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第五章:新天地の魔素と、三つの名

二つの太陽が、どこまでも広がるあおい大空から温かい光を注いでいた。  見渡す限りの草原。頬を撫でる風は、東京のあの凍てつく雪の冷たさとは無縁の、どこか甘く、芳しい香りを孕んでいる。

男――かつて孤独の極致で「無」の深淵に達した者は、素足につっかけサンダルという奇妙な格好のまま、その草原にぽつねんと立っていた。

彼の首には、あの化け猫が、まるで上質なマフラーのように恭しく巻き付いている。巨大な二股の尾を持つ妖獣としての威容はどこへやら、今やただの温かく、重みのある毛長猫として、男の喉元に顔を埋めていた。  そして男の足元。かつて千年の怨念を束ね、世界を恐怖に陥れた九尾の狐が、今や柴犬の子犬ほどのサイズに縮み上がり、耳をぺたりと寝かせて震えていた。転生の超重力によって、その強大な霊力のほとんどを剥ぎ取られてしまったのだ。

「……行くか」

男が呟き、あてもなく歩き出す。首の猫は、重たげに喉をゴロゴロと鳴らした。  子狐は、行く当てもなく、ただすがり付くように男のサンダルの後をとぼとぼとついていく。前世であれば、男を喰らい尽くそうとしていた頂点捕食者が、今や捨て犬のような哀愁を漂わせていた。

歩きながら、子狐は自らの鋭敏な嗅覚をひくつかせ、この世界の空気を検分していた。 (……何だ、この空気は。美味すぎる)

子狐は驚愕していた。  前世の世界では、生物の死や怨念から生じる淀んだ「瘴気しょうき」を喰らい、自らの力へと変換していた。しかし、この世界を満たしている不可視の粒子は、瘴気のような腐敗した匂いが一切ない。ひどく清流に近く、それでいて生命力に満ち溢れた、濃密なエネルギー。

それこそが、この異世界における万物の根源――「魔素まそ」であった。  この世界には、前世のようなドロドロとした怨念の瘴気ではなく、純粋な魔素が、大気中に川のように滔々(とうとう)と流れている。力を失い、干からびた子犬のようになっていた狐にとって、この大気は、砂漠に湧いたオアシスも同然であった。呼吸をするたびに、乾いた魂の奥底に、魔素がじわりと染み込んでいくのを感じる。

(この世界の魔素を喰らい続ければ、いずれ……いずれ、吾輩わがはいの千年の力も、元の九尾の巨躯も、取り戻せるやもしれぬ!)

子狐の目に、微かな野望の光が灯る。  だが、ふと前を歩く男の背中を見上げた瞬間、その野望は急速に縮小した。男の歩く軌跡。その周囲だけは、大気中の魔素すらも、音もなく「無」へと吸い込まれ、消失しているのだ。

(……いや、駄目だ。この男のそばにいる限り、魔素を吸う端から、この男の虚無のブラックホールに吸い取られてしまう。なんて理不尽な生態系だ)

子狐は耳を垂らし、再びとぼとぼと歩を進めた。


やがて、草原の彼方に、巨大な石造りの城壁が見えてきた。  中世ヨーロッパを思わせる、重厚な建築様式。城門の前には、鎧を着込んだ兵士たちが立ち、往来する馬車や旅人の検問を行っている。

男が、部屋着にサンダル、首に猫、足元に狐という、あまりにも怪しげな風体で城門に近づくと、兵士たちは一斉に槍を構え、鋭い視線を向けた。

「おい、止まれ! 見ない格好だな。……不審者か?」

男は、表情一つ変えずに、ただ静かに兵士を見つめた。その瞳の奥にある絶対的な虚無に、屈強な兵士たちが一瞬、気圧けおされたように息を呑む。  男は、首の猫と、足元の子狐を指差した。

「……旅の者だ。この二匹は、俺のペット。従魔じゅうまだ」

兵士たちは、男の奇妙な格好と、その足元の子狐、首の猫を交互に見比べた。子狐は、兵士たちに怪しまれぬよう、必死に愛想を振りまき、キャンと可愛らしく鳴いてみせた。千年のプライドをかなぐり捨てた、見事な世渡りである。

「従魔か……。なるほど、テイマー(魔物使い)だな。なら話は早い。街に入るのは構わんが、街の中で魔獣が暴れないよう、すぐに『従魔ギルド』に行って登録を済ませてくれ」

槍が下ろされ、男はあっさりと街の中へと入れてもらうことができた。

石畳の敷かれた街並みは、活気に満ちていた。  行き交う人々、露店から漂う美味そうな肉の焼ける匂い。男は、兵士に教えられた通り、まずは街の一角にある「従魔ギルド」の重い扉を開けた。

ギルドの中には、様々な魔獣を連れたテイマーたちがたむろしていた。  受付の恰幅の良い女性が、男の部屋着とサンダルを見て、目を丸くする。

「あら、珍しい格好ね。従魔の登録? 登録料は、二匹で銀貨二枚よ」

男は、自分のふところを探った。当然ながら、この世界の通貨など一枚も持っていない。  だが、男が着ている、東京のユニクロで買った何の変哲もない「綿のスウェット」が、受付の女性の目に留まった。

