婚約破棄の台本を頼まれた劇作家の少女ががんばるお話
「子爵令嬢メモローシア! 今度こそ君との婚約を破棄させてもらう!」
「はうっ!?」
きらびやかな学園の夜会。
金髪の美青年、伯爵子息レピートライトの婚約破棄の宣言が響いた。
それを受けたたおやかな子爵令嬢メモローシアは、一声上げると、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ああっ! メモローシア! またか、またなのか!」
慌ててレピートライトはメモローシアに駆け寄ると、優しく彼女の身を抱き起した。
するとメモローシアはすぐに目を覚ました。ゆっくりと首をめぐらし、不思議そうにあたりを見回した。
「あらレピートライト様。わたし、どうしたのでしょうか」
「僕が告げた宣言のことを、覚えていないのかい?」
「……え? なにか大事なことをおっしゃったのですか? 残念ですが記憶にございません」
レピートライトの顔が驚愕に歪む。
だがメモローシアはその様子にまるで共感できない様子だった。それは彼女に限ったことではなかった。
「ん? またメモローシア嬢の『忘却の呪い』が発動したのか」
「おやおや。まあこの呪いで困ったことなんてなかったし、別にいいけどな」
「なんかレピートライト様っていっつも一人だけびっくりした顔してるのよね」
「また何か変なこと言ったんでしょ? 嫌ねえ……」
ひそひそと話す周囲の子息と令嬢たち。その声を耳にして、レピートライトの顔は驚きから悲しみへと変わった。
「くううっ! この日のために三日も徹夜して、会場に呪い封じの結界を張っておいたのに! 君の『忘却の呪い』は、またしても僕の宣言を阻んでしまうのかーっ!」
伯爵子息レピートライトの情けない叫び声に、会場のそこかしこから笑い声が沸き上がった。
学園の夜会に思われたそこは、劇場に作られた舞台だった。貴族の子爵や令嬢を演じるのは平民の役者であり、眺める観客はほとんどが平民だ。
ここは街の外れにある平民向けの小さな劇場だ。上演されているのは喜劇であり、劇場はそれに相応しい穏やかで明るい笑いに満たされていた。
舞台袖の暗がりの中、そんな劇場の様子を眺めながら満足気に微笑む少女がいた。
年のころは17才ほど。薄茶色の髪を三つ編みにまとめ、丸いメガネをかけている。飾り気のないシャツの上に、ポケットのたくさんついた上着を着ている。控え目な色調のスカートは足首まで届く長さ。顔立ちはやや幼いが、理知的な瞳の輝きが少女を凛としたたたずまいに見せる。
少女の名はリタオーシア。この舞台の台本を手掛けた劇作家である。
観客の割れんばかりの拍手に包まれながら、舞台の幕が下りる。
劇団「空を見上げるベニトカゲ」の舞台劇「忘却令嬢に婚約破棄なんて通用しません!」は大好評だった。
忘却の呪いがかけられた男爵令嬢メモローシア。彼女の婚約者、伯爵子息レピートライトは、新しい恋のために婚約破棄の宣言をする。ところがそのたびにメモローシアの忘却の呪いが発動してしまう。呪いは周囲にまで及び、婚約破棄の宣言を覚えているのはレピートライトただ一人となってしまうのである。
いつまでたっても婚約破棄が宣言できず、新しい恋人からもせっつかれる。そんな逆境の中、なんとか婚約破棄の宣言を成功させようとする伯爵子息の奮闘をコミカルに描いた喜劇だ。
劇作家リタオーシアは目を閉じ観客たちの拍手に耳を傾けていた。これまでの苦労を思い出し、思わず涙ぐんだ。
リタオーシアは商家に生まれた。両親は「商人は文字に親しむべきだ」と言って、様々な本を与えてくれた。彼女は小説に触れ、物語に魅せられるようになった。読むだけでは満足できず、自分で物語を紡ぐようになった。やがて作家になる事を志すようになった。
だが、両親はそんな夢を認めなかった。
両親がリタオーシアに期待していたのは、商家をより大きくすることだ。様々な本を与えたのは、教養を身に着けさせ、よりよい縁談を受けるためだったのだ。しかし両親にどう説得されようと、リタオーシアはあふれ出す創作意欲を止められなかった。
13歳になると、リタオーシアは家を出た。そして予め調べておいた街にある小さな劇団をいくつもあたった。識字率もそれなりに上がってきた昨今だが、それでも物語を書けるほど文字に習熟した平民となると限られてくる。需要は確実にあった。
商家で習い覚えた交渉術を駆使して、リタオーシアは計画通り、小さな劇団「空を見上げるベニトカゲ」に劇作家として転がり込むことができた。
だが、うまくいったのはそこまでだった。
小さな劇団の劇作家など、稼ぎはたかが知れている。アパートの賃料を払うこともままならない。日中は劇団の小道具づくりや服飾の手伝い、夜は酒場のバイト。その間を縫って台本を執筆するという苦しい生活が続いた。
だがリタオーシアは逆境でこそ伸びる人間だった。もし制限のない環境で創作活動していたら、その有り余る創作意欲によって、面白くても読むのにやたらと時間がかかる冗長な物語ばかり生み出していたかもしれない。だが制限された劇作家の生活は、作品から無駄をそぎ落とし研ぎ澄ますことを強要した。
リタオーシアは劇作家としての力量をメキメキと上げていった。最近は劇の評判も上がってきた。その中でも現在上演中の「忘却令嬢に婚約破棄なんて通用しません!」は過去最高のヒットと言ってもいい。
この分なら今月は久しぶりに、ちょっといいお肉を食べられそうだ。リタオーシアは上機嫌で舞台裏の廊下を歩いていた。
すると、劇団の団長に呼び止められた。
「リタオーシア、すぐに来てくれ!」
団長はちょっと太っちょで、いつも愛嬌のある笑みを浮かべいる中年の男だ。笑みを浮かべたまま、笑えない量の激務を与えてくるような人だった。
だが今はいつもの笑みがない。それどころか顔色は青く、汗もかいている。
不信感を覚えたが、それについて尋ねる暇もなく、引っ張られるように歩かされた。劇場の応接室まで来ると、そこには二人の男が待っていた。
一人は老紳士だ。ソファーの後ろで付き従うように立っている。
地味な平民服を着ているが、手入れされた立派な髭と背筋のまっすぐな立ち姿は、高級な執事と言った印象だった。
もう一人は青年だ。ソファーにゆったりと座っている。
鮮やかな金の髪。澄んだ碧の瞳に高い鼻。整った顔立ちの美しい青年だった。年のころはリタオーシアとそう変わらないだろう。ブラウンの目立たない服だが、よく見れば仕立のしっかりした上等なものだと分かる。地味な服装なのに体つきはスマートで、その姿にはどこか華がある。どうやらこの青年が老紳士の主らしい
