第十八章:遺跡の深淵と、臆病の羅針盤
ガーゴイルの群れを瞬く間に蹂躙し、キョムの一行はついに歩花が指し示した「呪われた遺跡」の入り口へと到達した。 それは、荒涼とした山肌をくり抜くようにして作られた、古代の石造りの神殿であった。入り口の巨大な石柱には、血管のように脈打つ不気味な赤いルーン文字が刻まれており、そこから漏れ出る瘴気が、周囲の空間をねっとりと歪ませている。
キョムの虚無のインベントリに眠る『魔王の魔剣』が、共鳴するように影の底で微かに震えた。ここが、次の古代魔王の武具が眠る場所であることは疑いようがなかった。
「……ここだな。入るぞ」
キョムが淡々とした口調で言い、一歩を踏み出そうとした。 だが、その前に立ちはだかったのは、またしても半ベソをかいたビビろうであった。背負った巨大なミスリルの大盾を、まるでお守りのように背中でガタガタと鳴らしながら、彼はキョムの行く手を遮る。
「ちょ、ちょっと待ってよキョムさん! こんなおあつらえ向きの、死にに来てくださいって言わんばかりの不気味な入り口に、正面から堂々と入る気!? 罠だよ! 絶対に一歩入った瞬間に、天井から巨大な鉄球が落ちてくるとか、床から毒の針が飛び出てくるとか、そういう陰湿なトラップが満載に決まってるじゃん!」
ビビろうは、涙目で周囲の石壁や床を凝視した。 普通ならただの古びた石材にしか見えない場所。だが、世界一の臆病者であるビビろうの「悪意や危険に対する過剰なまでの防衛本能(察知能力)」が、暗闇の中に潜む不吉な気配を、恐ろしい精度で嗅ぎ取っていた。
「ほら見ろ! そこ! その三枚目の床のタイルの隙間、ほんの数ミリ沈んでる! 踏んだら絶対アウト! あと、そこの壁の継ぎ目! 吹き矢の穴が開いてるじゃん! 怖ぇぇぇ!」
ビビろうは、ガタガタと震えながら、落ちていた小石を問題の床へと放り投げた。 カチ、という小さな音と共に、石壁から無数の黒い吹き矢がシュシュシュッ! と音を立てて射出され、小石があった場所を正確に貫いた。矢の先には、紫色の禍々しい毒が塗られている。
(お、おお……! ビビろうよ、貴様のその情けない臆病さ、こと迷宮の罠においては、最高に役に立つではないか!)
足元でコンタが、二本の尻尾を揺らしながら感心したように子犬の鼻を鳴らした。
「……助かるな。ビビろう、先頭を歩け」
「嫌だ! なんで俺が先頭なのさ! 死んじゃう! 嫌だぁぁぁ!」
「……決定だ。盾を背負って、ゆっくり歩け。俺たちが後ろからついていく」
キョムの無慈悲な宣告により、世界一の臆病者であるビビろうが、皮肉にもパーティーの「安全な道先案内人(羅針盤)」として、半泣きになりながら遺跡の暗闇へと、抜き足差し足で進んでいくこととなった。
遺跡の内部は、外の光が一切届かない、完全なる暗黒の世界であった。 壁のルーン文字が怪しく赤く明滅し、大気中の魔素が淀んで、ねっとりとした死の気配が肌にまとわりつく。
ビビろうが「そこ、踏んじゃダメ!」「左の壁に触るな!」と、悲鳴混じりの警告を出しながら進むことで、パーティーは物理的なトラップを完璧に回避して進んでいた。 だが、遺跡の奥へと進むにつれ、物理的なトラップではない、別の怪異が彼らの前に立ちはだかった。
暗闇の中から、ゆらり、ゆらりと、半透明の白い影たちが浮かび上がってきたのだ。 それは、この遺跡で命を落とした古代の兵士たちの亡霊――物理的な肉体を持たない、精神生命体である『レイス(幽霊魔獣)』の群れであった。
「ギ、ギギギィ……」
レイスたちが、冷気と絶望の瘴気を撒き散らしながら、キョムたちを取り囲む。物理的な剣や、コンタの狐火の熱線、ニャメの神速の爪撃も、肉体を持たない彼らには、すり抜けてしまってまともなダメージが与えられない。
(おのれ、実体のない幽霊か! 吾輩の金炎でも、魂を直接焼くにはまだ出力が足りぬか……!)
「ニャァウ!」
コンタとニャメが、珍しく攻めあぐねて、レイスの群れを前に身構える。実体のない魔獣は、物理特化のアタッカーにとって最も相性の悪い相手であった。
「……私の、出番ですね」
最後尾。神獣ペガサス(おばあちゃん)の背中に乗っていた歩花が、凛とした表情で、自らの全身から淡い、桜色の浄化の光をふわりと放った。 歩花が、胸の前で両手を組み、静かに祈りを捧げる。すると、ペガサスの白銀の魔力と歩花の桜色の光が混ざり合い、大聖堂のときのような、圧倒的な聖なる輝きとなって、遺跡の暗闇を白昼のように照らし出した。
「迷える魂たちよ。……安らかに、光へと還りなさい」
歩花が放った桜色の光の波が、全方位へと優しく広がっていく。 それに触れたレイス(亡霊)たちは、断末魔の悲鳴を上げることもなく、穏やかな、救われたような表情を浮かべながら、音もなく光の粒子となって空中へと舞い上がり、成仏していった。
歩花の圧倒的な浄化の聖なる力。前世では魑魅魍魎に阻まれていた彼女の光は、この異世界の魔素を得て、真なる救済の光へと昇華していたのだ。
『はっはっは! やるじゃないか、歩花! 吾輩の翼の風と、あんたの光の相性は抜群だねぇ!』
おばあちゃんが誇らしげに嘶き、ふさふさとした白い尻尾を振った。歩花の活躍を見て、キョムの虚無の表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
レイスの群れを浄化し、ビビろうの羅針盤によってトラップを完全に無効化しながら、一行はついに遺跡の最奥――古代の玉座の間にたどり着いた。
そこは、天井から巨大な鍾乳石が垂れ下がる、広大な地下ドーム。 その中央。石造りの無骨な玉座の上に、それは鎮座していた。
――【古代魔王の鎧】。
漆黒の重厚な金属で鍛え上げられた、禍々しいフルプレートアーマー。その胸部には、深淵の闇を凝縮したかのような黒い宝玉が埋め込まれており、脈打つ赤い光を放っている。
そして、その鎧が周囲に放つ、世界を腐敗させる超濃度の瘴気は――先ほどの地下の魔剣すらも、遥かに凌駕していた。空間そのものが、鎧の放つ負のエネルギーによってミシミシと軋み、黒い稲妻が虚空を走っている。
(お、おのれ……! 前回の魔剣ですら恐怖したというのに、この鎧の放つ瘴気は、それを完全に上回っておるぞ……! この世界の魔王、一体どれだけの化け物なのだ……!)
コンタの二本の尻尾が、恐怖と戦慄で逆立った。ニャメも、神速の足を止め、全身の毛を逆立てて威嚇する。
だが、キョムはただ、静かに立っていた。 彼には、恐怖も、絶望も、重圧もない。 ただ、絶対的な静寂の虚無。
「……拾うぞ」
キョムは、世界を滅ぼすほどの瘴気を放つ古代魔王の鎧に向かって、無表情のまま、ブーツの音を響かせて歩いていった。 不条理とカオスを乗り越えたキョムの一行。彼らの、真なる古代魔王の武具を巡る探索は、その圧倒的な重圧を真っ向から受け止めながら、次なる驚愕の領域へと突入していくのであった。




