第十一章:白亜の籠と、桜色の聖女
眩いホワイトアウトの光が収まったとき、雪村歩花が目を開けた場所は、冷たい雪の降る東京の、あの薄汚れた稲荷神社の境内ではなかった。
見渡す限りの大理石。天を突くような高い天井と、極彩色のステンドグラスから差し込む、神々しいまでの光。そこは、異世界の中心に聳え立つ、神聖王国の王城の最奥であった。
「……おお、成功だ! ついに、異界より『桜の聖女』が降臨されたぞ!」
歩花の耳に飛び込んできたのは、豪奢な法衣をまとった老人たちの歓喜の叫びであった。 歩花は、床にへたり込んだまま、自分の身体を見下ろした。胸を貫いていたはずの、あの九尾の狐の断末魔の呪縛による傷痕は、跡形もなく消え去っている。それどころか、彼女の魂の奥底から湧き上がる「浄化の力」は、前世の比ではないほどに濃密で、圧倒的な神聖さを帯びて、彼女の全身を満たしていた。
歩花が息を吸うたびに、彼女の周囲の空間に、淡い、桜色の光の粒子が、満開の花弁のように舞い踊る。それは、この世界の濃密な魔素と、彼女の清らかな霊性が、完璧に、かつ過剰なまでに共鳴し合っている証拠であった。
「聖女様! さあ、我が教会の導きに従い、この穢れた世界に、神の祝福を!」
教会の最高権力者である枢機卿たちが、歩花を取り囲み、恭しく跪いた。 だが、歩花はその老人たちの瞳の奥に、信仰心などではない、どろりとした「欲望」と「打算」が渦巻いているのを、彼女の天性の霊視能力で、はっきりと見抜いていた。
歩花が転生したこの神聖王国は、平和とは程遠い、醜い権力闘争の真っ只中にあった。
王城を二分する、二つの巨大な勢力。 一つは、古来よりこの国を統治してきた、国王と第一王子を筆頭とする「王家」。 もう一つは、神の代弁者を名乗り、民衆の信仰を一手に束ねる、法王と枢機卿たちの「教会」。
かつてないほど強大な浄化の力を持つ歩花の降臨は、このパワーバランスを、根底から破壊する劇薬となった。教会は、歩花を『神から遣わされた奇跡の象徴』として囲い込み、王家を出し抜いて、国の全権を掌握しようと目論んでいた。 対する王家は、教会の専横を阻止するため、歩花を王家直属の『国母』、あるいは王子の妃として迎え入れ、自らの血統の正当性を強化しようと躍起になっていた。
「歩花様。教会の老人たちの甘言に乗ってはなりません。あなた様を真に保護し、この国の繁栄のために導くことができるのは、我が王家の血脈のみにございます」
豪華な絨毯が敷かれた王城のバルコニーで、第一王子が、歩花の手を取ろうと、甘い言葉を囁きかける。 だが、歩花が王子を視ると、彼の魂の奥底には、教会への強い憎悪と、歩花の「力」を政治利用し、絶対的な独裁権力を握ろうとする、黒い支配欲が透けて視えた。
教会も、王家も。誰も、歩花自身の意思など、見てはいなかった。 彼らが求めているのは、彼女の圧倒的な「聖女の浄化の力」そのもの。この王都の地下深くに封印されている、古代の災厄『深淵の魔王の心臓』から立ち上る、どす黒い瘴気を相殺し、王都の偽りの繁栄を繋ぎ止めるための、ただの「生贄の電池」であった。
(……ああ、みんな、前世の神社にいた、あの魑魅魍魎たちと同じだわ)
歩花は、悲しげに瞳を伏せた。 人々が神聖な願いを捧げ、祈りを捧げる王都の大聖堂。だが、彼女の目には、その地下から立ち上る、人間の欲望と腐敗を喰らって肥え太った、醜悪な魔王の怨念が、王城のすべてを黒い触手のように包み込んでいるのが視えていた。
毎日、教会によって十字架の祭壇へと縛り付けられ、大聖堂のバルコニーから、民衆に「奇跡の光」を見せるように強要される。光を搾り取られるたびに、彼女の生命力は削られ、意識は朦朧としていった。
(……助けて、おばあちゃん。……キョムさん)
大理石の豪華な部屋。白亜の籠に閉じ込められた鳥のように、歩花は、窓の外の碧い空を見上げては、涙を零す日々を送っていた。 かつて孤独の極致にいた自分を、何の打算も、恐怖もなく受け入れ、美味しいと言って豆腐を食べてくれた、あの静かで、優しい、虚無の男性の姿が、どうしても脳裏から離れなかった。
そして、運命の日が訪れた。
大聖堂のバルコニーに立たされ、いつものように教会の枢機卿たちに命じられ、光を搾り取られていた、その時。
王都の、石畳の大通り。 遥か彼方の城門の方向から、歩花がこれまで一度も感じたことのない、途方もない「質量」が、王都の空間そのものを軋ませながら、近づいてくるのを感じた。
それは、光ではない。 あらゆる音、あらゆる色彩、あらゆる概念を、音もなく吸い込んで消し去ってしまう、絶対的な静寂の「無」。
(……え!? この気配、まさか……!)