来客者はどうやら相当なお金持ちのようだ。
「お待たせしました。この娘が当劇団の劇作家です」
「は、初めまして! リタオーシアと申します!」
団長に紹介を促され、わけのわからないままとにかく頭を下げる。
華々しい舞台劇に魅せられ、お金持ちが役者に会いに来るというのはよくあることだ。そのままお金持ちに連れて行かれる役者もいる。玉の輿を狙って役者を志す者もいるくらいだ。
だがリタオーシアにとってそれは他人事だった。観客の目を引くのは常に舞台の上に居る役者たちであり、小さな劇団の無名の劇作家に声がかかることなどなかった。
だが今、部屋の中には団長とリタオーシア以外に劇団の者はいない。団長の様子も変だ。なんともおかしな状況だった。
「よく来てくれた。僕は子爵子息フェールトン・アンジエートだ。まあ座ってくれたまえ」
リタオーシアは驚きに目を見開いた。団長が青い顔をしていたのも当然だった。まさか貴族のご子息だとは思わなかった。
身は震え、その顔は恐怖に青ざめた。それでも場の雰囲気に逆らえず、そのまま団長と共にソファに座った。だがとても貴族と目を合わせることなどできず、テーブルをじっと見つめた。
いずれ貴族に処断される日が来ると思っていた。なぜならリタオーシアは貴族を貶める話ばかり書いてきたのである。
世間では婚約破棄をテーマにした恋愛小説や演劇が流行していた。劇団「空を見上げるベニトカゲ」もの流行に乗った。小さな劇団に選り好みする余裕などないのだ。
婚約破棄の劇では、どうしても貴族子息をひどい目に遭わせることになる。その様子がお客に受ける。むしろ酷い目に遭わすほど喜ばれた。
先ほど上演した「忘却令嬢に婚約破棄なんて通用しません!」にしてもそうだ。失敗ばかりする貴族子息を滑稽に描いた喜劇だ。お客は愚かな貴族子息を笑い、けなげな貴族令嬢の悲しみに共感するために舞台を観に来るのである。
最初は若干の抵抗を感じたが、いかに貴族子息をひどい目にあわせようかと話を組み立てると妙に筆が進んだ。劇団員からも好評で、お客も喜び、ついでに何故だかご飯もおいしい。頭の隅で危ないことをしていると思いつつ、止まることはできなかった。
他の劇団もやってることだ。街の片隅の劇場を借りて上演するちっぽけな演劇を、貴族がわざわざ観に来るはずがない。そんな風に思い込むことで不安から目をそらしてきた。
だが、遂に貴族が来てしまった。しかも劇作家であるリタオーシアをわざわざご指名だ。もはや命運は尽きてしまったのだ。封建制度のこの社会、身分差は絶対だ。貴族の怒りを買って命を失う平民は、馬車に轢かれて死ぬことと同じくらいいるのだ。
ようやくお客さんも増えるようになってきた。書こうと思っていた物語はまだまだたくさんある。そして、ちょっといいお肉を食べたかった。上演後のお祝いとかではなく、前祝いとして昨日のうちに食べておくべきだった。さまざまな後悔が押し寄せてきた。
だが、もうそんな考えに耽る時間もなかった。子爵子息フェールトンがついに口を開いたのだ。
「先ほどの演劇は実に面白かった! あの素晴らしい演劇を手掛けた『リタオーシア先生』に、ぜひ台本を書いてほしいんだ!」
「すみません、どうか命ばかりは……って、先生?」
「ああそうだとも。あなたが今回の演劇の台本を手掛けた『リタオーシア先生』なのだろう?」
「え、ええ。わたしがリタオーシアですが……」
てっきり厳しい言葉を投げかけられると覚悟していたのに、出てきたのは称賛の言葉だった。しかも「先生」とまで呼ばれてしまった。劇団内でもそんな呼び方をされたことはない。予想とのあまりの落差に、リタオーシアは目を瞬かせた。
貴族令嬢ならともかく、貴族子息が自分の書いた物語を称賛するとは思わなかった。
まだ状況は呑み込めないものがあったが、とにかく仕事の話らしい。リタオーシアは恐怖と緊張に乱れていた息をどうにか整え、とにかく話を進めることにした。
「ええと、改めて確認させてください。わたしに何かの台本を書いてほしいというご依頼なのでしょうか?」
「ああ、その通りだ。謝礼は弾む。ぜひとも頼まれてほしい」
フェールトンは舞台の役者みたいな大げさな身振りで依頼を告げた。だがその目はまっすぐで真剣だ。冗談みたいな話だが、からかっているようにも見えなかった。
これまで劇団のために台本を書いてきたが、劇団以外の人間からの依頼は初めてだ。
とにかくリタオーシアは、上着のポケットからメモ帳とペンを取り出した。アイディアが浮かんだらすぐに書き残せるように、常日頃から何冊も持ち歩いているのだ。
「は、はあ。台本のご依頼ですか。それで、どのようなお話をご希望なのでしょうか?」
「うむ。この度、僕は婚約破棄を宣言することとなった。その台本を書いてほしい! ぜひとも決然としたかっこいいセリフを頼む!」
「……は?」
思わずメモを取る手を止めてフェールトンの方を見た。彼の目はやっぱり真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
だが、なおさら意味が分からない。目の前の貴族子息は、本当に婚約破棄の宣言をするつもりなのか。しかもその台本を他人に頼もうというのか。
リタオーシアは劇作家だ。これまで婚約破棄をテーマにした作品をいくつも手掛けてきた。そのために色々な文献に目を通し、情報も集めてきた。だがそれでも、婚約破棄の台本を他人に作らせるなんてこと、夢に思ったことすらなかったのだ。
「……うむ、平民である先生には理解しづらいことかもしれないな。貴族と言うものは、格式だけではなく優雅さも重んじる! そのために、冠婚葬祭では劇団の助力を仰ぐことがあるのだっ!」
両手を広げて語るフェールトンはさながら舞台役者のようだった。
リタオーシアもそうしたことを知ってはいた。
貴族は冠婚葬祭や夜会や晩餐会といった様々な行事において、格式だけではなく優雅さを示すため、舞台演劇じみた派手な演出を行うことがあるという。時として有名劇団に演出を依頼したり、著名な劇作家に台本を依頼することもあるらしい。
「婚約破棄の宣言も人生を変える大事な転換点だ! 貴族たるもの、格式を守るのは当たり前の事であり、その上で優雅さも見せねばならない!
……だが恥ずかしながら、僕はあがり症でね。一対一ならともかく、大勢の前では緊張してしまうのだ。そんな僕が台本もなしに婚約破棄の宣言をできるかと言われれば、少々自信が無い。
そこで優れた劇作家である『リタオーシア先生』に台本を用意してもらい、この劇団の役者を相手に事前の練習をしたい。そういう依頼なのだ!」
……あなた、正気ですか?
