第二章:臆病の結界と、前住人の軽薄
男の放つ絶対的な虚無が、九尾の狐の放つ傲慢な貪欲さを侵食し始めた、その時であった。 尾の檻の、最も暗く、淀んだ片隅から、この場の重苦しい空気を一瞬でぶち壊すような、ひどく軽薄な声が響いた。
「うわぁ、マジかよ……。狐の旦那の瘴気をガチでスルーするとか、アンタ、人間やめてね?」
闇から滲み出るようにして、一人の男の霊が現れた。 年齢は三十代半ば。Tシャツに、履き古したジーンズという、ひどく現代的でラフな格好をしている。顔立ちはなかなかに整っているが、どこか落ち着きがなく、ヘラヘラとした薄笑いを浮かべている。
彼こそが、あのマンションの部屋の前住人。両足を砕かれ、激痛に耐えながら、孤独のうちに餓死するという凄惨な最期を遂げた男であった。 だが、その霊体は、檻の壁に張り付いている他の怨霊たちのように醜く歪んではいない。それどころか、死の瘴気をやけに濃密に、かつ安定して保ち、まるで生きている人間がそこに立っているかのような「普通さ」を維持していた。
前住人の霊は、主人公の男に近づくと、馴れ馴れしく肩に手をかけようとした。だが、その手が主人公の身体に触れる直前、何か見えない壁に弾かれたようにピクリと止まった。前住人は、大袈裟に手を引っ込める。
「おっと、危ねぇ。アンタの『空っぽ』、触ったら俺まで吸い込まれそうだ。文字通り、存在ごと消されちまう」
前住人はひらりと身を翻し、主人公から一定の距離を保った。その態度はどこまでも軽薄に見えるが、その瞳の奥には、強烈な「臆病さ」と、獲物を狙う獣のような「鋭い観察眼」が同居していた。
主人公は、ゆっくりと前住人に視線を向けた。その視線すらも、すべてを無差別に吸い込むブラックホールのように重い。 「……あんたが、前の住人か」
「そうそう、大正解! 幽霊になっても、この男前は健在でしょ? 管理人のおじいちゃん、俺のこと『からっと明るい良い青年』って言ってただろ? 全く、人を見る目がないよねぇ」
前住人は、自分の死体を指差すように、おどけてみせた。その仕草一つ一つに、死者としての重厚さはなく、まるで大学のサークル室で喋っているかのような軽さがある。
「俺さ、生前は本当にからっと明るいのが取り柄で、悩みなんてない、ストレスフリーな人間だって思われてたんだよ。でもさ、現実は全然違う。俺は、超が付くほどのビビりで、怖がりで、ヘタレだったわけ。幽霊とか、妖怪とか、ガチで無理なタイプだったの。他人の悪意とか、不穏な空気とかを、過剰なまでに察知しちまうから、それを隠すために、必死で明るくおどけて、バカなフリをしてたんだよね」
彼は、檻の周囲を埋め尽くし、自分をギロギロと睨みつけている凶悪な妖怪たちを指差した。
「だから、あの子猫――化け猫ちゃんに誘い込まれて、この稲荷神社に迷い込んで、狐の旦那に足をポキポキってやられた時は、もう人生最大のホラー、最悪のバッドエンドだったね。痛いし、暗いし、怖いし、死にたくないし……。泣き叫んで、許しを請うて、そのまま飢え死にするなんて、お笑い種だろ?」
前住人の霊体が、その時の恐怖を思い出したかのように、微かに揺らぐ。瘴気が乱れ、その臆病さが露わになる。しかし、霊体そのものが崩壊することは決してない。むしろ、その恐怖の揺らぎが、彼の霊としての輪郭をより強固なものへと凝縮させていく。
「でもさ、死んでから気づいたんだ。俺、生前も死んでからも、変な奴らに好かれるっていうかさ……」
