出来うること全て③
彬は恐る恐る顔を隠していた手を下ろすと、その真っ赤に熟れた頬を隠しもせずにまん丸くした瞳で俺を上目遣いに見てくる。
「……本当に?」
そう言う彬の瞳にあるのはただ「期待」だけだった。
俺には、彬の身に具体的に何があったのかまでは解らない。だけど恐らく、彬は過去に心の拠り所にしていた何かを失ったのだろう。その拠り所に縋って生きてきた彬にとって、それは自分の生きる価値の喪失だった。だから、代わりに縋れる何かを探していたのだ。自分の存在を許し、居場所を与えてくれるものを探して旅を続けていたのではないだろうか。
だが、その旅にも終焉が訪れた。彬の荷物は役場に戻った際に全部検めさせてもらったが、所持金は小銭が少々残っているだけという状況だった。町へ出るバスにも乗れないだろうその小銭が、彬の全財産だったのだ。
多分、彬が死を覚悟してあの汀にいたのは確かだろう。だがそこに俺がやってきた。確実に死ぬつもりだったなら、俺をやり過ごしてから湖に入ればいい。だけど彬は俺の目の前で湖に入っていった。俺が引き留めに入るのを何処かで期待していたのだろう。
この数日の絶食だって、多分同じことだ。彬はずっと死という選択肢をちらつかせながら俺の介入を待っていたのだ。
(なんて、弱くて卑怯な人間だろう――)
そう思いながら、しかし俺は彬を罵ることも糾弾することも、幻滅して突き放すこともしなかった。いや、できなかった、というべきだろうか。
(弱いのも卑怯なのも、彬だけじゃないから……)
俺は彬の「縋らせてくれるのか」という期待に満ちた表情を見ながら、心の内でそう呟いていた。その時の俺はとてもではないが愉快とは言えない気分だったのだけれど、その間にも彬が不安そうな表情をするものだから、つい頬を緩めて優しく微笑んでしまう。
「勿論だ」
問いかけにそう答えながら、俺は彬の前髪をさらりと撫でる。そして、その耳元にそっと囁いたのだ。「愛してる」と。
彬は囁かれた言葉に一瞬だけ目を見張るが、すぐにふにゃりと泣きそうに微笑んで、猫がするように俺の胸元に額を強く擦りつけた。
俺は胸の中の彬を可愛がるように何度も撫で、掻き抱く。そして、ふと視線を上げた彼の唇にまた自分の唇を重ねた。
「……ん」
それはもう、口移しが目的の行為ではなかった。
俺は彬の唇を貪るように啄んだ。彬の唇は少し荒れていたがそれでも十分に柔らかさと弾力を備えていてこちらも気持ちがいい。
しかし彬は俺の口づけにおずおずと応えながらも、すぐにうとうとと眠そうにし始める。ずっと絶食していたのだ。気力も体力も尽きていたのだろう。
「ごめ……俺、ねむくて……」
唇が解放される僅かな合間に、申し訳なさそうに眉を下げて彬が呟く。それでも抗えない眠気に吸い込まれていく彼に俺は小さく苦笑してその頬を撫でた。そして最後に軽く触れ合わせ音を立てるだけの軽い口づけをしてから彬の耳元に息を吹きかけるように囁く。
「いいよ、おやすみ。朝になったら、ちゃんと食事しような?」
それは子供に言い聞かせるような甘やかな言葉だった。しかし、彬はその言葉に心底嬉しそうに微笑んで、すうと眠りの世界へと落ちていく。
俺はその眠る彬の耳元に、刷り込むように何度も呟いた。
「愛してる、愛してるよ、彬……」