思わず声に出しそうになり、リタオーシアは慌てて口を押えて言葉を飲み込んだ。いくらなんでも貴族相手にそんな言葉は許されないだろう。
信じがたい話だった。とてもまともとは思えない。
フェールトンの後ろに立つ老紳士を見た。執事と思しき老紳士は妙に覚悟の決まった目で、ゆっくりと頷いた。どうやらこれは真面目な話であり、老紳士が主人の奇行に最後まで付き従う覚悟であることは伝わってきた。
リタオーシアとしてはこんなおかしなことに関わりたくはなかった。
これまで婚約破棄をテーマにいくつもの台本を手掛けてきたが、そのほとんどが喜劇だ。これは世間の流行に合わせたというだけでなく、シリアスにすると扱いが難しいからだ。
本当に婚約破棄なんてしたら、宣言された婚約者の令嬢の名声は地に落ちる。宣言した貴族子息もまた、非常識な人間として非難を受けるだろう。リアリティを重視するとどうしても陰惨な展開になり、大衆に受けるものを書くのは難しい。喜劇ということにすればわりと許される。ジャンル選択は大事なことなのである。
そんなヤバいことをこの貴族子息は本当にやろうとしているのである。関わりたいとは思えない。台本を手掛けたりしたら、婚約破棄された令嬢から恨まれるかもしれない。貴族の恨みを買って存続できるほどこの劇団は大きくない。
「団長、このお仕事、お引き受けしていいのでしょうか?」
ヤバイ仕事の話はとりあえず上司に投げる。リタオーシアはこの数年で学んだ処世術を試みた。
すると団長は懐から小さな革袋を取り出した。硬貨のこすれ合う音が響く。耳慣れない澄んだ音がして、大きさのわりにズシリとした重みが感じられた。
「引き受けるも何もない。前金を渡された。全て金貨だ」
「うわーお……」
退路は既に断たれていた。
団長を責めることはできない。最近上向いてきてはいるけれど、劇団「空を見上げるベニトカゲ」の経営は常にカツカツだ。選り好みする余裕などない。
そもそも貴族が差し出した金貨をただの平民がどうして突き返せるだろうか。向こうが金貨を渡してきた時点で「詰み」なのである。
「わかりました! 最高の婚約破棄のため、ぜひとも台本を書かせていただきます!」
リタオーシアは精一杯の笑顔を作ってこの仕事を承諾した。
ちょっと涙が出てきた。
大変なことに巻き込まれてしまった。しかし逆境に強いリタオーシアはすぐに開き直った。
仕事として引き受けたのならとにかく書く。全力でいい話を作る。それが劇作家と言うものだ。
それに考え方を変えればこれはチャンスだ。平民であるリタオーシアは、貴族と直に接する機会などない。
しかし今回は違う。何しろ貴族様ご本人が依頼してきた仕事だ。台本のためと言えば子爵子息フェールトンも協力してくれることだろう。この機会に貴族社会の生の声というやつを存分に聞くことができる。
特に令嬢のことが知りたい。きらびやかに着飾った令嬢を近くでじっくり観察し、可能ならば話もしたい。できれば匂いも嗅ぎたい。
「いい台本を書くためには令嬢の口から学園生活を聞くことが必要です。誰でもいいから学園の令嬢と話す機会を設けてもらえませんか?」
そう申し出ると、子爵子息フェールトンは二つ返事で了承してくれた。
本当に驚くぐらいあっさりと、令嬢との面談をセッティングしてくれた。
平日の夕方。平民の入店をお断りする種類の高級な喫茶店。リタオーシアはその席の一つに着いていた。
リタオーシアの服装は、上はブラウスで、下はスカート。シンプルながらフォーマルな作りで、仕立も悪くない。結婚式にだって着ていけるとっておきの一式だった。
だがそれも、この高級店の中では浮いていた。
見ただけで値打ち物とわかる調度品の数々。聞こえてくる上流階級の言葉使い。暖かな光を投げかける落ち着いた照明。椅子の座り心地や磨きこまれたテーブルの跳ね返す光すら違って感じられる。何もかもが、普段行く喫茶店とはまるで違っていた。
「どうした、落ち着かないのかい?」
そんな優しい声をかけてくるフェールトンは、さすが貴族と言った感じでこの場所になじんでいた。
先日の平民服とは異なり、今日は貴族の装いだった。そうは言っても、ゆったりとしたシャツにズボンという、その組み合わせだけならありふれたものだ。それなのに高級感があった。布が違う。縫製の質が違う。高級な服は、派手な見た目に頼ることなくお金がかかっていることを訴えてくるものだと知った。
リタオーシアは完全に場違いだった。この場にいてはいけないという、得体のしれない背徳感があった。そして目の前には、ちょっとおかしなところがあるとはいえ、見た目は美形な貴族子息がいる。年頃の娘なら強制的にときめいてしまう条件が整っていた。リタオーシアは心臓が高鳴るのを感じた。
……でもこの人、婚約破棄するつもりなんですよね。
そう思うと、心がすっと冷えて鼓動も鎮まった。
「いえ、大丈夫です」
そう答えた。乙女心は落ち着いても、場違い感がなくなったわけではない。だが彼女は劇作家だ。場違いに思う気持ちも目に映る光景も、全て創作の糧にしなくてはならない。
まわりをちらちら目にしながら、とにかく思いついたことをメモ帳に記していった。何が物語のネタになるかわからない。書きそびれはネタ切れにつながるのだ。
しばらくそんなことをしていると、不意に声をかけられた。
「お待たせしました」
フェールトンは素早く、しかし優雅に立ち上がると、声をかけてきた少女の隣に立った。
「よく来てくれたね。こちらが僕の婚約者、子爵令嬢アルタレティア・スクライパートだ」
「は、初めまして! 劇作家のリタオーシアです!」
慌ててリタオーシアは席から立ち上がると頭を下げた。
来た。本当に来た。
未だに信じられない思いだった。
確かに彼女は、学園生活について聞くために令嬢と話をさせてほしいと頼んだ。令嬢なら誰でもよかった。できれば今現在フェールトンが浮気している男爵令嬢と話をしたいと思ってはいたが、そこまで欲張るつもりはなかった。
まさか婚約相手本人を呼び出すだなんて思わなかった。
リタオーシアはこれから婚約破棄の台本を書くのだ。台本の完成度を上げるには、婚約破棄の宣言を告げる相手に話を聞くというのは、合理的ではある。
だがそこには人の心が欠けていた。
これからの会話が全て婚約破棄のためだと知ったら、この令嬢はどんな顔をするだろう。
なんてデリカシーのない男なのだろう。婚約破棄の舞台劇なら、こんな男は爵位をはく奪された上で鉱山送りである。そのくらいしないとリタオーシアは納得できないし、観客だって許してくれないに違いない。
「あなたがフェールトン様の話していた劇作家ですのね。わたし、作家と話すのは初めてです。どうかよろしくおねがいしますね」
美しい令嬢だった。
腰まで届く、長く真っ直ぐなブロンドヴェージュの髪。その滑らかさは絹のようだ。やや幼い顔つき。大粒の瞳は藍色にきらめき、ぷっくりとした唇には穏やかな笑みを浮かべている。
身にまとうのは暗めの赤を基調としたシンプルなドレスだ。身体のラインを出さないゆったりとした作りだが、それでも彼女のほどよく豊かな胸はしっかりとその存在を主張し、それでいて腰の細さがうかがえる。
やや俯きがちな仕草は、控えめでおとなしい深窓の令嬢と言った雰囲気だ。
