第七章:虚無のマジックバッグと、森の蹂躙
冒険者ギルドでの登録を終えたキョムは、まずは身の丈に合った無難な依頼を受けることにした。 掲示板から剥がし取ったのは【薬草の採取】。街の近郊にある「迷いの森」の浅瀬に自生する、止血や解毒に使う一般的な薬草を二十株納品するという、初心者向けのクエストである。
キョムは、首に猫のニャメを巻き付け、足元に子狐のコンタを従え、石造りの街の門をくぐり抜けた。
森へと続く平原を歩きながら、コンタはせっせと鼻をひくつかせていた。 (ふむ……やはり、この世界の空気は素晴らしい。吸えば吸うほど、魂の奥底に力がじわりと満ちていく。前世の薄汚れた瘴気とは大違いだ)
コンタは、キョムのサンダルの後を追いながら、大気中の魔素を掃除機のように吸い込み続けていた。 すると、ある変化に気づいた。吸い込んだ魔素が、キョムの身体の周囲に漂う「虚無」のブラックホールに触れた瞬間、男の体内へと吸い込まれていく。その過程で、コンタの嗅覚が、キョムの「空っぽ」の奥底から、ひどく懐かしい、だが禍々しい匂いを捉えたのだ。
(待て……。この匂いは、まさか吾輩が前世で配下にしていた、あの妖怪どもの気配ではないか!?)
かつて、稲荷神社の檻の中に囚われ、九尾の狐の尾に鷲掴みにされていた無数の妖怪や怨霊たち。あの大決戦の最中、キョムのブラックホールがすべてを一網打尽に呑み込んだ際、狐の力だけでなく、檻の中にいた妖怪たちの魂までもが、キョムの「無」の底へと一緒に吸い込まれ、ストックされていたのだ。
コンタは、慌ててキョムの革ブーツに噛みつき、キャンキャンと鳴いて男の足を止めた。 「……どうした、コンタ」
(おい、人間! いや、キョムよ! 貴様のその腹の中に、吾輩の可愛い部下たちが閉じ込められておるぞ! 早く出してくれ、吾輩の覇道を再興するために、今すぐ外へ出すのだ!)
コンタは必死に身振り手振りで訴え、前足でキョムの腹を叩いた。 「腹から、何かを出せ? ……出し方が分からない。俺の『無』は、入るだけで、出ることはないんだ」
キョムは淡々と言った。実際、彼は自分の能力の使い方など一切知らなかった。ただ孤独に耐え、すべてを諦めた結果として得た受動的な虚無である。能動的に何かを「取り出す」などという概念が、彼には存在しなかった。
(使い方が分からんだと!? なんという宝の持ち腐れだ……! ええい、ならば吾輩が無理やりにでも引きずり出してくれるわ!)
コンタは覚悟を決めた。 彼は四肢を踏ん張り、周囲の草原から、ありったけの魔素をダイソン並みの吸引力で吸い込み始めた。小さな子犬のような身体が、魔素の過剰摂取で風船のように膨らんでいく。 そして、その純粋な魔素を、自らの魂の炉でドロドロとした禍々しい「妖力」へと無理やり変換した。
(おおおおおっ! 出てこい、不甲斐ない部下どもめ! 主であるこの吾輩の呼びかけに、応えぬかぁっ!)
コンタは、キョムの虚無の深淵に向けて、自らの妖力を一点に凝縮し、大音声で恫喝した。 キョムの腹部――虚無のブラックホールの表面が、ぼこりと波打つ。キョム自身、腹の底がひどく冷たくなるような、奇妙な感覚に眉をひそめた。
ズブ、ズブブ……。
キョムの影から、黒い泥のようなものが這い出てきた。 それは、前世の檻に囚われていた、一つ目の大入道、鎌を持ったイタチ、そして巨大なムカデの霊魂であった。彼らはキョムの虚無の底で永遠の眠りについていたが、かつての主である九尾の狐(の、現在の姿であるコンタ)の怒声にビビり散らし、無理やり虚無の壁を突き破って這い出てきたのだ。
「……本当に出たな」 キョムは、自分の影から這い出てきた三匹の妖怪たちを見下ろした。彼らもまた、この世界の魔素を浴びて、前世よりも実体化しやすくなっている。
(クハハハ! 見たか! 吾輩の威光は、世界を跨いでも健在よ!)
