銀の階段④
「っ……! 待てっ!」
男に見入っていて一瞬反応が遅れてしまった。水を蹴立てて湖の中へ逃げようとする男。だがすぐに俺も、彼を追って水に入る。春の湖水は痛いほどに冷たい。それでも、俺は夢中で男を追った。
前述したようにこの辺りは遠浅だが、それでも走るように湖の中へと向かう男を追えば少しずつ水の深さは増していく。すぐに腰まで浸かる深さまできてしまって、俺は内心ぞっとした。これ以上先に進むと、がくっと水深が増す場所がある。長身の男でも足が付かないくらいの深みのはずだ。
「まてっ、そっちは駄目だ!」
焦って出た俺の言葉は虚しく湖に吸い込まれる。俺のことを信用してないのか、それとも本当に死ぬつもりなのか、男は立ち止まらない。
(ちくしょう……!)
胸の奥がちりちりと痛む。遠い過去の光景が、まるでべったりと分厚く塗られた絵の具のように脳裏から離れない。泣き叫ぶことしかできなかった自分の過去の姿がちらつく。
(ちくしょう、ちくしょう……! また俺は助けられないのか!?)
胸が詰まり涙が滲みそうになるのをぐっと堪えて、俺は必死に男を追った。下半身にかかる重い水の抵抗にあらがって、ゆっくりと前進しながら手を限界まで伸ばす。
そしてようやく、男の白いシャツの端を掴んだ俺は、遮二無二それを自分の胸元まで引き寄せた。
「……っ!?」
急にかかった強い力にバランスを崩したのだろう。男は、尻餅をつくように後ろに倒れ込んできた。俺は咄嗟に腰を落として体を安定させると、その男の体を抱き留める形でしっかりと確保する。その勢いでばしゃんと盛大に湖水がはね、全身がずぶ濡れになってしまったが、抱き留めた腕に感じる暖かい体温や人間の体のリアルな重みに俺は少しだけ安堵もしていた。
しばらくは夜の湖に二人分の荒い呼吸の音だけが響く。男は俺の腕の中でまだ弱々しく抵抗するように足掻いていた。しかし、俺の腕を振り切る程の力は残っていないようで、その抵抗もすぐに止んだ。
それを待っていたように、俺は大きく深呼吸をしてから男の肩口をぽんぽんと叩く。安心させるための、赤ん坊をあやすみたいなその仕草に、俺の鼻先をくすぐっていた男の後頭部が僅かに揺れた。その瞬間。
「痛っ!? おごあああ!」
鼻っ柱に鋭い痛みが走り、目の前に星が散る。
どうやら男が俺の顔めがけて後頭部を使った頭突きを放ったらしい。強烈な一撃だった。それでも確保した男の体を放さなかったのは評価して欲しい。
(……めちゃめちゃ痛ぇ。これ、鼻血とか出てないよな?)
だが頭突きを放った当の本人は俺の悶絶も狼狽も何処吹く風だ。ふん、と鼻を鳴らして不機嫌に黙り込んでしまう。