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第十三章:虚無の吐き出しと、臆病の再誕

古代の災厄『深淵の魔王の心臓』の瘴気をキョムが吸い込み、王城を蝕んでいた毒が消え去ったことで、王家の人々は正気を取り戻した。大聖堂を包んでいた重苦しい緊張は解け、キョムの腕の中には、安堵の涙を流す歩花の確かな温もりがあった。

だが、静寂が戻ったのも束の間。キョムの足元で二つの黄金の尻尾を揺らしていたコンタが、不満げにキョムの革ブーツをカリカリと引っ掻いた。

(おい、キョムよ! 確かに王都の危機は去ったが、油断するでないぞ。この世界の地下深く、あるいは世界の果てには、今の瘴気など比較にならん本物の『大魔王』が潜んでおる。吾輩の勘がそう告げておるのだ。今の吾輩(二尾)や、あの白猫、それに先ほどの大入道どもだけでは、真の魔王軍相手には到底、力が足りぬ!)

コンタは、小さな前足をキョムに向けてビシッと突き出した。

(貴様の腹の底(虚無)には、前世の檻にいた、もっと凶悪で強大な妖怪のおさたちが眠っておるはずだ。出し入れの感覚を掴んだのであろう? 吾輩の直属の幹部クラス、真の強者たちを引きずり出すのだ!)

「……強者、か」

キョムは、静かに自分の影(虚無)を見つめた。  確かに、先ほどの大入道や鎌イタチよりも遥かに巨大で、禍々しい妖気の塊が、虚無の最奥で眠っているのを感じる。キョムは意識を影の底へと沈め、その巨大な「何か」を、マジックバッグから荷物を取り出す要領で、引き揚げようとした。

「ぐ、ぅ……」

だが、キョムの喉から、苦悶の呻きが漏れた。  雑兵クラスの妖怪や、ただの物質であれば、今や思考一つで容易く出し入れができる。しかし、前世で数百年を生き、独自の「我」を確立した大妖怪の長ともなると、虚無の底に沈む質量が文字通り桁違いだった。  出し入れに慣れてきたキョムの精神をもってしても、内側から激しい反発と吐き気が競り上がり、容易には引きずり出せない。

「待ってください、キョムさん!」

その様子を見ていた歩花が、キョムの腕に自らの白い手を重ね、真剣な表情で制止した。

「いくらこの世界に魔素が満ちていて、キョムさんが制御できるとしても……前世で人々を苦しめた凶悪な妖怪たちを、この平和な世界に呼び戻すなんて、私は反対です。……それに」

歩花の視線が、キョムの足元で偉そうに踏んぞり返っているコンタへと向けられた。彼女の瞳の奥、聖女としてのレントゲンが、コンタの魂の奥底にある「九尾の狐としての業」を厳しく見据えている。

「そのコンタだって、前世ではどれだけの悲劇を引き起こしたか。……キョムさんが許しても、私は今すぐ、ここでこの子狐を浄化してあげたいくらいなんですから」

(ひ、ひぇっ……!?)

コンタが飛び上がり、キョムの足の裏へと大慌てで隠れた。覚醒した歩花の放つ桜色の浄化の光は、前世の比ではない。今の二尾の状態でまともに喰らえば、魂ごと消滅しかねないことを、コンタの野生の直感が理解していた。

「歩花。待ってくれ」

キョムは、怯えるコンタを庇うように、静かに歩花をなだめた。

「前世のことは、俺も知っている。だけど、この世界に来てからのコンタは、力も弱いし、前世ほど悪い奴じゃない。ただの、口うるさい犬みたいなものだ。……だから、今回は大目に見てやってくれないか」

キョムの、どこまでも静かで嘘のない言葉。  歩花は、キョムに庇われてホッとしているコンタ(子犬顔)と、キョムの凪いだ瞳を交互に見比べ、小さく、困ったように息を吐いた。

