【プロローグ:Nine Divines Quest】 ーその5ー
“少年”は“エステル”と相対していた。“少年”は不敵に笑い“エステル”は静かに佇んでいる。二人の間に流れる「空気」は冷たく、しかし今にも弾けそうなほど張り詰めていた。
直前まで降っていた雨の最後の一粒が、相対する二人のちょうど真ん中に落ちた。
それが合図だった。
“少年”が距離を一気に詰める。大きなストライドで“エステル”への最短距離を走る姿は、まるでチーターが獲物へと襲い掛かる寸前のような、ある種“神聖”な獰猛さを孕んでいた。
そんな“少年”の獰猛さを、“エステル”は最小限の動きでいなしていた。
──否、“動いて”すらいなかった。
一心不乱に殴りかかる“少年”の荒い息遣いを、まるで“微風”のように受け流す“エステル”の静謐さは、さながら“柳”のようであった。
いくら殴りかかっても一向に手応えを得られない“少年”は、業を煮やしたように、一度大きく後ろへ飛び退いた。呼吸を整え、大きく息を吐き、口の中で小さく舌打ちをした。
「どんな“手品”だ?いくら殴っても、まるで手応えがねえ……まるで“シャドウボクシング”をしてるみてえな感覚だ……」
“少年”はそんな疑問を投げかけるが、“エステル”は応えない。始まる前と同じく、ただ静かに佇んでいる。
「ま、てめえに応える『義理』はねえけどよ……」
“少年”は小さく嗤った。が、すぐにその嗤笑を収め、言葉を続けた。
「さんざてめえの『お喋り』に付き合ってやったんだ……少しはこっちの『お喋り』にも付き合ってくれてもいいんじゃねえ──ッか!」
言葉が終わる前に、“少年”の拳はもう一度、宙を走っていた。
愚直と言えば、余りにも愚直だった。盲滅法殴りかかったところで、手応えを得られないのは先ほどのやり取りで分かったはずである。それなのに“少年”は、ひたすら愚直に殴りかかった。
否、正確には先ほどと“全く同じ”わけではない。拳を差し込む角度を“少女”の死角からに変えてみたり、殴りつける“フェイント”を混ぜ込んでみたり、なんとか“届き得る”為に技巧の工夫はしてあるようであった。
だが、それでも“届かない”。
まるで「“小手先”では届かない」と“少年”に告げるかの如く、“エステル”は微動だにしていなかった。
“少年”と“エステル”の物理的な距離は、拳が届く距離であり極めて近い。確かにそこにいる感覚もある。だが“エステル”は、まるでホログラムに拳を叩きつけているかのように、触れることが出来ない。
「『雲を掴むような』ってのは、こういうモンか……」
そう独りごちた“少年”の息は上がり、肩が大きく揺れている。
対して“エステル”は、当然ながら呼吸を乱すこともなく“少年”の方を見遣り、
「──もう終わり、ですか」
と感情の乗らない声で言った。その言葉を聞いた“少年”は、グッと拳を握り直しながら、
「ああ?終わりのわけねえだろ。てめえに一発、良いの入れるまでは終わらねえんだよ」
と返した。
「──そう、ですか。では、存分に──」
“エステル”は涼しい顔で“少年”に告げた。
「届けてみせろ」とでも言わんが如く。
それを聞いた“少年”の握った拳に、一層力が込められたように見えた。
雨は、止んだ。しかし雲はまだ、割れない。
次回ーその6ーは1時間後の21:00に投稿予定です!