吊り橋効果 ー恐怖の心理実験ー
「ねえ、陽菜。『吊り橋効果』って知ってる?」
大学のゼミのあと、校内食堂のカフェスペースでゼミの同期である健人は、淹れたてのコーヒーを差し出しながらそう微笑んだ。健人はゼミで席が隣りだった縁でよく話すようになり、最近は一緒にいることが多い。少し中性的なイメージの男の子だ。フェミニンな話し方もあって安心してしゃべりやすい。
「吊り橋効果? えーと、心理学の有名なやつだよね。一緒に吊り橋を渡った相手をなんか好きになるやつだっけ?」
「うん、それそれ。」
健人は嬉しそうに頷く。
「揺れの恐怖のドキドキを、一緒にいる異性への恋愛のドキドキだと脳が錯覚しちゃうやつね。詳しく説明すると、生理的な興奮状態を、脳が間違って解釈する『感情の誤帰属』。実際、不安や恐怖を共有した男女は、そうじゃないカップルに比べて格段に親密になりやすいんだってさ」
ドヤ顔で健人が説明する。うん、いいやつなんだけど、解説ずきでちょっとウザいとこあるんだよね。
「いや、解説ありがと。詳しいんだね。でも、それってちょっとズルいっていうか、騙し討ちみたいじゃない?」
私が笑うと、健人は「まあね」と静かに笑い、その優しく綺麗な目でじっと私を見つめた。
「でも、そうでもしないと振り向いてもらえない相手なら、手段は選んでいられないかもね」
その時の私は、彼のその言葉の本当の意味を、何ひとつ理解していなかった。
異変が始まったのは、その会話からわずか数日後のことだった。
最初は、些細な違和感だった。
一人暮らしのアパートに帰ると、部屋の空気がわずかに変わっている気がした。本棚の並びが微妙に違っていたり、お気に入りのマグカップの位置が数センチずれていたり。
やがて、その違和感は明確な「恐怖」へと姿を変えた。
夜、寝ようとベッドに入ると、コンコン、とベランダの窓を叩く音がする。私の部屋は3階だ。恐る恐るカーテンを開けても、そこには夜の闇が広がるばかり。しかし翌朝、窓ガラスにはびっしりと、泥のついた生々しい「手形」が押しつけられていた。
さらに、非通知の無言電話が毎晩決まった時間に鳴るようになり、帰路には常に、暗闇から誰かの視線を感じるようになった。
「陽菜、最近顔色が悪いよ。何かあった?」
大学で声をかけてくれたのは、健人だった。
限界を迎えていた私は、恐る恐る彼にすべてを打ち明けた。健人は真剣な表情で私の話を聞き、
「それは警察に行くべきだ。でも、警察がすぐに動いてくれないかもしれないね。その間、僕が君を守るよ」
と言ってくれた。
さっそく健人は警察にも付き添って、一緒に説明してくれた。健人は頑張って説明してくれたけど、やはり、明確な被害がないと動いてくれないようだ。時々、巡回してくれることにはなったけど。
それから、健人は毎日のように私を家まで送ってくれるようになった。
鍵はすぐには変えられなかったけど、健人が補助錠を取り付けてくれた。そして、内側からはドアチェーンを、しっかり掛けて寝る。
そして、ストーカーは気のせいじゃなかった。実際に暗がりの中に潜んでいる怪しい人影がいた。しかし、健人がいるのを確認すると、駆け足で去っていった。
その後、部屋の異変もなくなり、ストーカーの姿も影をひそめ、私の心も落ち着いてきた。これも健人のおかげだ。私は人を見る目がないんだな。健人がこんなに頼もしかったなんて分かってなかった。
そして、ある雨の夜。
いつものように健人と二人でアパートへの道を歩いていると、電柱の陰から、フードを深く被った大柄な男がぬっと現れた。男の手には、鈍く光るナイフが握られている。
「ひっ……!」
悲鳴をあげる私を、健人はすかさず背中に庇った。
「下がって、陽菜!」
健人は男に向かって怒鳴り、落ちていた傘を武器にして立ち向かった。男はしばらく健人と対峙していたが、やがてチッと舌打ちをして、闇の中に逃げ去っていった。
「健人! 大丈夫!?」
恐怖と興奮で、私の心臓は破裂しそうなほど脈打っていた。
「うん、怪我はないよ。……怖かったね、陽菜」
ずぶ濡れになりながら、健人は私を強く抱きしめた。
彼の腕の温もりと、自分の胸の激しい高鳴り。不謹慎にも、私はその時、彼に対して強烈な愛おしさと依存心を抱いていた。
(ああ、私、健人のことが好きなんだ――)
まさに、あの「吊り橋効果」の通りに。
その夜、恐怖で一人になれない私を、健人は自分のマンションへ連れていってくれた。
「温かいココアでも淹れるよ。少し休んでいて」
健人は優しく微笑み、キッチンへと向かった。
