第十四章:魔剣の深淵と、臆病の命名
古代の災厄『深淵の魔王の心臓』を、神聖なる大聖堂の真ん中で平然と焼き、サガリの肉のように頬張る軽薄で臆病な男。 歩花はその光景に絶句し、聖女としての威厳も忘れ、ただただ開いた口が塞がらない。コンタに至っては、前世の強力な妖怪の長を呼び出したはずが、よりによってあの「臆病な前住人」が這い出てきたことに、がっくりと子犬の肩を落としていた。
「……美味いな。サクサクしてる」 キョムは、前住人から差し出された、魔王の心臓の「無害化された焼肉」を一切の躊躇なく受け取り、もぐもぐと咀嚼していた。
「でしょ!? キョムさんなら分かってくれると思ってたよ! これ、塩胡椒があったら最高なんだけどなぁ」
前住人がヘラヘラと笑いながら言う。 歩花は慌てて、キョムの腕を引っ張った。 「ちょ、ちょっとキョムさん! 食べないでください! それ、さっきまで王都を滅ぼそうとしていた古代の呪いの心臓ですよ!?」
「……美味しいぞ。歩花も、食べるか」
「食べませんっ!」
歩花が頬を膨らませて怒る。 そんな中、キョムはもぐもぐと咀嚼を終え、前住人を見上げた。この世界に肉体を持って再誕した以上、いつまでも「前住人の霊」と呼ぶわけにはいかない。従魔登録と同じように、彼にも識別するための名前が必要だった。
「お前の名前だが……『ビビるマン』にする」
キョムが、真顔で、一切の冗談抜きにそう告げた。 そのあまりに直球で、ネーミングセンスを疑わざるを得ない名前に、前住人のヘラヘラした笑顔がピキリと凍りついた。
「え、ちょっと待ってキョムさん!? ビビるマンって何!? ダサい! 超ダサい! 俺、これでも生前はイケメン枠で通ってたんだよ!? 嘘でしょ、そんなアメコミの三流ヒーローみたいな名前、ガチで勘弁して!」
前住人が、涙目で必死に抗議する。 歩花もさすがに同情したのか、苦笑いを浮かべながらキョムを宥めた。
「キョムさん、ビビるマンはさすがに、あんまりですよ……。もう少し、こう、呼びやすいお名前にしてあげてください」
「……そうか。なら、『ビビろう』にする」
「ビビろう!? いや、キョムさん、それって『ビビるマン』をちょっと和風にしただけで、ダサさの根本が全然変わってないからね!?」
前住人――もとい、新命名「ビビろう」が、頭を抱えて叫んだ。 だが、キョムは「決定だ」と言わんばかりに視線を逸らし、ビビろうの抗議を、自慢の虚無のブラックホールへと音もなく呑み込んで無きものにした。
(ククク……吾輩の『コンタ』に比べれば、まだマシな方ではないか、ビビろうよ)
コンタが、二本の尻尾を揺らしながら、意地の悪い勝ち誇った顔で子犬の鼻を鳴らした。
焼肉の宴(?)を終えたキョムの一行は、大聖堂の地下深く――かつて『深淵の魔王の心臓』が封印されていた、最深部の空間へと足を踏み入れた。 諸悪の根源であった心臓の瘴気そのものは、キョムの虚無によって完全に呑み込まれ、消滅している。正気を取り戻した王家の騎士たちや、歩花の祖母が転生した神獣ペガサスも、彼らの背後から静かに地下を見守っていた。
最深部の部屋は、漆黒の岩盤をくり抜いた、円形のドーム状の空間であった。 キョムたちは、そこに「本体」である古代の魔王自身が眠っているのではないかと、強い警戒態勢を敷いていた。コンタは二本の尻尾からいつでも狐火を放てるよう構え、ニャメ(猫又)も、その鋭い爪に白き神獣の魔力をみなぎらせている。
だが、部屋の中心の台座に、魔王の姿はなかった。 代わりにそこに鎮座していたのは、一本の「剣」であった。
「……あれは、何?」
歩花が、怪訝そうに呟く。 それは、漆黒の金属で鍛え上げられた、禍々しい両刃の魔剣であった。刀身には、まるで生き物の血管のように、脈打つ赤いルーン文字が刻まれている。
そして、その魔剣が放つ瘴気の濃度に、キョムやコンタ、ニャメは息を呑んだ。
先ほどまで、王都を呑み込もうとしていた『魔王の心臓』。あれはあくまで、魔王の身体の一部から漏れ出た残り香のようなものに過ぎなかった。 この台座に刺さっている【魔王の魔剣】、その一本が放つ、どす黒く、冷たく、世界を腐敗させる圧倒的な瘴気は――先ほどの魔王の心臓の深奥の瘴気を、遥かに、何十倍も上回る濃度で、空間を軋ませていたのだ。
(お、おのれ……! 本体がおらず、ただの『獲物』が残されているだけで、前世の九尾の吾輩すら怯むほどの圧倒的な瘴気か! この世界の『魔王』の力、吾輩たちの想像を遥かに超えておるぞ!)