彼は、少し自虐的な笑みを浮かべた。 「俺ってさ、臆病すぎて、周囲のネガティブな感情とか、悪意とかに、ひどく敏感だった。それを必死で隠すために、明るく振る舞ってた。でも、妖怪や悪霊どもにとって、その『過敏な恐怖』は、極上のディナーなんだよ。俺の恐怖の波動が、彼らにとってはたまらなく魅力的で、美味い。だから、狐の旦那も俺をすぐには喰わずに、檻のコレクションとして、生かさず殺さず飼ってたわけだ」
九尾の狐が、檻の奥から、地底のマグマのような低い声で言葉を継いだ。
『その通りだ。この男の臆病さは、ただの弱さではない。自らの魂の境界線を、極限まで鋭敏にし、尖らせる。妖怪どもは、その鋭い魂の波動に、恐怖と魅力を同時に感じるのだ。近づけば、自らの霊体を切り裂かれる。だからこそ、どの有象無象も、この臆病な男の霊に触れることができぬ』
前住人は、大袈裟に肩をすくめた。 「旦那にそんな大層に言われると、複雑だなぁ。……まぁ、そんなわけで、俺は死んでも、この姿を保ててる。俺の臆病さが、一種のトゲトゲの結界みたいになって、旦那の瘴気からも、他の妖怪からも、俺自身を守ってくれてるんだよ。誰も、俺に触れない。俺も、誰にも触れられない。悲しいくらい、孤独なバリアだけどね」
彼は、主人公の目を真っ直ぐに見つめた。 「アンタは『虚無』で自分を守ってるけど、俺は『臆病』で自分を守ってる。似てるようで、真逆だよね。アンタは何もかもを自分の中に呑み込んで消しちまう。俺は、何もかもを自分の中から弾き飛ばして遠ざける。……どっちがマシなのかなぁ?」
前住人の臆病さ。それは、彼が只者ではないことを示していた。彼は、自分を怖がらせるものを憎むのではなく、その恐怖を自らの魂の防壁へと変換し、自我を保ち続けている。凶悪な妖怪も、彼の「恐怖という過敏な防衛本能」が生み出す鋭利な刃の結界には、近づくことすらできないのだ。
「アンタを見てると、生前の俺が、どれだけ必死に自分の『空っぽ』を隠そうとしてたか、よく分かるよ。俺は空っぽが怖くて、それを恐怖や臆病さで埋めて、尖らせて、世界を拒絶してた。でも、アンタは、もう隠すことすら諦めたんだ。虚無であることを、そのまま受け入れた」
前住人は、寂しげな笑みを浮かべた。 「解脱、か。羨ましいような、寂しいような。……なぁ、アンタ、本当にこのままでいいの? ここに吸い込まれて、狐の旦那の一部になって、永遠に世界を恨み続ける化け物になる。それとも、アンタの『空っぽ』が、この旦那ごと消し去っちまうか。どっちに転んでも、俺には興味津々だけどさ」
彼は、主人公の足元で喉を鳴らす巨大な化け猫に視線を移した。 「あの子、アンタに懐いてるね。……俺の時は、あんなに優しくなかったのにさ。まぁ、当然か。俺は恐怖で拒絶してたけど、アンタは虚無で受け入れてるんだからな。猫ってのは、自分を拒絶する奴より、何も言わずにそこにいてくれる奴を好むもんさ」
前住人の霊体が、ゆっくりと、光の粒子となって闇に溶け込み始めた。 「まぁ、頑張りなよ、ブラックホールさん。アンタの『空っぽ』が、この千年続く地獄をどう変えるか、俺は特等席で見せてもらうからさ。ビビりの俺には、これ以上ここにいるのは心臓に悪いし、いや、心臓なんてもう無いんだけどね!」
軽薄で、やたら臆病な前住人の霊は、最後ににこっと少年のような笑みを浮かべ、姿を消した。 彼が消えたあとの檻の中には、再び、九尾の狐の重圧と、主人公の無限の静寂だけが残された。
だが、その静寂の中に、前住人の臆病さが残した「世界の境界線」の鋭さと、化け猫の柔らかな温もりが、確かな波紋として刻まれていた。男の空洞は、それらの波紋をも静かに呑み込みながら、より深く、より広大に、檻の空間を侵食し続けていた。