私は彼の部屋のソファに座り、ようやく一息ついた。健人の部屋は物静かで、綺麗に整頓されている。ふと、ローテーブルの上に置かれた彼のノートパソコンが目に入った。画面はスリープ状態になっておらず、あるフォルダが開いたままになっている。
そこにあったファイル名に、私の目が釘付けになった。
『吊り橋効果_実証計画』
心臓が嫌な音を立てて波打ち始める。
私は吸い寄せられるように、マウスに手を伸ばした。
フォルダを開くと、信じられないものが次々と現れた。
私の部屋のベランダを映した、隠しカメラの映像。
不気味な手形を窓につける、健人自身の後ろ姿の写真。
無言電話を自動発信するツールの設定画面。
そして、今日私を襲ったストーカー役の男との、金銭のやり取りを示すメッセージの履歴。
すべては、彼が仕組んだ自作自演の恐怖劇だった。
極めつけに、フォルダ内の一つのメモファイルには、こう書き残されていた。
『吊り橋効果の実証実験:恐怖による依存度の変化』
ステージ1:住環境への軽微な侵入(成功)
ステージ2:聴覚・視覚への恐怖演出(成功)
ステージ3:物理的危機の演出と、自己の「救世主」としての確立(実験中)
経過:対象の感情の誤錯誤がほぼ完了したと思われる。
頭の中が真っ白になった。
今まで感じていた恋心のような高鳴りは、すべて彼に人工的に作り出された、ただの「恐怖の副産物」だったのだ。
「見ちゃったんだね、陽菜」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、健人が盆を手に、冷めきった目で私を見下ろしていた。
いつも見ていた綺麗な目だけど、虚ろな瞳。その目を見て、私は確信した。
「健人、あなた……何なのこれ……。全部、あなたがやったの?」
ガタガタと震える足で、私は後ずさりする。
「言ったじゃないか、手段は選んでいられないって」
健人はココアの乗った盆を床に置くと、ゆっくりと私に歩み寄ってきた。その手には、なぜか太いロープが握られている。
「僕は君を愛している。だから、君にも僕を愛してほしかった。科学的に実証された方法を使って、君の心を手に入れた。何か間違っているかい?」
「狂ってる……! 警察に言う、離して!」
健人は愛おしそうな、でもどこか冷めきった目で私を見下ろしていた。
「それ、わざと見つかるように置いておいたんだ。だって、この報告書も君に読んでもらうために作ったんだからね」
彼は自慢げに、けれど少しだけ困ったように首を傾げる。
「これ準備するの、本当に苦労したんだよ。 3階のベランダに登るのも大変だったし、ストーカー役の男だって口の堅い奴を探すのに一苦労だった。全部、君に僕を好きになってほしくて頑張ったんだ」
「わけがわからないわ。じゃあ、どうしてこんなものを私に見せるのよ! 私、うれしかったんだから。こんなもの見せられなければ、そのまま騙されていたわ。」
私はボロボロ泣きながら、健人に問う。
信頼できる素晴らしい人がいるという安心感、そして自覚した恋愛感情と幸福感、そこから全てを壊され絶望へと突き落とされた。それが悲しくて悲しくて涙が止まらない。
「そう、騙されていた。そういう事だよ。こんな方法じゃ本当の愛は手に入らないよね。化けの皮は、いつか剥がれる。僕は分かっているんだよ。
だから、君が僕を好きになってくれた瞬間、最高の今日というフィナーレの日に、僕は全てを完成させたいんだ。」
逃げようとする私を、健人は驚くほどの怪力で床に組み伏せた。私の手首をロープで縛り上げながら、彼はうっとりとした表情で私の胸に耳を当てる。
「ほら、見てごらんよ。君の心臓、今までにないくらい激しく動いている。僕への愛で、はち切れそうなんじゃないかな?」
「違う、これは恐怖よ! あなたが怖いだけ!」
私が泣き叫ぶと、健人は「そっか」と少し残念そうに首を傾げた。そして、健人はゆっくりとクローゼットの扉を開け放つ。
そこには、天井の梁から頑丈に吊り下げられた、2つの「首吊り縄の輪」があった。
「ちゃんと次の『吊り橋』を用意してあるんだ」
健人は私の耳元で、優しく、そして心底楽しそうに囁いた。
よく見つめていた彼の目、綺麗で優しい目だと思っていた。そのまったく同じ目が、今では完全に狂人の目に感じられる。
「偽りの恐怖で作った愛だからこそ、最後は『本物の死』という究極の恐怖で永遠のものに昇華させよう。
究極の吊り橋だよ。首を『吊り』、あの世へ架ける『橋』を一緒に渡るんだ。
……死に直面する究極の恐怖の中で、僕たちは永遠に結ばれる。これ以上に完璧な『吊り橋効果』は、他にないと思わない?」
私の心臓は、人生で最も激しく、絶望的な音を立てて脈打ち続けた。