歩花がハッと顔を上げ、大聖堂から街の目抜き通りを見下ろした。 教会の神殿騎士たちが、一斉に光の攻撃魔法を放っている。しかし、その眩い光の束が、街を歩く一人の男の周囲に触れた瞬間――。 煙も立てず、音も立てず、ただの光の粒子となって、漆黒の空間へと吸い込まれ、一瞬にして消滅した。
男の足元から、黒い影がドロリと広がり、そこから一つ目の大入道、鎌イタチ、巨大ムカデが這い出てくる。 教会の鉄壁の防御を、紙切れのように切り裂きながら、静かに、無表情のまま大聖堂へと歩を進める、その男。
「キョム、さん……!」
歩花が、バルコニーの欄干を握りしめ、歓喜に胸を震わせた。 彼は生きていた。そして、自分を救うために、この世界のいかなる法則をも無視する「絶対の虚無」を引っ提げて、この王都へと乗り込んできたのだ。
「聖女様、中へお戻りください! 異端のバケモノ共が、この大聖堂に攻め込んできました!」 枢機卿たちが狼狽し、歩花を奥へと連れ戻そうと、彼女の細い腕を鷲掴みにした。
「嫌、離して……!」
歩花が必死に抵抗した、その瞬間。 大聖堂の上空の、晴れ渡った大空から、教会の聖なる光とも、歩花の桜色の光とも異なる、銀色に輝く、純白の雷が降り注いだ。
バチィィィン! と、空間を切り裂く轟音が轟き、大聖堂の尖塔を白銀の稲妻が包み込む。 民衆も、教会の騎士たちも、何事かと一斉に上空を仰ぎ見た。
二つの太陽の光を背負い、大空から舞い降りてきたのは、神話から抜け出てきたような、翼を持つ白馬――神獣ペガサスであった。 そのペガサスの身体から放たれるのは、教会の偽りの光とは違う、どこまでも温かく、懐かしい、霊媒の光。
『しっかりおし、歩花。待たせたねぇ!』
神獣ペガサスの脳内から直接響き渡った、あの、大好きだったおばあちゃんの、悪戯っぽく笑う声。おばあちゃんの霊は、この世界の魔素と、歩花を救いたいという強烈な意思の力によって、最高位の神獣ペガサスとしての肉体を得て、この世界に再誕を果たしていたのだ。
「おばあちゃん……!」
歩花の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
大聖堂の正面扉を粉砕し、無限の虚無を纏って突き進むキョム。 彼を援護するように、天空を駆け抜け、白銀の雷を大聖堂の防衛陣に叩き落とす、神獣ペガサス(おばあちゃん)。
かつてないほどに強大な「無」と、神獣の「光」が、白亜の籠に囚われた聖女・歩花を救い出すために、教会の偽りの神聖を完膚なきまでに叩き壊さんと、今、王都の中心で合流を果たそうとしていた。




