銀の階段①
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「こんなことのためにわざわざ来てもらって悪いねぇ」
A湖のほとりにある和泉の婆ちゃんの家。居間の蛍光灯を新しいものに取り替える作業をした俺は、玄関で靴を履きながら最近めっきり腰の曲がってしまった婆ちゃんの言葉を聞いていた。
さっきから「悪いね」と「ありがとう」がループしてなかなか会話が終わりそうにない。
俺としては時間さえあればもっと話し相手をしていきたいところだが、春のせっかちな太陽はもう山の向こう側へ隠れてしまった。辺りはかなり暗くなってきている。そろそろ一度役場へ帰らなければならない。
「これくらいはなんともないさ。これからも何かあったら相談してくれよ。そのためのゆうあい課なんだから」
「そうだねぇ、いつも本当に助かってるよ。ありがとう。またよろしくねぇ」
「ああ、じゃあまたな!」
俺はそう言ってようやく話を切り上げると、軽く手を振って別れを告げてから婆ちゃんの家の玄関を出た。
「……ふぅ」
車は婆ちゃんの家の敷地内に止めさせてもらっていた。玄関からその車に駆け寄って小さく息を吐くと、それは白い水蒸気になって冷たい夜の空気に溶けていく。昼間はだいぶ暖かくなったけれど、この湖畔の村の気温は夜になるとぐっと下がるのだ。肌を刺すような冷たさに、俺はぶるりと身震いをした。
だがその時、俺は眼下に不思議なものを見た気がして声を上げた。
「……あれ?」
婆ちゃんの家の敷地からは、湖のほとりに作られた遊歩道をやや見下ろす形で見ることが出来る。この遊歩道沿いにはベンチや公園が整備されていて明るい内は村の人たちの憩いの場にもなっているのだが、夕方から一気に冷え込むことや灯りが最低限しか設置されていないこともあって暗くなりはじめると誰もいなくなるのが常なのだ。しかし。
(……誰かいる?)
湖畔の木々の向こう、汀の浅瀬に立って、湖を眺めている青白い人影があった。
この寒い中上着も着ずに、白いシャツに細身のパンツをはいたきりの頼りない人影。男か女かも判別できないが、その立ち姿からすれば老人ではなさそうだ。
(芳賀のおばさんにしては背が高いか。鴻上のアニキにしては細身すぎる。柴田のアキナ……じゃないな、それにしては髪が短い)
俺はすぐさま頭の中で村の住人に該当する人物がいないか照合をはじめた。この小さな村ならではのことだが、俺をはじめとして役場の人間は大抵が村の住人全員の人となりを記憶している。勿論、変化は常にあって確実ではないが、ある程度の予測は立てられる。
しかし、結局その人影は村の住人の誰とも特徴が一致しない。