リタオーシアの所属する劇団「空を見上げるベニトカゲ」は、その規模の割には整った顔の役者をそろえている。裁縫上手の小道具係の作る服だっていい出来だ。彼女の書いた婚約破棄の物語を、見事に演じてくれている。
それでも、目の前の令嬢は違う。身に備わった気品。にじみ出る育ちの良さ。優れた役者なら舞台の上でそれを表現することはできるだろう。それでも、こんな風に「当たり前に身に着ける」ことはできない。
本物の令嬢の気品あふれる姿に圧倒される中、一つの違和感があった。
何かと思えば香りだ。初めて嗅いだ高級な香りだが、ベースになっている花は分かった。ヒマワリだ。
この王国ではヒマワリは太陽に立ち向かう花とされている。ヒマワリを使った香水は覚悟を決めるときにつける。初めて舞踏会に出るときや、他国へ嫁ぐとき、貴族令嬢たちはヒマワリの香水を求める。ヒマワリの香水は低価格なものも多く、平民でも恋人の両親に初めて会うときに使うのが定番となっているくらいだ。
劇作家であるリタオーシアに初めて会うとはいえ、婚約者の紹介で来たもの相手に着ける香水としては、あまり相応しくないように思えた。
「あの、先生? どうかされました?」
「い、いえ! なんでもありません!」
至近距離で見る令嬢の情報量は半端ない。すっかり観察と考察に意識を取られてしまった。
リタオーシアは令嬢との面談をお願いしてよかったと改めて思った。見ているだけで創作意欲がわいてくる。いい作品を仕上げるにはこういう刺激が必要なのだ。
でもこれから書くのは、この令嬢を悲しませる婚約破棄の台本なのだ。
リタオーシアは喜べばいいのか悲しめばいいのか、揺れる心をどこに向けるべきかわからなくなってきた。
三人で席に着くと、お互いに簡単な自己紹介をした。
「劇作家リタオーシアです。最近は婚約破棄ものの演劇の台本を書いています」
リタオーシアは自分の経歴を偽らなかった。彼女は普段、役者と接する機会が多い。彼らは素人の嘘の演技などたやすく見破ってしまう。だから自然と、言っても問題ないことを正直に話して、隠したい話題には触れないという話し方が身に着いていた。
そもそも心配なんて必要ないかもしれない。目の前の劇作家が自分の婚約破棄の台本を書こうとしているだなんて、どんなに想像力の豊かな人間だろうと思いつかないだろう。バレる心配はないはずだ。そう思うと、改めて変な仕事だった。
当たり障りのないお互いの紹介を終えると、リタオーシアはさっそく子爵令嬢アルタレティアに質問し始めた。
予めメモ帳にまとめておいた質問内容は、学園での生活や貴族の習慣のちょっとした疑問点などが中心だった。
話すうち、リタオーシアはアルタレティアの優秀さに気づかされた。
まず、質問には実例を交えてわかりやすく教えてくれる。時にはこちらの質問の不備を補ってくれることもある。だがその態度はあくまで控え目で、無理に話の主導権を取ろうとすることもない。フェールトンの回答が必要な質問には、無理なく彼を会話に引き込んだ。
会話の流れはスムーズで、よどむこともない。それなのに、リタオーシアはメモを取る時間が足りないと感じることがほとんどなかった。まるでこちらの書く早さを把握し、会話の流れを調整してくれているかのようだった。
恐ろしく頭の回転が早い。そして、なんと言うか思考に余裕がある。穏やかな見た目のイメージに反して、聡明な令嬢のようだった。
「そろそろ、いい時間になって来たね」
「そうですわね、そろそろ帰る時間ですね」
店に入ったころには傾きかけていた日が、今では暮れようとしている。
さすがにこれ以上、貴族の子息と令嬢を引き留めることは憚られた。
それに頃合いでもあった。リタオーシアが用意していた質問は全て回答が得られた。それ以上の情報も話してもらえた。とても充実した時間だった。
だが、違和感があった。話の流れが、何かおかしい。
リタオーシアは劇作家だ。話の流れには敏感だ。違和感があるということは、何か見落としている要素があるということだ。そうしたことは放置しておくと話の流れがおかしくなる。
違和感を放置して勢い重視で書き上げると、あとで困ったことになることが多い。推敲したら致命的な矛盾点が見つかり、大幅な修正をする羽目になったのは、一度や二度じゃない。
この場における違和感と言えば、もちろんアルタレティアの優秀さだ。ほんの2時間程度の会話で彼女が賢い令嬢であることを知った。そんな令嬢が、婚約相手の浮気をやすやすと見逃すものだろうか。
「さ、行こうか」
そう言って立ち上がるフェールトンにつられて、リタオーシアも席を立った。
「劇作家の先生とのお話、とっても楽しかったですわ」
アルタレティアはリタオーシアの両手を握って称賛した。
「……こちらこそ光栄です。とても充実した時間でした」
そうして三人そろって店を出た。
店を出るとき、リタオーシアは手の中に握っていた紙片を、そっとメモ帳に挟み込んだ。
アルタレティアに両手を握られたとき渡されたものだ。
やはり彼女には何かあるようだった。
数日後。リタオーシアは台本を書き上げた。特別急いだわけではない。そもそも婚約破棄の宣言なんてわずか一シーンの出来事だ。文章量は少ない。
だが、これは演劇ではない。宣言を告げる相手の反応を特定できない。婚約破棄の宣言自体は一方的に告げるだけだ。しかしそのあとの相手の行動は読めない。かっこよく婚約破棄を宣言したところで、後の会話で詰まってしまっては台無しである。
そこで相手の反応を「怒る」「悲しむ」「無反応」の3パターンに絞り、それぞれに対応する台本を書き上げた。経験上、この3パターンでだいたい対応できるはずだった。
この3パターンの台本で対応できない場合のことはあえて無視した。そうした時は演技ではなく、素で驚き慌てふためくべきだ。それも婚約破棄の様式美というものだ。
これにはフェールトンも大変満足してくれた。
台本が出来上がれば次は稽古である。
フェールトンは貴族であるし学生の身だ。平日は学業、休日は友人との交友がある。下手に怠ると勘のいい者に勘繰られることもありうる。
だから週三日、平日の夜に一回2時間程度の稽古をすることとなった。
場所はいつも劇団「空を見上げるベニトカゲ」が公演している劇場を使うこととなった。劇場の使用料も安くはないが、これはフェールトンが出した。
劇団員には「演劇に興味を持った貴族子息に稽古をつけてほしい」と説明した。真相を広めるのは避けたかった。それ以上に、こんなおかしな話を劇団員全てに納得させるのは、考えるだけで億劫なことだったのだ。
そして婚約破棄に向けた稽古が始まった。フェールトンは自己申告していた通り、あがり症だった。一対一なら流暢に話すのに、団員が少し増えると途端にセリフを噛むようになった。
稽古時間の大半は役者としての基本的なトレーニングに当てた。まずは舞台に慣れて度胸をつけることを優先した。婚約破棄の1シーンは通しでやっても10分とかからないので、稽古の締めに行うようになった。
「僕は彼女との間に真実の愛を見つけた! 君がどれほど悲しもうと真実からは目をそらせない! 僕はこの真実に生きる! 君との婚約を破棄させてもらう!」
今夜もフェールトンは稽古に励んでいた。リタオーシアはいつも稽古の場には立ち会った。フェールトンの意見を聞いたり稽古の様子を見たりして、細かな台本の調整を行うためである。
