10th 【S O L D E R】−Walking
神さまは人間のコトなんてどうでもいいんだ。
信仰心なんてものにも興味はないし、
人間がどう楽しむかどう苦しむかなんてコトにも関心はない。
当たり前だろ、あいつは一人で足りてるんだから。
全知全能ってのはそういうコトだ。
【DDD】
* *
大賀友佑は、野田小学校で教育実習生として勤めていた。二学期制のその学校は、秋に近付いてきたその日、前期の終業式を向かえていた。
朝から冷え込み、朝に強いはずの友佑でさえなかなか布団から体を起こすことができなかった。自分の実家から通勤している彼だが、同じ家に住んでいる兄の俊佑も友佑が家を出るときにはまだ起きていなかった。しかし兄の場合、起きるのが遅いのは、寒かったからなのではなく、前の日の夜にしたたか酔っていたためである。
そんな寒さの中で行われた式次第は順調に進み、割と簡単な式だったため何のトラブルもなく生徒が作文を発表するに至った。始めは涼しかった体育館も、全校児童と教員たちが集まれば案外と暖まるものであった。
児童二人が壇上に上がる。友佑は欠伸を噛み殺してそれを眺めていた。
一人目がマイクの前で作文を読み始めた。確か二年生だったはずだ。なるほど、読むスピードも口調もそれ相応だ。きっとその文面はほとんどひらがなで書かれているのだろうな、と考える。どうでもいいことだった。実はこういった式典だとか儀礼的なことが苦手な友佑だった。
そうやって何事もなく、終わるはずだった。
それは、二人目の作文発表者がそれをもうすぐ終えるというときだった。
学校という環境では、まずありえない音だった。ましてたかが終業式だ。卒業式でも入学式でもなんでもない。つまり学校外部の人間はいないはずなのだ。それなのにその音は確かに、高く鋭く響いて聞こえた。
カツン、カツン、と。本当は廊下で反響して、もっと間延びして聞こえていたかもしれない。
紛れもなく、女性の履くヒールのある靴の底が床とぶつかる音だった。しかし教職員の誰もそんな靴は履いていないし、まさか生徒が履いているはずも毛頭ない。まして来客でもありえない。
はじめは気付いていなかった友佑も、周囲の様子が変わるにつれてその異変に耳を傾けるようになった。その頃にはすでに教職員の一人が立ち上がって、廊下へ様子を見に行っていた。
顔を見合わせて首を傾げる。友佑も隣にいた同じ教育実習生の女性と顔を見合わせて困った顔をする。
大人たちほどではないにしろ、生徒たちの中にも多少は気になっている子もいるだろう。子供たちのことだ、ひそひそと耳打ちをしたり周囲を落ち着きなく見回りたりして、それは次々と伝播していった。
しかしそのときだった。そうして広まった小さな喧騒も、さきほどの足音も気にならないほどの音が響いた。一発の、乾いた破裂音。例えるならそれは爆竹のような。
喧騒は一気に広がった。同時に大人たちが腰をあげた。
だがすでに遅かった。式が行われていた体育館へ繋がる廊下の向こうから、こちらへとやってきたその一団は――先頭の女性を筆頭に奇妙な恰好をしていた。
真っ赤なワンピースに、真っ赤なハイヒール。軽くウェーブした髪が歩くたび、軽やかに宙で踊る。立ち止まり、顔にかかった髪を優雅な仕草で払い除けて顔をあげた。
立ち上がった教師たちでさえ、その女性に声をかけられなかった。後ろの黒い武装した一団を率いるその不審者は、あまりに美しすぎたから。
そして彼女は、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「ちょっとあんた――」
誰かが言った。しかしその言葉は続かない。声を発したらしい男性教師は、すでに首筋に銃をつきつけられて身動きが取れなくなっていた。確か名取と言ったはずだ、その男性教師は。
「ごめんなさいね」
口から滑り出る言葉は、まるでどこぞの姫のように雅。
「動かないでいて頂けます? そう……じっとしていなければ、どうなるか。お分かりかしら、私の言っている意味が」
そう言って彼女は柔らかに笑み、小首を傾げた。この状況に似つかわしくない表情だった。