コンタは、大威張りで胸を張った。 だが、這い出てきた妖怪たちは、かつての主であるコンタ(子犬サイズ)を無視し、その背後に立つキョムを見上げて、ガタガタと震え始めた。妖怪たちにとって、真に恐ろしいのは、自分たちを永遠の虚無に閉じ込めていたキョム本人であった。彼らは主従の契約を書き換えられたかのように、キョムの足元に平伏し、忠誠を誓うように頭を垂れた。
(おい、そこの大入道! なぜ吾輩を無視して、その男に跪いておるのだ! 吾輩を見ろ!)
コンタが怒り狂ってキャンキャン吠えるが、大入道たちはキョムの「無」の重力に圧倒され、ただただ怯えていた。 そしてキョム自身にも、変化が起きた。妖怪たちが無理やり虚無の壁をこじ開けて出入りした影響で、彼の中で、虚無の「開け閉め」の感覚が、驚くほど明瞭に理解できたのだ。
「……なるほど。こうすれば、入るし、出るのか」
キョムは、手元にあった小石を拾うと、自分の影へと放り投げる。小石は音もなく影に吸い込まれ、キョムが念じると、再び影からぽろりと小石が転がり出た。 前世の会社員時代、ファンタジー小説で読んだことがある。
「マジックバッグ、だな」
キョムは、自分の能力が、非常に便利な無限収納として機能することに気づいた。これなら、どれだけ重い素材を採取しても、キョム自身の荷物になることはない。
キョムの一行は、迷いの森へと足を踏み入れた。 鬱蒼とした巨木が立ち並び、木漏れ日が幻想的に差し込む森。初心者冒険者が迷い、命を落とすことも少なくない危険な領域である。
だが、キョムの採取は、驚くほど捗った。 なぜなら、首のマフラーと化していたニャメが、森に入った途端に目を輝かせ、キョムの首からひらりと飛び降りたからだ。
「ニャウ!」
ニャメは、大妖怪としての恐るべき嗅覚と野生の直感をフル活用し、草むらに鼻を突っ込んだ。そして、前足で器用に、納品対象である「止血草」や「解毒草」を掘り起こしていく。 ニャメにとって、この世界の薬草を嗅ぎ分けることなど、朝飯前であった。彼女が次々と薬草を見つけ出し、キョムがそれを拾い上げては、影のマジックバッグ(虚無)へと放り込んでいく。わずか数十分で、納品規定の二十株を遥かに超える、上質な薬草が採取されてしまった。
採取が一段落した頃、ニャメはキョムを見上げ、一つ、甘えるように鳴いた。 「ナァオ」
「……どうした、ニャメ」
ニャメは、森の奥深くを、じっと見つめていた。その瞳には、甘えた飼い猫の光ではなく、かつて戦場を蹂躙した大妖怪の、冷徹な捕食者の光が宿っている。 彼女は、この世界の魔素を嗅ぎ、自分の力をより早く、完全に回復させる方法を直感していた。それは、この森の奥に潜む強力な魔獣を狩り、その魔石や生命エネルギーを喰らうこと。
ニャメは、キョムに「少し行ってくる」と告げるように尻尾をひと振りすると、音もなく森の奥へと駆け去っていった。
キョムは、それを追おうとはしなかった。 ニャメが、自分よりも遥かに強い存在であることを知っていたからだ。彼は、平原で拾った三匹の妖怪たち(大入道、イタチ、ムカデ)をマジックバッグから取り出し、周囲の警戒に当たらせることにした。
「コンタ。俺たちはここで、ニャメを待つ」
(ふん、あの猫め、抜け駆けして力を取り戻す気か。吾輩も行きたいが……この身体では、森の奥の魔獣の餌食になるのがオチか)
コンタは、不貞腐れたようにキョムの足元に丸まった。
その頃、森の最深部では、地獄のような光景が展開されていた。 この森の主である、巨大な三つ首の魔狼が、一匹の、小さな白い猫を前にして、ガタガタと巨体を震わせていた。
「ニャァ」
ニャメの姿が、陽炎のように揺らめき、二本の巨大な尾を持つ、恐るべき白猫の巨獣へと膨れ上がる。 三つ首の魔狼が、恐怖のあまり咆哮を上げ、無数の火球を放った。だが、ニャメはそれを嘲笑うかのように、光のような速度で空間を跳躍し、鋭い爪の一撃で、魔狼の三つの首を同時に切り落とした。
ズドォォン!
