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第一章:深淵の檻と、無の男

そこは、現実のことわりが容易くねじ伏せられた、異形の神域であった。  国道沿いのビルの狭間に、ひっそりと息を潜めるように佇んでいた古びた稲荷神社。その空間は今、巨大な九本の尾によって編み上げられた、肉と毛並みと瘴気による巨大なドーム状の檻へと変貌を遂げている。

編まれた尾の隙間からは、九尾の狐が千年にわたり喰らい、使役し、呪縛してきた無数の獣や人間の怨霊たちが、よだれを垂らし、飢えた目をぎらつかせて内側を覗き込んでいた。怨霊たちの吐き出す息はどす黒い霧となり、檻の内部をねっとりとした死の匂いで満たしている。普通の人間であれば、この場に足を踏み入れた瞬間に、精神が崩壊するか、肉体が腐り落ちるであろう絶対的な魔境。

その異形の檻の最奥に、一人の男が立っていた。  男は、三十代半ば。どこにでもいる、目立たない風貌の、いわゆる「普通」の人間である。上着も羽織らず、薄手の部屋着のまま、素足につっかけサンダルという、およそ戦いにも死の儀式にも不釣り合いな無防備な格好であった。

彼の足元には、先ほどまで彼をここへいざなっていた小さな子猫の霊が、本来の姿である巨大な二股の尾を持つ化け猫(猫又)へと膨れ上がり、うずくまっている。本来であれば、大妖怪の放つ瘴気だけで人間など消し飛ぶはずであった。しかし、男は平然とそこに立っていた。

男の瞳には、恐怖も、絶望も、驚きすらなかった。  ただ、絶対的な静寂。  テレビの音量を最大にしなければ、己の存在すら霧散してしまいそうだった、あの泥濘ぬめりのような孤独。それが沸点を超え、彼の中で、宇宙の果てのような完全なる精神の空洞へと昇華してしまっていた。かつては彼を苛んでいた孤独が、今や、あらゆる外的要因を無効化する絶対の盾へと変貌していたのである。

九尾の狐の巨大な前足が、轟音と共に男のすぐ目の前に下ろされた。爪の一本だけでも、男の胴体ほどの太さがある。 『……クク、面白い。実に見事なうつわだ』

狐の口から漏れる声は、地鳴りのようでありながら、同時に老若男女、何千人もの人間の声が重なり合ったような不気味な和音を奏でていた。

『人の身でありながら、己の内側に「」が一切ない。善も、悪も、生への執着も、死への恐怖もない。ただ、無限に広がる絶対の静寂。解脱の域に達した虚無か。貴様はまるで、生きたブラックホールだな』

狐の双眸が、貪欲な光を宿して細められる。  千年以上、この世の欲望、憎悪、嫉妬を喰らい続けてきた大妖怪にとって、この男の「空洞」は、これ以上ない極上の秘宝であった。男をこの檻の中心に据えておくだけで、周囲の霊や妖怪、果ては生きた人間の魂までもが、巨大な重力に引き寄せられる砂鉄のように、勝手にこの檻へと流れ込んでくる。何という効率的な罠であろうか。

『我が尾の檻を、もっと広く、もっと禍々しく、この世のすべてを包む巨大な世界へと作り替えたいのだ。森羅万象の魂を、我が尾の中に囲い、我が一部としたい。貴様という、すべてを無差別に吸い寄せる特異な誘蛾灯ゆうがとうがあれば、それも容易いこと。神をかたり、仏を偽り、この世のすべての信仰と絶望を、我が胃のに収めてくれるわ』

九尾の狐は、その巨大な尾をさらにきつく編み上げ、檻の強度を高めた。外の世界からの光は完全に遮断され、ただ狐の身体から発せられる怪しい燐光だけが、暗闇を青白く照らしている。

男は何も答えなかった。ただ、自らの足元を見つめていた。  そこには、怯え、震える大妖怪の化け猫がいた。巨大な体躯を持ち、凄まじい妖力を秘めた猫又でありながら、その瞳は、主である九尾の狐への絶対的な恐怖に縛られ、同時に、男に対しては、ひどく悲しげで、慕わしげに潤んでいる。

この化け猫もまた、狐の尾の檻に囚われ、無理やり手駒にされている犠牲者の一柱に過ぎなかった。  化け猫の本質は、人を呪う妖怪などではないのだ。かつて、優しい主人のふところに手を潜り込ませ、縁側の日向ぼっこで喉を鳴らしていた、ただの愛らしい「猫」の魂。人恋しくて、温もりを知りたくて、だからこそ、孤独の極致にいた男の部屋に、自ずと引き寄せられてしまったのだ。子猫の姿を借りて彼に近づいたのは、ただ、誰かに愛されたかったから。

