Prologue 夢よ早く覚めてくれ
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夢を見た。
夕方、もうすぐ仕事から帰ってくるはずの鞍馬を待ちながら、居間のソファでうたた寝をした時のほんの他愛ない夢。しかし夢の中の俺はそれが夢であることを自覚していた。明晰夢、というのだろうか。
夢の中の俺は都会のとある大学の学生で、ごちゃごちゃした住宅街に建つ木造のボロアパートの一室に住んでいた。
一限目の講義がないのを良いことに遅く起きた俺は、淹れたてのコーヒーのカップを持って狭いベランダに出る。日差しがあたたかく感じられた。一口、二口とコーヒーに口をつけたところで、手を伸ばせば容易に届く位置にある左隣の部屋のベランダの窓ががらりと勢いよく開いたのに気付く。
そこから顔を出したのは鞍馬だった。まだ半分微睡みの中にある様子の彼の手にはやはり湯気の立つカフェオレのカップが握られている。
どうやら夢の中の鞍馬はアパートの隣室で生活しているらしい。
「鞍馬……」
俺が声をかけると、鞍馬は一度大あくびをしてから、こっちに視線を寄こした。そして、にかっと気持ちよく笑う。何の衒いもない明るいその笑顔に、俺はどきりとしてしまった。
元々、鞍馬は男の俺から見てもかなりのいい男だ。顔立ちは男らしく整っているし、ある程度上背があり体格も悪くない。そのくせに余計な肉など全く付いていないスマートな体付きをしているのだ。
女は言うに及ばず、おおよその男にも羨望の眼差しを向けられるだろう容貌。それが、目の前で自分の為だけに笑ってくれるのだ。それだけで、俺は……。
「よう。おはよう、彬」
「おは、よう……」
しかし、その何気ない挨拶に、俺の胸はぎゅうと締め付けられるように痛んだ。鞍馬の声音や、距離の取り方、視線の動き。そういった得られる感覚の全てで、何となく察したからだ。
この夢の中の俺たちには、結ばれる未来がない。例えお互いにどこか惹かれ合っていたとしても、それは愛にはなり得ないのだ。
「彬……?」
気付けば俺は泣いていた。頬を伝う涙がぽたりと手にしたコーヒーの黒に落ちて混ざる。
突然の涙に驚いたのだろう。鞍馬はカフェオレのカップを手すりに置いて俺の方に手を差し伸べ、ベランダから身を乗り出した。鞍馬の手が俺の頬に触れそうになる。
「……ッ!」
しかし、俺はその純粋に心配して差し伸べられただろう鞍馬の手を、次の瞬間強く払いのけていた。
それは、愛してくれもしないのに期待させるような行動を取る鞍馬に対する強い苛立ちに由来するのだと思う。夢の中の出来事とは言え、本当に俺は自分本位でどうしようもない男だな、と自己嫌悪した。だが、鞍馬に対する俺のこの感情はどうにもコントロールがきかなかった。
俺が、ずっと鞍馬と友人として接してきた夢の中の俺だったなら、挨拶自体に何も感じずに世間話に移れたのだろうか。あるいは、この夢を見ている俺自身に鞍馬に愛されている確固たる自信があったなら、たかが夢のことと思うことができたのかも知れなかった。
だけど、俺はそのどちらでもなかった。
そうだ。あの日、鞍馬に気持ちを伝えられてから既に半月ほどが経ったが、俺には彼に愛されているという自信が無かった。
「彬? どうしたんだ、彬……?」
涙で曇った視界の中で、心配そうに俺の名前を繰り返す夢の中の鞍馬。俺はどうしてもそれを見ていられなくて、目を瞑って強く念じた。
夢よ早く覚めてくれ、と。




