓の外を見ている。流れる景色を見ていて酔わないのだろうかとも思う。それに、無意識なのだろうか、時折舌打ちが聞こえる。
「どう思う?」
やはりこちらを振り向かないまま、巫月は言った。何が、とは問わない。
「あと二時間。そろそろ身代金の引渡し方法も、犯人が連絡してくるだろう」
「どうするつもりです?」
「出すよ、三億。私は構わない。ただ問題は……」
黙って頷く。
そう、問題は小学校の方だ。私立ではない、公立の学校だ。そんな学校のどこに、三億円もの大金を用意できる人間がいるだろうか。もしその三億円が目当てだとしたら、初めから私立の学校を狙えばよかったのだ。
ならば。
「元々欲しかったのは貴女方の三億円だけ」
「だろうな。でもそれだと、納得がいかないんだ」
分かるだろう? とやっと前を向いた。
もちろん灰乃も分かっていた。元々欲しかったのが栗栖家からの三億円のみだったとしたら、初めからそれだけでよかったのだ。つまり野田小学校を襲うのは手間以外の何でもなかったはずだ。
「他に何か理由があるのかも、しれませんね」
「例えば?」
「誰かに恨みがあるとか」
「珍しく稚拙な考えだな」
「案外、そうでもないと思いますよ」
「大賀の弟がいるから? でもそれだけじゃ――」
否定しかけて、巫月は首を振った。
「いや、分かった。分かったよ。だとすれば、まだ役者がいる」
車が栗栖家の門を潜り、広い庭を進む。
玄関の前で車は停止した。
「すぐに身代金を用意させて、そっちへ向かうよ。そう伝えてくれ」
「分かりました」
そう言って灰乃は車から降りようとしたが、巫月の声がそれを制した。
「そのまま乗ってれば、警視庁に着くよ」
灰乃は礼を言ってその言葉に甘えた。車が走り出す。
運転手は何も話し掛けてこなかった。後部座席で身代金などと物騒な話をされては、気にもなるはずなのだが、彼は何も言わない。尋ねることで相手に迷惑をかける、あるいは主人への無礼にあたると思っているのか、どちらにしろ灰乃は助かったと感じた。
おかげで、ゆっくりと思考できる。窓の外を見ながら、そう思った。
* *
二階堂銀行の本店ビル、その一室に彼がいた。広い机の上には、二センチほどに積みあがった書類。一枚一枚に時間をかけ、目を通す。また、傍らには開きっぱなしのノート型パソコンがあり、時折そちらにも目をやる。
書類に目を落としていた彼が、また一枚書類に判子を押して、パソコンに目をやった。先ほどは何もせずにまた書類を手にとっていたのだが、今度はマウスに手をやる。
新しいメールが届いていた。添付ファイルがある。
まず文面に目を通して、すぐに眉間に皺が寄る。それほど長くない文だった。読み終えるや否や添付されてきたファイルを開いた。画像ファイル。
どこかで撮られた写真らしい。壁は真っ白、その部屋には家具らしきものは何もない。被写体は、両腕と両足をロープで縛られた二人の女性。
「ああ……」
溜め息と共に、椅子にもたれて天井を仰いだ。
驚かない。文面にはただ一文、それだけが記されていた。
「三億円を用意しろ、ね」
なぜ、とか、どうして、といった疑問符は一つも浮かばない。むしろこれですっきりした。今まであった疑問符が一気に解決してしまったのだ。
「悩んでる時間はないな、うん」
彼は机の上もそのままに立ち上がる。壁際に歩み寄り、そこにある内線電話を手に取った。それは秘書室に繋がっている。
「ああ、加刈。出かけるから、車出して。――いや、運転手はいらない。おれが一人で行く」
何度かうん、と頷き受話器を置いた。携帯電話だけ手に取り、二階堂和麻はその部屋をあとにした。