コンタの二本の尻尾が、恐怖と戦慄で逆立った。大妖怪の直感が、この魔剣の主である「魔王」の、底知れぬ実力をまざまざと見せつけられていた。
部屋に一歩、足を踏み入れた女性魔導士(商会から派遣された者)が、魔剣の放つ超濃度の瘴気にあてられ、バタリとその場に昏倒した。歩花も、自身の桜色の浄化の光を全身に纏い、必死に瘴気の侵食を押し留めている。
この魔剣こそが、本体である魔王が、この王都の地下に遺した「道標」であり、「楔」であったのだ。 そして、その魔剣の放つ、世界を滅ぼすほどの邪悪な瘴気の最中に向かって、キョムは、静かに、無表情のまま、ブーツの音を響かせて歩いていった。
「キョムさん、危ないです! その剣、触れてはダメです!」
歩花が叫ぶ。 だが、キョムの「無」は、世界最強の魔剣の放つ超濃度の瘴気すらも、ただのそよ風のように受け流していた。
キョムは、台座の前に立ち、その禍々しい魔剣の柄に、そっと右手を伸ばした。 魔王の意志を宿した魔剣が、侵入者を拒絶するように、激しく赤い雷光を放ち、キョムの魂を内側から腐敗させようと牙を剥く。
「……静かにしろ」
キョムが、静かに呟いた。 彼の右腕から、一切の光を呑み込む、漆黒の虚無の重力が魔剣へと注ぎ込まれる。 激しく抵抗していた魔剣の赤い雷光が、キョムの虚無に触れた瞬間、悲鳴を上げるようにしてシュゥゥと音を立て、音もなく吸い込まれ、一瞬にして鎮火した。
キョムは、そのまま、何事もなかったかのように魔剣を台座から引き抜いた。 あれほど部屋を満たしていた、超濃度の邪悪な瘴気が、キョムが剣を握った瞬間、ピタリと止まり、彼の虚無の影の中へと収納されていく。
「な、魔王の魔剣を……手懐けた、というの……?」 目を覚ました女性魔導士が、信じられないものを見る目で呟いた。
キョムは、手に入れた古代の魔剣を、そのまま自分の影のマジックバッグ(虚無)へと無造作に放り込んだ。どれだけ禍々しい武器であろうと、彼の虚無のインベントリの中に放り込んでしまえば、外に悪影響を及ぼすことはない。
「……歩花。終わったぞ」
キョムが、静かに歩花の方を振り返る。 何もない男が、千年の大妖怪たちを従え、聖なる少女と、神獣の祖母、そして古代魔王の肉を食う臆病な男と共に、異世界の真なる巨悪――「魔王」の、圧倒的な力の片鱗をその手に収めた。
王都の地下の闇は晴れたが、それは、世界の果てに潜む、本物の古代魔王との、避けられぬ戦いの火蓋が切って落とされたことに他ならなかった。




