銀の階段⑦
そんな俺の元にゆっくりと水を割るように近づいてきたのはごま塩頭の初老の男。神津のおやっさんだ。おやっさんは俺の側に来て何も言わずに肩を貸してくれる。
少し格好悪いなと思いながらも、俺はそのおやっさんに縋りながら岸へと戻った。
岸では、いつも役場で受付をしている口数の少ない女性、松原さんが湖に入った人間にバスタオルを配っていた。俺はそれを受け取って肩に羽織る。
周囲を見れば、皆は一様に興奮気味だった。無理矢理引き戻した形ではあったが、それでも人が命を落とすのを阻止できたのだ。無理もない。
だけど、俺はなんとなくその高揚に共感できなくて、駆けつけてくれた皆から少し離れて近くにあった三人掛けのベンチの端に座り込んだ。
ぼんやりと暗い湖を眺めていた俺は、そのうちに自分の手足が意思に反してがくがくと震えているのに気付いた。寒いからだろうか。歯の根も合わず、かち合った歯が僅かに音を立てる。
俺は肩に掛けたタオルの端を胸の前でかき合わせて俯いた。
「草壁」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、おやっさんがゆっくりとした足取りで俺の座るベンチの側までやってきた。そして拳一つ分の空間を空けて俺の隣に座る。
せっかく離れたのに、と思った。何となく居心地は悪かったが、おやっさんを追い払うわけにもいかない。
ベンチに座り湖を眺めながら、しばらく俺たちは二人とも無言だった。だが不意におやっさんが声を出す。
「ありがとうなぁ」
「……え?」
「あの若いのを助けてくれたことだ。一人で立ち向かうのはさぞ怖かっただろうよ……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋がひんやりと凍り付いた。そうだ、俺は怖かったんだ。理不尽に訪れた、俺が助けなければ人の命が失われるという状況。それが怖くてたまらなかった。
「おやっさん、俺……」
俺は少し甘ったれた鼻声を出す。鼻の奥がつんとして目頭が熱くなった。おやっさんは目を細めてその俺を見ると、うんうんと大きく頷いて泣きそうな子供にするように俺の背中を撫でてくれた。
「よくやってくれた、今日彼が無事だったのは全部お前のおかげだ。今度こそ、お前は助けることが出来たんだ」
「……ああ」
俺は涙がこぼれそうになるのを見られないように、片手で顔を覆った。いつの間にか雲間に隠れていた月がまたひょっこりと顔を出し、その俺を優しく照らす。俺は顔面を覆った手の指の隙間からひっそりと湖面を見た。
月が高くなりすぎたのか、そこには階段はかかっていなかった。