男は、ゆっくりと視線を九尾の狐へと上げた。その瞳は、深淵のように黒く、静かだった。 「……猫が、鳴いていたんだ」

男の口から漏れた声は、ひどく掠れて、だが不思議なほど透き通っていた。

「俺の部屋の前で、ずっと鳴いていた。俺は、テレビの音を大きくしないと息もできないくらい、寂しかった。だから、あの子が来てくれて、救われたんだ。あの子の鳴き声だけが、俺の空っぽを埋めてくれた。あの子が食べてくれた、ソーセージや、揚げ出し豆腐の感触だけが、俺が生きてる証だった」

『くはは! 情に訴えかけるか、愚かな人間よ。その猫が、貴様をこの死地へ誘ったのだぞ? 貴様の足を複雑骨折させ、なぶり殺しにした前住人も、すべてこの猫が誘い込んだのだ。貴様は、己を死へと追いやった死神を、愛でようというのか』

狐が嘲笑う。その嘲笑に合わせて、周囲の檻に張り付いた怨霊たちが、一斉に金切り声を上げた。空間が震え、常人であれば鼓膜が破れ、三半規管が狂い、その場で嘔吐するであろう凄まじい音波の暴力。  だが、男の表情はぴくりとも動かなかった。  怒るでもなく、裏切られたと絶望するでもなく、ただ、哀しげに納得したように頷いた。

「そうか。あの子も、無理やりやらされていたんだな。……可哀想に」

男は、自らの足元に丸まる巨大な化け猫の頭に、そっと、躊躇いもなく手を伸ばした。  化け猫の身体が、びくりと強張る。本来、大妖怪が放つ瘴気は、生身の人間なら触れた瞬間に魂が消し飛ぶ猛毒である。化け猫自身も、自分の力が男を傷つけてしまうことを恐れ、身を引こうとした。  だが、男の指先が、化け猫の濡れた毛並みに触れた瞬間――。

男の「無限の空洞」が、化け猫から溢れ出る邪悪な瘴気を、音もなく吸い込んでしまったのだ。  それは中和というよりも、消失であった。男の内に広がる絶対の虚無が、妖力を、瘴気を、そのまま無へと変換してしまったのである。

化け猫は、雷に打たれたような衝撃を受けたあと、人間の温もりを思い出したかのように、目を細め、男の手にすり寄った。ゴロゴロと、大妖怪の喉が、ただの飼い猫のように鳴り響く。

『……何だと?』

九尾の狐の目が、初めて怪訝けげんに細められた。  自分の支配下にある妖怪の瘴気を、恐怖も抵抗もなしに、ただ「無」へと還してしまった。

『貴様、自分が今、どこにいるか分かっているのか? 貴様の魂は今、我が尾の檻の中で、なぶり喰らわれようとしているのだぞ。なぜ、そこまで平然としていられる。なぜ、我が威圧に、我が瘴気に、恐怖を抱かない!』

狐の咆哮が檻を揺らす。それは、絶対的な捕食者としてのプライドを傷つけられた焦燥の表れでもあった。

男は、自らの胸にそっと手を当てた。そこには、心臓の鼓動以外、何の感情の動きもない。 「奪うものも、守るものも、俺にはもう何もない。家も、家族も、プライドも、自分自身の価値も、全部なくなった。だから、あなたが俺をどうしようと、俺の『無』は、何も変わらない」

男の瞳の奥。解脱の域に達した「完全なる空っぽ」が、九尾の狐の燃えるような眼を捉える。

「……あなたが、どれだけ貪欲にすべてを囲い込もうとしても、最後は、この俺の『空っぽ』に吸い込まれるだけだ。すべてを奪い尽くした先に、あなた自身もまた、この虚無に呑まれる。あなたは、本当にそれでいいのか?」

静かな、だが絶対的な、重力としての言葉。  千年の怨霊である九尾の狐は、目の前の矮小な、死にかけた人間から発せられる「底なしの虚無」に、背筋が凍るような、奇妙な戦慄を覚えた。

喰らおうとしているのは、狐なのか。  それとも、この男の空洞に、自ら吸い込まれようとしているのは、狐の側なのか。

暗黒の檻の中に、物理的な質量を持った「静寂」が、ゆっくりと、だが確実に満ちていった。


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