(3)黒ヤギの息子・上
閲覧いただきありがとうございます。水瀬 宏と申します。
私の頭の中にある物語を、一緒に楽しんでいただけると嬉しいです。
さて、以下本文につきまして、注意事項がございます。
○一部、残酷な場面を含みます。また、物語が進むにつれて過激になって行く予定です(念の為、R15をつけております)。苦手な方は、閲覧をご遠慮ください。
○本文中の人名・地名・言語は、実在のものとは関係ありません。
○文字数が少々多めかも知れません。耐えてください。
○閲覧後の苦情は受け付けておりません。ご遠慮ください。
感想等はいただけると大変励みになります。
私自身はふざけた人間なので、気軽にしていただけると嬉しいです。
それでは、【アルムの宿し子】⑶黒ヤギの息子・上 お楽しみください。
⒊【 黒ヤギの息子・上 】
『ねえ、おとうさん。どうして、おとうさんのかみのけはここだけちがうの?』
『これはね、“一族の証”だよ』
『あかし?』
『そう。まだ難しいかも知れないけれど、わかるようになる』
『ぼくも、そうなるの?』
『ああ。いずれ、お前も成人になったら儀式をするんだ』
『おとうさんといっしょ?』
『ウン。お父さんと一緒』
『やった!ぼく、おとうさんみたいにかっこよくなりたい!』
『アハハ。楽しみだなあ』
⑴
セルは、知らない部屋で目を覚ました。
目の前には、黒ずんだシミのある木目の天井。日の光で満たされたここは明らかに自室ではない。
寝起きの頭は少々混乱していて、少年は起き上がり、あたりを見渡した。
清潔な白いシーツに、フカフカの布団。どうやら、木造の小さな部屋で寝かされているらしい。家具はほとんどなく、小さなテーブルと背の低い椅子が2つあるくらい。壁には細長い柱時計がかけられていて、その針は12で重なっていた。ベッドのすぐ横の窓から見える空はカラリと青く、日は真上に登っている。
「ここは……」
窓から空を見上げて、セルは呟いた。
昨晩の記憶が曖昧だ。少し考えてやっと“「ひだまりの家」から連れ出されて馬車に乗っていたこと”は思い出したが、いつの間に眠ってしまっていたのだろう。しかも、随分と長い間。“家”にいるときでさえ、こんな時間まで眠っていたことはなかったのに。
ふと、目の下で何か動いた気がした。
セルは目線を下げ、窓の下を見てみる。……何もいない。
不思議に思い、窓を開けた。涼やかな風とともに、青い芝生のいい匂いが部屋に入ってくる。
身を乗り出して、窓の真下を覗いてみると。
「アッ」
紅鉱石の瞳と目があった。
白い毛の、小さなかたまり。
幼い子供が、窓の真下に隠れていたのである。その子供は“珍妙”な被り物をして、小さな体躯を丸め込んでしゃがんでいた。
「やあ、こんにちは……」
セルが遠慮がちに声をかけた瞬間、その子供は顔を真っ赤にして飛び上がった。それにセルもびっくりして、顔を引っ込める。子供はその勢いのまま、目前に広がる原っぱへ駆けて行ってしまった。随分と足が早く、瞬く間にその姿は小さくなってゆく。セルは驚いて速く鳴る心臓のまま、子供の後ろ姿を眺めていた。
……一体、なんだったのだろ。
「おっ。よかった。目が覚めたのか」
セルが窓を眺めて惚けていると、ベッドの向かいにある小さなドアが開いて知っている顔が入ってきた。
「あ、えっと……」
「テオドール=リュウードレだよ」
「ああ、……“テオ”さん」
「ン」
男は愛称で呼ばれて、満足そうな顔をした。大男・テオドールはベッドの横まで来て、テーブルの上に持ってきた水差しとコップを置いた。
「どうだ?具合は」
「……元気、です。少し、眠たいけれど」