ずっと銃をつきつけられて黙っていた名取が口を開いた。
「あんたら、一体何者だ……」
その言葉に、女性の表情が一変したのを友佑は見た。今まで何も言葉を発せずに黙っていたが、そのときばかりは息を飲んだ。ぞくり――寒気が背筋を這う。
それに一瞬遅れて同時に乾いた破裂音、すなわち銃声が響いた。名取の首筋から赤い飛沫が噴出し、体は崩れ落ちた。
叫び声、泣き声。木霊した。
再び銃声。今度は誰も倒れなかった。代わりに、その場が元のように静まり返る。
「じっとしていてと言いましたわ。どうやら分かって頂けなかったようで、この方には残念なことをしました……」
言っていることとやっていることとが真逆だったが、その顔は本当に残念だとでも言いたそうであった。
「でもまあ、色々お聞きになりたいこともありますでしょう。今だけ、それを許可します」
そういって女性はまた綺麗に微笑んだ。
教師陣から一人、一番年配に見える男が一歩進み出た。
「あなたは何者ですか?」
「貴方、校長先生?」
女性は逆に尋ねた。教師は頷いた。
「私が何者か、と仰いましたね。ええ、確かにそれは言わなくてはなりませんわね。私の名前は九条ナツ」
「この学校へ何をしに来たのです?」
「そうね、ごめんなさいね、急に来てこれじゃあね……」
九条ナツ、と名乗る女性はちらと名取の変わり果てた姿を見遣った。目を見開いたまま横たわっている。恐らくもう生きてはいないだろう。
「ええ、本当にごめんなさい。だけどもう少し付き合って下さらない? どうしても言葉として、私たちのこの行動の説明が欲しいというなら……そうね、一般的に言ってしまえばこれは『占拠』、ということになるのでしょうか」
右手の人差し指を、右の頬に当てて言う。
「まだお聞きになりたいことがありまして?」
誰も何も答えないことを、満足そうに確認して彼女は頷いた。
「それでは、お電話をお借りできますか、校長先生」
「職員室になら」
「参りましょう。あら、でも校長先生に案内させるわけにはいきませんわね。お手を煩わせるわけには……では」
くるり、とナツが向きをかえたとき、友佑と目が合った。彼女は口を少し開いて息を吸ったように見えた。何のリアクションだろうか。
「貴方に、お願いしようかしら」
彼女はそう言って友佑を指差した。上品な言葉とは裏腹に、失礼な仕草だと友佑は悠長にも思った。
一拍遅れて、反応する。
「え?」
自分を指差して友佑は声を上げた。
「そうです、貴方です。案内してくださる?」
それが拒否することを許さない口調に聞こえたのは、状況が状況だからだろうか。
一瞬躊躇ったが、どんなに異端な存在でも、女は女だ。まさかこちらが殺されることにはならないだろうと考え、友佑は頷いて前へ足を踏み出した。
異常なことが起きたのは、式が執り行われていた体育館だけではなかったのだと、職員室へ入った友佑は思い知った。
腰の辺りに小型拳銃をつきつけられながら、九条ナツを導いて職員室へやってきた友佑は、その部屋の中を目にしてわずかに持ち合わせていた希望を捨て去らざるをえなかった。
式に出席しない用務員の男や保健医たちが、そこで軍人風の連中によって捕らわれていた。顔見知りの捕らわれたちが、入ってきた友佑に泣きそうな目を向ける。無論、そんな目を向けられても友佑にはどうしようもできなかった。腰に当たる堅く冷たい筒が、それを許さないのだ。
入ってすぐの机の上にある電話を見つけたナツが、友佑の背後から出てきて隣に立った。銃は突きつけられたままだった。ナツが受話器を上げた。
その指は躊躇うことなく、1を二回、0を一回プッシュした。それを見た友佑は、改めてこの九条ナツの異常さに気付く。いずれ警察やマスコミに知られると、もちろん分かっているだろうがそれでも自分で通報する犯人がいるだろうか――。
「もしもし? 私、九条ナツと言います。つい先ほど、野田小学校を占拠しましたので警官を送ってくださらない? あら、ふざけてなんていませんわ。ああ、言い忘れてましたけれど、死体が一つあるの。人質は今日登校している生徒全員と、職員。今もそばに一人置いておりましてよ、確認なさる?」
