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非独立記念日  作者: 小野セージ
第三話
55/86

月下夢中

 その夜、常夜灯すら灯されていない暗い部屋で。

 横になって目を瞑ってはいたものの、眠さはまるで感じていなかった。幾度か浅い呼吸を繰り返してから目を開けて起き上がる。立ち上がって足の裏で捉えた床はまるで雲の上を歩いているかのようにふわふわとしていて、どうも心許なかった。

 どうやら『俺』以外の者は皆、寝静まっているようだった。それだけ確かめると玄関からそっと家を抜け出す。

 今夜は月が煌々と照っていて、明かりの灯っていない家の中よりは外の方が断然明るかった。しかし相変わらずふわふわとした足元はおぼつかず、時折、足がもつれそうになる。空回りするように上手く動かない足を、それでもなんとか動かして、『俺』は街灯もほとんどない月明かりの田舎道をふらふらと歩き出した。

 まるで夢の中にいるように全ての感覚が遠く感じられた。ほとんど寒さも感じず、疲れもしない身体では、自分がどれほど歩いてきたのかもよく解らなかった。

 気付けば、いつの間にか薄暗い湖畔の遊歩道を歩いていた。

 真夜中の湖は、そのとろりとした黒い湖水に鏡のように月を映している。その虚像の月はまるでいざなうかのようにゆらゆらと淡く揺れながらそこにあった。

 美しかった。とても美しかった。

 だがその月を見ていると、何故か心の奥底が凍るように冷たく、固くなっていくのを感じた。その他の感覚はまるで分厚いヴェールを掛けられたかのように遠いのに、その氷のような冷たさと固さだけはやたらと近しく感じられてひどく恐ろしかった。

 そうだ、と唐突に思う。この冷たく固く、そして恐ろしい感情を消さなければ。そのために『俺』はここに来たのだ。

 まだふわふわと安定しない足元をじっと見つめながら湖につま先を向け、ゆっくりと靴ごと足を湖水に浸す。靴の中に侵入してきた水の冷たさがちくりと小さく肌を刺した気がしたが、凍るような胸の冷たさを感じた後では、あまり気にもならなかった。

 ざぶ、ざぶ、と水音を立てながら湖の中を進む。既に腰まで水に浸かっていたが、それでも前に進み続けた。そして。

 ざ、ぶん――。

 気付けば、『俺』は水の中に沈んでいた。そうだ、ここは急に水深が深くなる場所。勿論足など付かない深みだ。

 藻掻けば水面に浮かぶことくらいは出来ただろうが、『俺』はそれをしなかった。ふぅ、とゆっくり空気を吐きながら、沈んでいく。沈んでいく。

 ふと、虚ろに見上げた水面には、月の姿があった。それは想像していたよりも大きく、美しく見えた。そのことに何故か酷く満足して、『俺』は更に深くへ沈んでいこうと思った。

 だが、次の瞬間、水面に見えていた月が溶けるようにブレて拡散した。何者かが湖に入って水面を掻き乱したのだと理解するよりも早く、拡散した月の光の中から一人の男の姿が現れる。『俺』を追うようにして水中に飛び込んできた彼は、必死にこちらに手を伸ばして引き上げようとしているようだ。

(ああ、馬鹿だなぁ。『俺』なんかのためにこんな危ないことを……)

 呑気とも言えるだろう、そんな感想を覚えた矢先、彼の伸ばした指先が『俺』の腕に僅かに触れた。彼は縋るように両手で『俺』の腕を掴み抱きかかえると、身体ごと水面に向かって引き上げようと水を蹴った。

 逆らう気力は無かった。『俺』はぼんやりとした意識のままに、その力に従った。

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