役者たちに指導を受け、フェールトンは実に熱心に稽古に励んでいた。つくづくおかしな貴族だと思う。婚約破棄の台本を頼むことからして異常だったが、ここまで真面目に稽古するとは思わなかった。何が彼をあそこまで動かしているのか。リタオーシアにはいまいちわからなかった。
稽古の様子を眺めていると、隅の席に人影を見かけた。フェールトンの稽古中には、劇場の端の目立たない席に必ず一人観客がいるのだ。劇団の者には貴族の関係者だから下手に干渉しないように厳命してある。稽古中の舞台は照明に照らされているが、客席は薄暗い。たった一人の観客は念入りなことにフードまで被っている。稽古に集中しているフェールトンが気づくことはまずありえないだろう。
稽古は一か月の間続けられた。やがてフェールトンは人が多くても緊張しなくなっていた。ついに劇団全員が注視でもミスすることなく、3パターンの台本を完璧に演じられるようになった。
そして学園の夜会の日がやってきた。ついに婚約破棄を実行する時が来たのである。
きらびやかな夜会の中、リタオーシアはメイド服を着て給仕に励んでいた。
婚約破棄の場面をなんとしてもこの目で見ておきたかった。だがさすがに貴族の通う学園に、平民の部外者が入り込むのは難しかった。
そこでリタオーシアはフェールトンの家に臨時のメイドとして雇ってもらった。夜会には手伝い来たメイドという名目で、堂々と会場に入り込んだのである。
天井から会場を照らす大きなシャンデリア。式服を華麗に着こなす貴族子息。色鮮やかなドレスに身を包んだ貴族令嬢。テーブルを彩る様々な料理に、磨きこまれた銀食器。どれもこれも平民のリタオーシアが普段目にすることのない高級なものばかりだ。
しかし、リタオーシアはその光景に圧倒されなかった。むしろ落ち着きすら感じた。現実離れした作り物めいた夜会の光景は、リタオーシアにとって慣れ親しんだ舞台に近しいものに思えたのだ。
それでも、「貴族の学生って本当にこんなことをやっているんだな……」という、素朴な感動があった。
気づいたことを片っ端からメモしたかったが、さすがにメイドがそんなことをしていては不自然だ。リタオーシアはグッと創作意欲を押さえつけ、メイドの仕事に励んだ。夜会の給仕を取り仕切るメイド長に命じられるまま飲み物や料理を運んだ。夜会と言えばゆったりしたイメージがあったが、給仕はそれなりに忙しかった。
子息や令嬢たちも、よく見ると意外と忙しなく移動してあちこちで話しかけている。学園の夜会は社交の練習場だ。遊びではない。彼らも平民が夢見るような楽な立場ではないのだろう。
そんな中。会場のざわめきが一点に集中する。この空気の流れをリタオーシアはよく知っていた。
婚約破棄の幕開け。子爵子息フェールトンが、婚約者以外を連れて入場したのだ。時間も事前に告げられたとおりだ。間違いない。
リタオーシアは彼らの向かうべき場所に先回りすることにした。婚約破棄の宣言を突きつける相手、子爵令嬢アルタレティアのいる場所だ。給仕の仕事中に位置は確認済みだ。
アルタレティアは会場の壁際に一人立っていた。婚約者がいるのに一人で夜会に来た令嬢の定番ポジションだ。実に王道な舞台が整っていた。
そして、フェールトンはやって来た。夜会に相応しく、赤を基調とした派手ながら上品にまとまった式服を纏っている。ここ最近は婚約破棄の稽古で見慣れたつもりだった。だが、夜会の場できちんとした服装をしていると、顔が美形な顔こともあり、正直かっこよかった。その姿に感嘆のため息をつく令嬢が何人も見受けられた。
でもリタオーシアは全然ときめかなかった。なぜなら彼はこれから婚約破棄をするのである。しかも一か月もかけて練習を積み重ねてきたのである。改めて振り返ると、やっぱり正気を疑いたくなってしまうことだった。
フェールトンに付き従うのは男爵令嬢サーポルティア・プレワイア。名前は知っていたが、目にするのは初めてだった。肩まで届くふわふわのピンクブロンドの髪。やや幼さの残るかわいらしい顔に、きらきら輝く緑の瞳。フリルのふんだんに使われた淡い赤のドレスは、派手と言うよりかわいらしい。可憐な男爵令嬢を見事に引き立る装いだった。
でもリタオーシアはその可憐さに騙されなかった。なぜならこの令嬢は、婚約者のいる子息を奪い取った泥棒猫なのである。
リタオーシアは観客の立場でこの婚約破棄を楽しむことはできなかった。それでも丸メガネの下の瞳は、期待と不安に揺れていた。あの聡明な子爵令嬢アルタレティアは、きっと劇作家にも予想できない展開を導き出すと確信していたのである。
「子爵令嬢アルタレティア・スクライパート!」
フェールトンはよく通る大きな声で呼びかけた。一か月もかけて舞台で稽古した甲斐がある、実に堂々たる始まりだった。
「僕は彼女との真実の愛を見つけた!」
「そんな! 私との愛は偽りだったと言うのですか!?」
フェールトンのセリフは台本上は一続きになっている。ところがアルタレティアはそのセリフの途中に言葉を差し込んでしまった。
会話は通じている。セリフを止められたが、遮られたという感じではない。想定外の事態にフェールトンは目をしばたたかせた。
するとまたしても予定外の出来事が起きた。
アルタレティアがハラハラと涙を零し始めたのだ。
普段のフェールトンなら婚約者の涙を前に大いに戸惑ったことだろう。だが彼がこれまで稽古してきた台本で想定される反応は「怒る」「悲しむ」「無反応」の3パターンだ。これは明確に「悲しむ」に該当する。目の前で令嬢が泣き始めるという状況も、舞台の稽古で経験済みだ。
まだ台本は生きている。一か月もかけて準備してきた婚約破棄の舞台だ。今更やめられるわけがない。フェールトンはそのまま台本のセリフを続けた。
「君がどれほど悲しもうと真実からは目をそらせない!」
「偽りの愛であろうと、あなたのそばにいることは幸せでした。でも、それではダメだったのですね。偽りの幸せに浸るのではなく、たとえ辛くても真実に向かわなければならなかったのですね……」
「僕はこの真実に生きる!」
「わたしも決意しました! もう真実から目をそらしません!」
一言ごとに言葉を差し込まれる。それでも会話は通じている。話の方向が変えられつつあることは、フェールトンもわかっているようだった。だが舞台経験の浅い彼が、アドリブで方向修正などできるわけがない。
「君との婚約を破棄させてもらう!」
「はい! 今こそ偽りの愛に彩られた婚約を捨て去り、真実の愛の婚約を結び直しましょう!」
そう言うと、アルタレティアはそうすることが当たり前のようにフェールトンの胸に飛び込んだ。
ここまでくるとフェールトンも異常に気がついたようだった。台本とまったく違う展開になってしまっていた。婚約破棄の宣言で絶縁を叩きつけるはずだったのに、ちょっとした諍いをもとに、愛を確かめ合う恋人同士のやりとりのようになってしまったのだ。
一か月も劇場で稽古してきたとは言え、もともとあがり症のフェールトンだ。婚約破棄のセリフが予想外の方向に曲げられてしまい、おまけに婚約者が自分を抱きしめているという状況で、すぐに何かできるはずもなかった。
そして不意に、誰かが拍手を始めた。強く勢いのある拍手だ。
あっけに取られていた参席者たちはこの拍手の音で我に返った。婚約破棄だと思っていた。しかし実際に語られたのは子息を想う令嬢の愛の言葉だった。そして今、涙に濡れた令嬢が愛する者を抱きしめている。