まるで「これからお茶でもしない?」と、いいところのお坊ちゃんとデートの約束を取り付けているかのように、優雅に話していた彼女が、ふいに受話器を友佑に差し出した。出ろ、ということらしい。いや、彼女であれば「出てくださらない?」だろうか。
「はい」
受話器を耳にあてて、友佑は言った。
『お名前は?』
「大賀友佑、野田小学校で講師をしています」
『九条ナツ、という女性の話は本当ですか』
「残念ながら、本当です。人が死んだのも」
横から白く細い指をした手が伸びてきた。「代わってくださる?」ということらしい。友佑は素直にそれに従った。
「お分かりになりまして? あとはお任せしますわ。それじゃあ、ごきげんよう」
何を任せるというのか、という問いを飲み込んで友佑はナツの顔をまじまじと見た。
相変わらず、それは美しいままだった。
受話器を置いた彼女は友佑に向き直り、微かな笑みを口元で躍らせる。
「まだ始まったばかりだわ。そんなに緊張なさらないで」
気が付くと友佑は、手を堅く握っていた。それを開いて、掌に滲んだ汗を背広で拭く。
「一体、何が目的なんですか」
友佑は問うた。
「お兄さんがいるわね?」
彼女は友佑の問いが聞こえなかったかのように、的外れな答えをした。
「ねえ、そうね? 大賀俊佑さん。きっと彼、駆けつけてくれると思うわ。当然じゃなくて? 大事な弟だもの……誰かの妹みたいに殺されたら大変だものね」
何のことを言っているのか、友佑にはさっぱり分からなかった。ナツはくすくすと音を立てて笑っていた。何がそんなに楽しいのか。
しかし確かに友佑には兄がいる。それは彼女の言った通りだ。もし大賀俊佑がこの事件のことをマスコミなどで知ったら、ここに駆けつけるかもしれない。年の離れた兄弟だったためか、兄の大賀はいつも弟の友佑を助けてくれていた。
分からないのは「誰かの妹みたいに」という言葉。友佑自身に心当たりはない。ということは、兄に関係があるのだろうか。
しかしどう思考を巡らせても、やはり何も知らない友佑には分かりえないことだった。
* *
通報を受けた警視庁捜査一課では、すぐに警官隊と捜査員を送る準備を始められ、それと同時に、ちょうど非番で自宅であるマンションにいた灰乃郁風にも連絡が入った。
全く、信じられないことが起きた。
「それは確かですか?」
携帯を肩と耳で挟みながら背広に袖を通す。電話の相手は上司の田所警部だった。
「本当に、九条ナツが?」
『ああ、本当だ。九条ナツが小学校を占拠した』
「すぐに現場に向かいます」
『すぐに迎えをやるから、あっちで合流しよう』
「はい」
すぐに通話が切れる。通話終了を告げる電子音を止めて、その携帯電話をポケットに滑り込ませる。
つけっぱなしのテレビが、騒がしい現場の映像をライブ中継している。一瞬それに目を留めて、リモコンを向ける手を止めた。
――ほんの一瞬だけ、画面に映った影。さきほど田所から聞いた、現場の小学校の名前を思い出す。そして、珍しく小さな舌打ち。灰乃はテレビを消して玄関へ向かいながら、再び携帯電話と取り出して、リダイヤルする。
靴を履き終えると、田所が出た。
『なんだ灰乃』
「警部、通報があったときに人質が一人電話に出たと聞きましたが、その人質の名前は?」
『ちょっと待て……ああ、これだ。大賀、大賀友佑だな。それがどうかしたか?』
「いいえ、ありがとうございます」
すぐに通話が切れたことを、田所は不思議に思っただろうか。表面上なにも変化の見られない灰乃だが、内心では動揺している。それほどに事態は、彼にとって緊急だった。
――画面にほんの短い時間現れた影。それは横切ったと言ってもいいだろう、それほどに短い時間だった。しかし確かにそれは、大賀俊佑の影だった。
玄関を出ると、まだ迎えはきていない。それすらももどかしかった。
エレベーターで下へ降りながら、手に持ったままの携帯電話で、また電話をかける。コール音。一回、二回、三回……十回ほど鳴ったが、相手は出ない。サイレンが近いところで鳴る。エレベーターから出ると同時にブレーキ音。
仕方なく電話を切って、走ってパトカーに駆け寄り乗り込んだ。
冒頭文:DDD/奈須きのこ