銀の階段③
足音をたてないように気をつけて一歩一歩と近付き、そしてようやく声を出せば届く距離までやってきた。
どうやらその人物は若い男のようだ。痩せていて女性のように華奢にすら見えたが、骨格は男のもので間違いない。近くには彼のものと思しきバックパックが放置されているのが見える。
見た目は単なるバックパッカーのようだった。ドジで経験の浅いバックパッカーが町へ向かう終バスに乗り遅れて立ち往生したのだろうか。それならいい。役場に戻って職員の誰かに一晩預かってもらうか、あるいは俺が車で町まで送ればいいだけだ。
少しほっとしかけたその時だった。雲の向こうに隠れていた月がにわかに顔を出し、湖面と汀の男を淡く照らす。
「………………!」
俺は思わず息を呑んでいた。
湖面が春の風にざわざわと柔く波打ち、月の光を反射してきらきらとまばゆく光った。その光は月へと向かって細く湖面を彩る。
まるで湖面に銀色の階段がかかったようだった。
その輝きの中で汀の男が遊ぶように湖水に浸した足を軽く蹴り上げると、舞った水しぶきにも月の光が反射して宝石みたいな強い輝きを生んだ。
それは現実とは思えないくらい幻想的で、美しい眺めだった。
俺は呼吸をするのも忘れて、その光景に見入る。
(一体、俺は何をしてるんだ。確かに綺麗な現象だけど地元に住む俺にはこの先いくらでも見る機会はあるじゃないか。それよりも汀にいるあの男を保護しないと)
しかし、俺の体はそれ以上動かなかった。
随分と長い間そうしていたように思えた。実際には数十秒程度だったのだろうが、俺にはとても長く感じられた
多分、俺は内心で認めていたんだ。この美しい光景が、あの汀の男が存在することで初めて完成するものだということを。俺はそれをもっともっと見ていたかった。
だけど、その美しい時は不意に終わりを迎える。
「……っ!」
ごう、と音を立てて湖から強い風が吹き渡った。銀色の階段はにわかに形を崩して湖に溶け、俺は強風に煽られて咄嗟に顔面を守るように手を掲げる。
風が止み、ようやく腕を降ろして目を開けた俺が見たのは、さっきまで湖を見つめていた男が俺の存在に気付いたようにこちらを振り返る様子だった。
真っ正面から視線が合った。
真っ先に、きれいな顔だな、と思った。決して女のように見えるわけではないのに、どこを切り取っても凜々しく艶めいていて美しい。
「……ああ」
小さく感嘆の息を吐いたのは俺だっただろうか、それとも目の前の男のほうだっただろうか。それが理解もできないうちに、男はぱっと身をひるがえして湖の中心へと向かって駆け出した。