これは感動的な場面なのだ。そう皆が思い込むのに時間はかからなかった。
拍手は拍手を呼び、やがて会場は祝福の喝采に包まれた。
フェールトンは茫然としていた。たった一か月の稽古をしただけの、しかもあがり症の彼に、ここまで出来上がってしまった状況を変える術など存在しない。
彼の新しい婚約者となるはずだった男爵令嬢サーポルティアは、羞恥に顔を真っ赤に染めて、逃げるように会場を去っていった。
こうしてリタオーシアが台本を書いた婚約破棄は、失敗に終わってしまったのである。
そんな喝采の渦の外。全てを見ていたリタオーシアは、一人ぽつりとつぶやいた。
「なるほど、そういう台本だったのですね……」
そのつぶやきは、会場の喝采に紛れて消えた。
あの夜会から一週間後。夕食の時間も終わり、夜も更け始めたころ。
リタオーシアは街の夜道を一人歩いていた。
いくつかの細い道を抜けると、ある扉の前で止まった。明かりが一つあるだけで、表札も看板もないがっしりとした木製の扉だ。
ドアを一定のリズムで慎重に叩く。
すると扉が開いた。扉の奥には、フードを目深にかぶって顔も見せない不気味な人影があった。がっしりした体つきからすると、男らしい。
リタオーシアは懐から札を取り出す。それを確認すると、フードの男は言葉も発さず手振りだけでついてくるように促した。
フードの男に連れられて中に入ると、地下へと向かう階段になった。下った先には長い廊下が続いており、左右に一定間隔で扉が並んでいた。
フードの男は扉の一つにリタオーシアを促した。
部屋の中は、暗い廊下から一転して、明るく落ち着いた一室だった。
光量を適度に抑えられた室内の明かりは、天井に備え付けられた魔道具が放つものだ。中央にはテーブルがあり、ソファーが二つテーブルをはさんでおかれている。天井は高く、部屋も広々としている。地下特有の狭苦しさは感じられず、穏やかで落ち着いた空気があった。
ここは会員制の高級秘密クラブだ。主に貴族や大商人などが秘密の会談をするために使用される。豪華なのは部屋の中だけではない。部屋に施された結界は一流の魔導士の探知魔法すら防ぐと評判だ。
リタオーシアはフードの男に飲み物を頼むとソファーに座った。本来、平民であるリタオーシアが入れる場所ではない。来るとき見せた会員証も高い使用料も、これから会う人物が用意したものだ。
紅茶を飲みながらしばらく待っていると、ノックのあとに扉が開かれた。
「お待たせしたかしら?」
「いえ、それほどでも」
やってきたのは子爵令嬢アルタレティアだった。
リタオーシアがこの秘密クラブに来るのはこれが二度目になる。一度目に来たのはおよそ一か月前のことだ。
喫茶店でアルタレティアと初めて会った時。あの時に渡されたメモには、フェールトンには知らせず一人で来るようにという前置きと、落ち合う日時と場所が書かれていた。平民であるリタオーシアが貴族の令嬢からの誘いを断るわけにもいかなかった。
夕暮れの街の一角でアルタレティアと会うと、そのままこの秘密クラブの一室に連れてこられた。
アルタレティアはフェールトンが劇団「空を見上げるベニトカゲ」に出入りしていることを完全に把握していた。最初、彼女はリタオーシアのことを浮気相手と疑っていたらしい。フェールトンは以前からリタオーシアの劇を褒めていたという。てっきりフェールトンは秘密を守るために小さな劇団に頼んだと思っていたが、意外と古参のファンだったようだ。
そしてアルタレティアがヒマワリの香水をつけていた理由が分かった。彼女は浮気相手と会う覚悟でその場に臨んでいたのだ。
浮気相手などという誤解には耐えられなかったし、そこまで知られては隠し立ても無理だ。そう観念して、リタオーシアは婚約破棄の台本作りというおかしな依頼について明かした。
アルタレティアはそれからフェールトンの稽古を毎回見に来た。いつも客先にいた貴族の関係者とは、アルタレティアその人だったのだ。
アルタレティアは台本とフェールトンの演技を完璧に把握した上で夜会に臨んだ。そして見事、フェールトンの婚約破棄の宣言を言葉巧みに別方向に捻じ曲げて、完封してしまったのである。
「あなたのおかげでうまくいきました。渾身の婚約破棄が不発に終わっては、あの方も二度と浮気をする気にならないでしょう」
穏やかに微笑みながら語るアルタレティアは上機嫌だった。対して、リタオーシアは不機嫌さを顔に表していた。
アルタレティアはため息を吐いた。
「……そうですね。あなたがせっかく書いてくださった台本を、勝手に変えてしまったのですものね。気を悪くするのも仕方ありません。そのことについては、申し訳ないと思っています」
「いえ、それはいいんです。舞台ではその日の観客の様子や思いつきによって、アドリブを入れて話を変えるのはよくあることです。今更そのことで腹を立てたりしません」
劇作家になったばかりの頃、役者がアドリブで結末を変えことは幾度もあった。役者の変えた結末の方が面白くて、後の公演に採用するため脚本を書き変えさせられる羽目になったことも一度や二度ではない。
そんなことはさせないと、物語をもっと面白くしようとより一層励むようになった。
舞台の台本は役者と共に作り上げるものだ。役者のアドリブを不満とは思わない。創作の燃料と割り切っていた。
「まあ……なら何が不満なのですか?」
「自分が台本に組み込まれていたことを、最後になって気づいたことです。劇作家として恥ずべき事です。それが悔しいのです」
「何を言っているのですか? 今回の台本はあなたが書いたのでしょう?」
「わたしの書いた台本のことではありません。アルタレティア様。あなたの書いた台本の話をしているのですよ」
リタオーシアの鋭い視線を受け、アルタレティアは首を傾げた。まるで心当たりがないといった様子だったが、リタオーシアは構わず言葉を続けた。
「違和感を覚えたのは、男爵令嬢サーポルティアの引き際のよさでした。恋に溺れた令嬢ならば、周りの空気を読まずフェールトン様にみっともなく縋りついたでしょう。子爵夫人の座を狙う野心を持った令嬢なら、覚悟を持ってあの場に踏みとどまったでしょう。
でも、彼女は速やかに立ち去った。予め、そう決められていたような見事なタイミングでした。タイミングと言えば、あの拍手もおかしかった。戸惑う周囲を喝采へと導く絶妙なタイミングの拍手。あまり作為的です」
「あら、面白い発想ですね。さすが劇作家ですわね」
「そもそもおかしかったのです。アルタレティア様は事前に婚約破棄の稽古について知っていた。その段階でご両親に訴えれば、婚約破棄の宣言自体を穏便に防げたはずです。聡明なあなたがそれに気づかないはずがない。
それなのに、あなたは夜会での婚約破棄の宣言を返り討ちにする前提で準備を進めました」
「……何が言いたいのかしら?」
「あなたは男爵令嬢サーポルティアを使い、フェールトン様を篭絡させた。そして婚約破棄の宣言をするよう導いた。夜会の場で婚約破棄の宣言を正面から叩き伏せて、フェールトン様の心を縛る。あなたが書いた台本は、そういう筋書きだったと言っているのです」
アルタレティアのは笑みを深くした。目は笑っていなかった。三日月のような笑みを刻んだ口元は禍々しさすら感じられた。