「そりゃ結構。水飲むか?」
「ア、はい。……あの」
「ン?」
「昨晩、なにがあったんでしょうか……。ぼく、何も思い出せなくて……」
セルが尋ねると、テオドールはコップに水を注ぐ格好のままキョトンという顔をした。数秒沈黙すると、今度はアハアハ笑い出した。
「え、なに」
「仕方ないさ!セル、お前、昨晩じゃなくて、一昨晩だよ!」
「一昨……?」
「丸一日寝てたってこと!まあ、気がついてホントによかったよ。明日にでも目が覚めなけりゃ、ニコラが叩き起こすところだったしな!」
青年は豪快に笑って、セルにコップを寄越した。
セルはなぜ青年が笑っているのかもよくわからないし、知らぬ間に1日が過ぎていたことに混乱した。言われてみれば、なるほど、確かに喉がカラカラだ。そのことに気がつくと、セルは受け取った水を一気に飲み干した。
「オウオウ、いい飲みっぷりだ。腹減ってるだろ?女将さんに、なにか頼んでくるよ」
「……ここ、どこですか」
「ユタ村だ。国境の近くにある農村。再出発まで、置いてもらっている」
「再出発?ここ、“未来社”の本部じゃないんですか」
「本部がこんな原っぱの真ん中にあるわけないだろ?お前も起きないし、馬も怪我したしで泊めてもらったんだ。粥でいいか?」
「ア、はい」
「ン」
言って、青年は立ち上がった。小さいドアを身をかがめて潜ろうとして、「そういえば」と振り返った。
「ニコラ、相当怒ってるぞ」
茶髪の爽やかな青年は、そばかすがいっぱいの顔でニンマリ笑った。
少年は黒髪の美青年を思い出して、背筋が凍った。
⑵
「あら!随分キレイな子だと思ってたけど、素敵なお嬢さんじゃない!」
「あの……男です」
「アラ!ごめんなさい、キレイな顔だから!」
「アハハ……」
キッチンに立つ陽気な女性は、愉快そうに笑った。
彼女はこの家の女将さんで、ドレアさん、というらしい。焦げ茶色の長い髪を後ろで一本のおさげにした、ふくよかな女性である。テオドールはセルが目覚めたことを伝えてくれたらしく、小部屋でしばらく待っていると、食卓のある居間に通されたのだ。テオドールは入ってきた扉から遠い方の席に座り、セルは青年の向かいに腰掛けた。
通された居間は、先ほどまでいた部屋とは打って変わって、さまざまな物がごちゃごちゃ置かれた空間だった。部屋の真ん中にある食卓テーブルの上には細かい刺繍が施されたテーブル掛けが敷かれており、調味料や食器|(匙など)の入った箱が並べられている(テーブルに用意されていた椅子は3脚だった)。そのテーブルをぐるりと囲むように、奇妙な形の置き物や、独創的な絵画、干された稲の束、取り込まれた洗濯物、年季の入った腰掛け椅子などが置かれている。
居間はキッチンと繋がっていて、堺に掛けられた暖簾から、両手に器を持った女将さんが現れた。
「病み上がりなんでしょう?これ食べたら元気になるわ!」
「……ありがとうございます」
「いっぱい食べなさいねえ」
ドレアはニコニコ笑いながら、セルの前に器を置いた。木製の器によそわれていたのは、薬草や溶き卵の入ったこの村の伝統的な粥である。彼女は、随分とこの粥に愛着があるらしい。セルはそんな女将さんの勢いに押され気味に、粥を口に運んだ。卵の柔らかい味と、薬草の苦味がほんのり香る。ドレアはついでに、とテオドールにも同じものを用意していた。
「いやあ、ホントにありがたいです。ここまでよくしてもらって」
「いいのよ!ウチは子供ふたりだけだから、賑やかになって嬉しいわ!」
「そういや、お子さんたちは?」
「上の子は、裏の畑で野菜を採ってくれてるわ。下の子はうちにいるはずよ」