「ちょっと、お兄さん。その服……見ない生地ね。ひどく肌触りが良さそうだし、織り目が信じられないほどに緻密だわ。もしかして、どこか遠い異国の、最高級の絹か何か?」

男は、自分の着古した部屋着を見下ろした。ただの、毛玉のついたスウェットである。 「……ただの古着だ。金になるなら、売ってもいい」

「売る!? 本気? こんな極上の布地、貴族の商人が泣いて喜ぶわよ。ちょっと待って、ギルドの裏に、中古の冒険者用の服(革鎧と麻のシャツ)があるから、それと交換、プラス登録料と、当面の生活費として金貨三枚でどう?」

「構わない」

男は、あっさりと自分のスウェットを脱ぎ捨て、ギルドの奥で、無骨な麻のシャツと、使い込まれた革の胸当て、頑丈なズボンに着替えた。足元も、履き慣れたサンダルから、硬い革のブーツへと履き替える。  着古した部屋着一枚が、金貨三枚(この世界では、一般市民が数ヶ月は遊んで暮らせる大金)に化けたのだ。男は、その中から登録料を支払い、猫と子狐の「従魔登録証」を発行してもらうことにした。

「はい、それじゃあ従魔たちの名前を教えてくれる?」

受付の女性が、羽根ペンを構える。  男は、腕を組み、少しだけ考えた。名前など、どうでもよかった。だが、登録には必要だという。男は、足元で尻尾を振っている元・九尾の狐を見下ろした。

「狐は……『コンタ』。猫は、『ニャメ』」

受付の女性が、さらさらと羊皮紙に名前を書き込んでいく。  その瞬間、足元の狐の身体が、怒りと屈辱で限界まで沸騰した。

(コ、ココ、コンタだとぉぉぉぉぉっ!?)

子狐は、内心で激しい咆哮を上げた。  吾輩は、千年にわたり、神獣として崇められ、妖怪の頂点として君臨してきた、畏るべき九尾の大妖怪であるぞ! 玉藻前たまものまえとも、白面金毛九尾のはくめんこんもうきゅうびのきつねとも呼ばれ、国を傾け、歴史を闇に葬ってきた、この吾輩の名前が……コンタ!?

(ふざけるな! あまりにも軽薄! あまりにも間抜け! せめて、もっと禍々しく、畏怖を抱かせるような、神々しい名を付けんか、この人間の分際でぇっ!)

子狐は、男のズボンの裾をガブガブと噛みつき、激しく抗議の意思を示した。キャンキャン! と、喉をからして抗議する。  しかし、男は、その子狐の頭を、無慈悲にぽんぽんと叩いた。

「よしよし、コンタ。気に入ったか」

(気に入るわけがあるかぁぁっ!)

一方、首のマフラーと化していた猫――ニャメは、自分の名前をひどく気に入ったようであった。男の首にすりすりとしがみつき、嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らしている。大妖怪としての矜持など、とうの昔に日向ぼっこの温もりに売り払ってしまったのだ。

「はい、登録完了ね。コンタちゃんに、ニャメちゃん。可愛いお名前!」

受付の女性が、にこやかに登録証を差し出す。男はそれを受け取り、懐に仕舞い込んだ。  女性は、男の無骨な革鎧姿を見つめ、親切そうに言った。

「ところで、お兄さん。着替えて、大金も手に入ったけど……この街でどうやって生きていくか、決めてる? 手に職がないなら、手っ取り早く、かつ確実に稼げるのは『冒険者』よ。お兄さん、従魔を二匹も連れているテイマーなんだから、魔物の討伐や、素材の採取依頼なら、すぐにこなせるわ。あそこの大通りを真っ直ぐ行ったところに、冒険者ギルドがあるわよ」

「冒険者、か」

男は、静かに頷いた。  前世では、嫌な会社に行き、嫌な仕事をこなし、中流とも下流ともつかない、不透明な生活をただこなしていた。この世界でも、生活の基盤を築くためには、何かしらの職が必要になる。

男は、従魔ギルドを後にし、教えられた通りに大通りを歩いた。  たどり着いたのは、従魔ギルドよりも遥かに巨大で、騒がしい、鉄と木材で造られた頑強な建物。看板には、交差した二本の剣が彫られている。

扉を開けると、中には、武器を背負った屈強な男たちや、杖を持った魔導士たちが、酒を飲み、笑い、依頼掲示板を睨みつけていた。熱気と、汗と、鉄の匂いが立ち込める場所。

男は、喧騒を縫って、受付へと進み出た。  受付の若い男性職員が、男の革鎧と、連れている従魔たちを見て、営業スマイルを浮かべる。

「ようこそ、冒険者ギルドへ! 新規の登録をご希望ですか?」

「ああ」

「では、登録用紙に、お名前の記入をお願いします」

差し出された羊皮紙。  男は、羽根ペンを手に取り、自分の名前の欄を見つめた。  前世での、しがらみに満ちた名前。自分の存在価値を疑い、孤独に打ちひしがれていた時の名前。そんなものは、もう必要なかった。今の自分には、何もない。

男は、静かにペンを走らせた。

『キョム(虚無)』。

自らの本質を、そのまま名前にした。  男――キョムは、書き終えた用紙を受付に差し出す。

「キョム、さんですね。承りました! これで、あなたも今日から、我がギルドのFランク冒険者です!」

キョム、ニャメ、そして不本意極まりない名を押し付けられた、不貞腐れ顔の子狐・コンタ。  何もない男と、二匹の大妖怪(?)による、異世界での「無」を巡る冒険が、今ここに、静かに幕を開けた。


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