「ずいぶん面白いことを言うのですね。私が全ての黒幕とでも言いたのですか。そんな証拠がどこにあるというのです?」
「証拠なんてありません」
「証拠もなしに憶測だけで私を糾弾するつもりですか。平民のあなたが、子爵令嬢であるこの私に、証拠も後ろ盾もなしに意見することの意味が分からないのですか?」
アルタレティアはもう笑ってはいなかった。
藍色の瞳には温度が感じられない。貴族が平民を見下す目だ。邪魔ならば排除する。そこには良心の呵責すらない。同じ人間として見ていない、ただ冷徹な瞳だった。
リタオーシアはテーブルの下でぎゅっと手を握り、冷たい瞳をにらみ返して言葉を紡いだ。
「あなたを黒幕として糾弾するつもりはありません。わたしは治安を司る騎士ではなく、劇作家です。だから、もし今回のことがあなたの書いた台本であるのなら、劇作家として指摘せねばならないことがあるのです」
「へえ……いいわ、聞くだけ聞いてあげます。面白かったらこの無礼は見逃してあげます。でもつまらないかったら……覚悟してくださいね?」
アルタレティアは再び笑顔を作った。その笑みは獲物をいたぶる猫のそれだった。
彼女は貴族だ。その気になればリタオーシアの身柄など好きにできる。適当な理由をでっちあげて奴隷商人に売り渡すことや、命を奪うことさえも、そう難しいことではないのだ。
リタオーシアは深く息を吸うと、意を決して語り始めた。
「それではこの台本を、劇作家として評価させていただきます。
一見おとなしい令嬢が、全てを仕組んで裏から操る。意外性があります。筋書きとしては面白い。観客はきっと先が気になるはずです。
婚約破棄を宣言されながら、それに果敢に立ち向かい、見事その宣言を打ち砕く。これもいいですね。そのシーンは舞台映えします。令嬢がやりこめる展開というのも、多くの観客が好むものです。
でも、最後がいけません。あんな終わり方では観客は納得しません」
「納得しない? 婚約破棄の危機は去り、めでたしめだたしではありませんか。観客がなんの不満を持つというのです?」
「恋愛ものの演劇のラストは大きく分けて二つあります。一つは、恋愛が見事に成就するハッピーエンド。もう一つは、恋愛が決定的に破局するバッドエンドです。この台本では、そのどちらにも永遠に至ることはできません」
「永遠に至らない、ですって……?」
「フェールトン様はあなたの策略に屈服しただけ。このまま命じられるまま、あなたと結婚することになるでしょう。もはや彼には他の選択肢などありません。屈服したままに不幸な結婚をして、貴族の務めとして家を支えることでしょう。そこに愛が芽生える余地などありません。
だからこの台本はダメなんです! わたしだったら絶対にボツにしますよ!」
リタオーシアの容赦ないダメ出しに、アルタレティアは顔を伏せた。手をぎゅっと握り、ぶるぶると身を震わせた。
やがてアルタレティアは立ち上がり、リタオーシアを睨みつけた。その顔にはもう笑みはなかった。先ほどまであった余裕までも失われていた。
そこにいたのは聡明で穏やかな令嬢ではなかった。瞳は潤ませ悲しみに顔をゆがめるだけの、少女だった。
「そんなこと……あなたに言われなくてもわかっていますよ!」
胸元をぎゅっと握りしめ、アルタレティアは耐えきれないように言葉を吐き出した。
「ええそうです! 私はあの人を陥れました! でも、だったら他にどうすればよかったんですか……!
計算高くて小賢しくて、外面だけを穏やかに取り繕うだけの私では、あの純粋で情熱的な人の心に触れられない……あの人が、いつか他の令嬢に……裏表のない素直でかわいらしい令嬢に惹かれしまうのではないかと思って、毎日不安で不安でしかたなかった! だから彼を縛り付けるために、婚約破棄を仕組んで叩き潰したんです!」
そこまで言うと、アルタレティアは崩れるようにソファに落ちた。
「彼は私から離れられない……どうせ愛されないのなら、そばにいてくれるだけでいい……そう納得していたのに、なんでわざわざほじくり返すんですか……」
アルタレティアはソファの背に顔を押し付けるように、しくしくと泣き始めてしまった。
そんな悲しみにくれる彼女を前に、リタオーシアは肩をすくめた。
「やれやれ。これだから素人は困ります。まだストーリーは終わったわけではありません。ここからハッピーエンドにもっていくことなんて、劇作家にはたやすいことなのです」
「そんな都合のいい方法が、あるというのですか……?」
アルタレティアはのろのろと顔を上げた。その瞳は悲しみに揺れていたが、わずかな期待の光がともりつつあった。
彼女は救いを求めている。そう確信したリタオーシアは、自信をもって打開策を告げた。
「全てを明かしてしまうのです」
「全てを、明かす……?」
「そうです。他の令嬢を使って子息に浮気させたこと。婚約破棄の宣言の場を意図的に作り、それを打ち砕いたこと。全部話してしまうのです」
「な、何を言っているのですか!? そんなことをしたら嫌われる……嫌われてしまいます!」
アルタレティアは極寒の風にさらされたようにその身を抱いた。きっと、嫌われることこそ彼女の最も恐れていることだったのだ。頭の回転が早い彼女があえて穏やかな態度を装っていたのは、あるいはフェールトンに嫌われないためだったのかもしれない。
でも、それではダメなのだ。装ったままでは、きっと先に進めない。ストーリーを進ませるためには、時に危険を冒さなければならないのだ。
そしてヒロインが困難を乗り越えるために必要なものを、リタオーシアはよく知っていた。
「大丈夫です。『全てをあなたに愛してほしくてやったことです』。そう言えば許されます。むしろ愛されます。恋愛劇のヒロインと言うものは、愛で全てを解決できてしまうものなのです」
「そ、そんなわけがないでしょう!」
「そんなわけがあるのです。キャラクターをきちんと把握していれば、これは必然的な展開なのです。よく考えてください。相手は婚約破棄の台本を劇作家に頼むようなおかしな人です。劇場で何日も真剣に稽古するようなバカな人です。愚かだけどもまっすぐで、純粋で情熱的な人。頭のいいあなたが惹かれたのは、彼のそんなところなんじゃないですか? そんなフェールトン様なら、あなたの愛をきっと受け止めてくださいます」
「物語と現実は違います! 全てを話すだなんて、そんな愚かなことをできるはずが……」
言い返そうとするアルタレティアに対して、リタオーシアは「はっ!」と鼻で笑った。
あまりに無礼な態度に、アルタレティアはおもわず鼻白んだ。リタオーシアは止まらなかった。
「あなたはまだご自分が賢いつもりでいるのですか? 恋愛は人を愚かにするのです。わざわざ婚約破棄の舞台を自分で作って自分で叩き潰すなんて、まともな人間のやることなわけないでしょう! あなたは恋する乙女で、既に十分に愚かですよ!」
リタオーシアは断言した。さすがにアルタレティアも自覚があったようで、何も言い返すことができなかった。
だが、それを指摘されてなお、アルタレティアにはまだ迷いがあった。
「でも、あの方は私のことをなんとも思っていないのです……!」
「まだそんな誤解をしているのですか。フェールトン様が劇団で婚約破棄の稽古をするなんて展開は、あなたの台本にはなかったことでしょう? だからわたしのことを警戒したのしょう?