森の主が、一瞬で物言わぬ肉塊と化す。 ニャメは、魔狼の胸を裂き、中から輝く魔石を取り出すと、それをバリバリと音を立てて喰らった。彼女の身体に、圧倒的な神獣としての魔力が、急速に充填されていく。
一方、そんなニャメの圧倒的な活躍と無双っぷりが、コンタには面白くなかった。かつて、その化け猫を檻に縛り付けていた絶対的支配者である。今や子犬サイズに零落しているとはいえ、そのプライドが、大人しく待つことを許さなかった。
(ええい、あの猫め、好き勝手に暴れおって! 吾輩の力はまだ弱いが、吾輩には、配下の妖怪どもがいるではないか!)
キョムの足元で、不貞腐れていたコンタの目に、怪しい光が宿る。 コンタは、キョムの影から這い出て、キョムの命令で周囲を警護していた大入道、鎌イタチ、巨大ムカデに、小さな前足でビシッと森の奥を指し示した。
(おい、貴様ら! あの白猫に負けてなるものか! 森の奥へ行き、目につく魔獣を片っ端から蹂躙してこい! 吾輩の、九尾の狐の圧倒的武威を、この世界の獣どもに思い知らせてやるのだ!)
大入道たちは、最初はキョムの顔色を伺って躊躇していたが、かつての主であるコンタの、必死すぎる形相(子犬の顔だが)と、この世界の濃密な魔素によって湧き上がる力に抗えなかった。三匹の妖怪たちは、キョムがマジックバッグの出し入れの練習に没頭している隙を見計らい、森の最奥へと影のように滑り込んでいった。
迷いの森の深部。そこには、ニャメが仕留めた三つ首の魔狼の配下である、無数の狂暴な大イノシシ(オーク・ボア)や、毒々しい巨大蜘蛛がひしめいていた。 そこへ、和の妖怪たちが乱入する。
ウオォォォン! と、一つ目の大入道が咆哮を上げ、丸太のような腕で巨大蜘蛛の群れをなぎ倒し、踏み潰していく。鎌イタチは突風と化し、大イノシシたちの硬い毛皮を紙切れのように切り裂いていく。巨大ムカデは樹木を螺旋状に這い上がり、空中から毒霧を散布して魔獣たちを麻痺させ、締め殺していった。
異世界の魔獣たちは、見たこともない東洋の妖怪たちの奇怪な戦法と、魔素を吸って異質に強化された力に、一切の反撃もできずに蹂躙されていった。森の最深部は、ニャメによる「主の瞬殺」と、コンタの配下たちによる「雑兵たちの殲滅」という、二つの暴力の嵐に包まれた。
キョムが、採取した薬草の数を数え終わり、マジックバッグの出し入れを完全にマスターしたその裏で。 迷いの森の生態系は、コンタの配下の妖怪たちとニャメによって、徹底的に破壊され、蹂躙されていたのであった。