「……キョムさんがそこまでするなら、今は信じます。でも、もし悪いことをしたら、その時は私が容赦なくお仕置きしますからね」

(う、うむ……肝に銘じておくわ)  コンタが、キョムの影から恐る恐る頷く。

歩花の了承を得たことで、キョムは再び、虚無の底へと全神経を集中させた。  胃の腑がねじ切れるような激痛。額から大粒の汗が滴り落ちる。大妖怪の長を引きずり出すのは、まさに難産であった。キョムの足元の影が、ドロドロと不気味に、重々しく脈打ち始める。

「……出る。そこから、這い出ろ……!」

キョムが腹の底からの妖気を絞り出し、影に右手を突っ込んで、無理やり「何か」を引っ張り上げた。  ズブブブ……と、粘り気のある漆黒の影を割って、ついに実体化した人影が、大聖堂の床へと転がり出た。

「げほっ! ごほっ! ……うわぁぁ! マジかよ、息ができる! 苦しかったぁぁ!」

這い出てきたのは、禍々しい角を生やした鬼神でも、巨大な大蛇でもなかった。  Tシャツに、履き古したジーンズ。顔立ちは整っているが、やけに落ち着きがなく、ヘラヘラとした薄笑いを浮かべた、三十代半ばの男。

「……あんた、前の住人か」

キョムが、汗を拭いながら呆然と呟いた。  難産の末に、虚無の底から這い出てきた「強者」の正体。それは、かつて稲荷神社の檻の中で、自らの強烈な『臆病さ』を結界へと変換し、どんな凶悪な妖怪や九尾の瘴気をも弾き飛ばしていた、あの前住人の霊であった。

「そうそう! 前の部屋の男前、健在だよ! いやぁ、キョムさん、アンタの胃袋(虚無)の中、真っ暗で超怖かったんだけど! 孤独っていうか、無っていうかさぁ! ガチでビビり散らかしたわ!」

前住人の霊は、生き返った(?)自らの肉体をペタペタと触りながら、大袈裟に飛び跳ねた。  彼もまた、キョムが先ほど呑み込んだ『深淵の魔王の心臓』の濃密な魔素と、自身の「強者をも弾く臆病の霊性」がキョムの虚無の中で化学反応を起こし、この世界に肉体を持って再誕を果たしてしまったのだ。

「ちょっと待って、なんか良い匂いすんじゃん」

前住人は、キョムがマジックバッグ(虚無)に呑み込んだはずの、あの巨大な『魔王の心臓』の肉塊の端切れが、なぜか自分の手元にあることに気づいた。  普通なら、触れただけで精神が発狂する古代の呪いの心臓。  だが、前住人は、自らの「臆病という超・防衛本能」で、心臓の持つ呪いや瘴気だけを完璧に弾き飛ばし、ただの『純粋な栄養素(肉塊)』へと無害化してしまっていた。

「お、これ美味そうじゃん。お腹空いたし、ちょっと焼いて食べようぜ」

前住人は、大聖堂に転がっていた神殿騎士の、熱を帯びた鉄の盾をフライパン代わりにすると、コンタが放った狐火の残り火を使って、魔王の心臓の肉塊を、器用にジュウジュウと焼き始めた。

「ほら、キョムさんも食う? 意外とサガリ(横隔膜)っぽくて美味いよ!」

香ばしい、美味そうな肉の焼ける匂いが、神聖なる大聖堂を満たしていく。  前住人は、世界を滅ぼすはずだった古代魔王の心臓を、ただの「焼肉」として、ヘラヘラ笑いながら頬張り始めた。

歩花は、そのあまりの軽薄さと、古代の呪いを物理的に無視して完食している男の異常性に、ただただ開いた口が塞がらない。  コンタも、自分の最強の部下の長を呼び出したはずが、よりによってあの「臆病な前住人」が這い出てきたことに、がっくりと子犬の肩を落とした。

キョムは、焼肉を頬張る前住人の姿を、無表情のまま見つめていた。  何もない男、聖なる少女、化け猫、二尾の狐、神獣の祖母、そして、古代魔王の心臓を焼肉にして食う臆病な男。  前世の因縁と、異世界の不条理が煮詰まったようなキョムの一行の旅は、いよいよ誰にも予測のできない、カオスな領域へと突入していくのであった。


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