でもよく考えてください。わざわざ婚約破棄の宣言の稽古を、それも一か月も続けるなんて、普通はできません。あなたとの関係を真剣に考えていたことの確かな証拠じゃないですか」
アルタレティアはその言葉にはっとなった。
リタオーシアも夜会のあとまで気づけなかった。フェールトンは愚かだが、まっすぐな人間なのである。だから婚約破棄の宣言に、ああも全力を尽くしたのだ。
「フェールトン様はちゃんとあなたのことをちゃんと意識しています。あとはあなたが素直になるだけです。それだけで、この台本はハッピーエンドになるのです」
アルタレティアは顎に手を当て、じっとテーブルを見つめた。その瞳は揺れていたが、理性の輝きがあった。
もう悲しみに暮れ迷うだけの愚かな少女ではない。彼女は持ち前の聡明さをもって、今リタオーシアが告げた打開策について、様々な思考を巡らせているようだった。
「お願い、しばらく一人で考えさせて……」
もう大丈夫そうだった。リタオーシアは一礼すると、秘密クラブの一室から速やかに立ち去った。
リタオーシアは自分のアパートに戻ると、丸メガネを机の上に放り投げた。丸メガネが机の上に積み重ねられた原稿に受け止めらるのにタイミングを合わせるように、ベッドに飛び込んだ。顔を枕に押し付けると、たまりかねたように叫んだ。
「うわああああ! やってしまったあああああ!」
リタオーシアはプロの劇作家だ。現実と物語は違うということをちゃんとわかっている。物語の展開を現実の出来事に当てはめて、人を物語のように動くよう促すなんて、本来なら決してやってはいけないことだと、きちんと理解している。
それでもあの方法しかなかった。
フェールトンに全てを話すように勧めたところで、アルタレティアが従うことなどなかっただろう。バカバカしいと切り捨てたはずだ。平民であるリタオーシアが、貴族であるアルタレティアの凝り固まった意志を変えさせるには、『物語』に頼るしかなかったのだ。『物語』で人の心を動かすことが、リタオーシアの取れる最大の手段だったのだ。
そう決意したのは前日の事だった。昨日の夕方、フェールトンは最後の報酬を渡しに劇団にやってきたのだ。
「台本を用意してもらい、稽古までつけてもらったのに、うまくいかなかった。すまなかったな……」
そう言って、フェールトンは平民相手に頭を下げたのだ。あの消沈した様子を見ては、何もせずにはいられなかったのだ。
アルタレティアはフェールトンに全てを明かすだろうか。
わからない。現実と物語は違うのだ。
全てを明かしたとして、二人は本当に結ばれるのだろうか。
わからない。現実と物語は違うのだ。
でももうやってしまった。今さら取り返しはつかない。不安と後悔ばかりが押し寄せて、リタオーシアはベッドの上で足をバタバタさせながら、眠れぬ夜を過ごした。
あれから二か月が過ぎた。夜会のあと、アルタレティアからもフェールトンからも連絡は来なかった。そうなると平民であるリタオーシアから連絡をとる手段は無かった。手紙を出すなり屋敷を調べて行くなりできなくはなかったが、下手に動けばかえって事態を悪くしかねないし、平民である彼女にとっては危険なことでさえあった。
気にはなっていたが、それでも生活するには仕事をしなければならない。悩みながらも新作の台本を書き上げた。
タイトルは「腹黒令嬢は婚約破棄の宣言すら許しません!」。
今回の話は、婚約破棄の宣言をしようと子息を、ありとあらゆる手段で妨害する腹黒令嬢の活躍をコミカルに描いた喜劇だ。最後にはお互いの気持ちに気づき、熱烈なキスをして結ばれるという、ハッピーエンドの恋愛劇だ。言うまでもなく、アルタレティアとフェールトンをモデルにした演劇である。
今回の一件で、リタオーシアの中にはもやもやとしたものが残った。それをいつまでもとどめていては新しい物語は作れない。だから台本に書くことで発散した。リタオーシアは心の中に溜めたものを台本として吐き出さない限り次の作品に取り掛かれないタイプの劇作家なのだ。
その台本は個人的に保管して、次の新作を書くつもりだった。ところが団長に見つかってしまった。アルタレティアが黒幕だったことを知らない団長は、これを次の公演に使うことにしてしまったのである。
途中で事情を話して止めようと思ったが、台本の出来を劇団のみんなが絶賛してくれるし、真相を話すことにためらいもあり、止め時を失ってしまった。そしてついに上演されてしまったのである。
「腹黒令嬢は婚約破棄の宣言すら許しません!」は前作に負けず劣らず好評だった。今日の公演も終わり、ホッとしたところで団長に呼び出された。応接室に向かうと二人の貴族がいた。
子爵子息フェールトンと子爵令嬢アルタレティアだ。
「あ、終わった……」
リタオーシアは色々なことを諦めた。
もう二度と会えない気がしていた。少なくとも、自分が台本を書く演劇を観に来ることなどないと思っていた。だからたぶん大丈夫と自分をごまかしていた。
公演を観たのなら、自分たちをモデルにした演劇だとわかってしまうことだろう。名誉を傷つけられた貴族は、死をもって償わせるものなのだ。物語みたいな話だが、現実にそれで命を失う平民はいる。
フェールトンに促され、団長は部屋をそそくさと出ていった。一人にされるのは怖かったが、巻き込むわけにもいかない。
逃げても無駄だ。ただの平民が何のつてもなしに貴族の追求から逃げきれるはずもない。リタオーシアは死刑台に登る死刑囚の気分でソファに着いた。
「言っておきますけど、あんな人に見せびらかすみたいなキスなんてしなくても、仲直りはできるんですからねっ!」
リタオーシアが座るやいなや、アルタレティアはそんなことを言い放ち、そっぽを向いてしまった。バラ色に染めた頬に潤んだ瞳がやけにかわいらしい。あの穏やかな笑みを浮かべる聡明な貴族令嬢が、こんな乙女らしい姿を見せるとは思わなかった。
それを見つめるフェールトンの瞳はとてもやさしげだった。こちらも、あのちょっとおかしくて、でも真っ直ぐで情熱的な貴族子息のする目じゃない。なんだか人間的な余裕が感じられた。
なにより、この二人の間に漂う甘酸っぱい空気はどうしたことだろう。
戸惑っていると、それを察したのかフェールトンが話し始めた。
「あれからアルタレティアと仲直りしたんだ。色々とあって、最近になってようやく落ち着いた。それで君に知らせようと思ったんだ。新作の演劇も観たかったしね。
……ははっ、それがまさかあんな内容だとは……」
「それはその……すみませんでした!」
「いや、別に怒ってはいないさ。僕たちのことを元にしたのはわかるけど、彼女の言う通り、全然違うお話になっていたからね」
「仲直りって、いったい何があったんですか? 可能な限り詳細かつ綿密に、二人の仲がどこまで進んだかを教えてください!」
「ああそれは……」
フェールトンは途中でしゃべれなくなった。顔を真っ赤にしたアルタレティアがその口を手で塞いでしまったからだ
「フェールトン様! は、恥ずかしいから言わないでください!
……とにかく、私達はあなたが書く台本よりずっと素敵なことをして結ばれたんです! 今日は結果だけを教えてあげようと思って来たんです! 変な勘繰りは禁止です!」
恥ずかしがるアルタレティアは妙にかわいらしい。リタオーシアからすれば「あなたちょっとキャラ崩壊してませんか?」と突っ込みたくなるほどだった。恋は女性を美しくすると言うが、こういう方向に変わるとは思わなかった。
でも、よかった。とにかく二人は結ばれ、無事ハッピーエンドに至ったようだ。でも、自分の台本よりずっと素敵と言われては、リタオーシアも黙っていられなかった。
「わかりました! ならわたしは、これからあなたたちの恋に負けないくらい素敵な台本を書いてみせます! 劇作家リタオーシアの次回作にご期待ください!」
明るい笑顔で華々しく、まるで舞台の上にいるかのように。リタオーシアはそう、宣言するのだった。
終わり
「劇作家が婚約破棄の台本を書く話ができるかもしれない」
そんなことを思いつきました。
以前から婚約破棄の宣言って舞台演劇みたいだと思っていたのです。
それが成立するようキャラや設定を詰めて言ったらこんな話になりました。
物語を書く主人公というのはたぶん初めてなので色々大変でしたが、メタなネタは好きなので楽しかったです。
2024/2/4 12:00頃
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところも修正しました。