テオドールが尋ねると、ドレアはにこやかに答えた。彼女のいる台所では、洗い物の音がガチャガチャ聞こえる。
「上は娘なんだけれど、セルさんのこと心配してたわ。戻ってきたら、会ってやってちょうだいな」
「ア、はい……」
セルは、不思議そうな顔でテオドールを見る。彼はセルの考えていることに気がついたのか、「おれが教えた」と小声で言って、ウインクしてきた。どうやら、ドレアにセルの名前を教えたのは彼らしい。
ドレアは洗い物が終わったようで、マグカップにお茶を入れて運んできた。セルとテオドールの前にマグカップを置くと、彼女も(セルの隣の)席に着いた。
「飯もいただいたし、何か手伝うことはありませんか?薪割りくらいならできますよ」
「アラ、お客様なのに悪いわよ」
「いやいや、置いてもらっている身なので。食後の運動もしたいし、力仕事なら自信ありますよ」
「そう?じゃあ、お願いしようかしら」
「はい、喜んで!」
爽やかに返事をした彼は、いつの間にか用意された粥を平らげていた。大柄な彼は、その分口も大きいらしい。
「それじゃあ、息子に案内させるわ。相手をしてやってくださいな。あの子、ずっとソワソワしてるんだから」
「ああ、あの子」
「恥ずかしがり屋なのよ。昨日も、テオドールさんの後ろを黙ってついて回ってたんでしょ?」
「そうだったんですか。ずっと監視されてるんだと」
「アラやだ!そんなことしませんよ!」
「アハハ、冗談ですよ。任せてください。弟がいるので、小さい子の相手は慣れてます」
「よかった!じゃあ、連れてきますわね」
女将さんはそう言って、薄橙のエプロンを脱いだ。そのまま座っていた椅子の背に掛けて、一旦キッチンへ戻って行った。
「お鍋ここに置いておくから、好きに食べなさいね!」
キッチンから出てきたドレアは、粥の入った鍋をセルの前にどんと置いた。まだ、中身が半分ほど残っている。セルは小さい声で返事をして、鍋の中身に目を落とす。ドレアはセルの様子を見て、優しく微笑んだ。そして、息子の名前を呼びながら、居間を出て行った。
ドレアが席を外し、セルはほうと息を吐いた。
そんなセルを見て、テオドールは例のニマニマした笑みを浮かべ、少年の顔を覗き込んだ。
「お前、おばちゃん苦手なの?」
「……苦手っていうか、……身の回りにいなくて」
「ああ、あの家、ボックさんと子供達だけだったもんなあ」
「ボックさん?」
「ああ、お前らは“オンジ”って呼んでるんだったっけか、あのジイさん」
納得したように、テオドールは鼻を鳴らす。
「ひだまりの家」では、全くと言っていいほど地域の人々との交流がなかったのだ。それは、元教会が人里離れた丘の上にあったためでもある。よって、孤児院で育ってきた少年は、“子供”と“老人”しか知らなかった(オンジの客であった魔導師の男は何人か見かけはしたが、話をしたことはなかった)。
「マ、これから街へ出るんだから、今のうちに慣れときな。街のおばちゃんは怖いぞぉ。おしゃべり妖怪だ」
「街、ですか?」
「ああ。目的地が“未来社の本部”ってことは伝えてるよな?本部は、アジスタの王都にある。世界屈指の大都会だよ」
お前、きっと人酔いするぞ。
テオドールは、またニマニマ笑った。
その笑い方にセルはムッとして、粥を乱暴にかき込んだ(馬鹿にされていると思ったのである)。空になった器に、鍋から“おかわり”をよそった。
「怒るなって!そういや、お前、今日はやけに喋るなあ。ヤ、嬉しいんだけどさ」
「……“これから一緒に過ごす”、んでしょ?」
セルがムッとした顔のままそう告げると、テオドールはキョトンとした顔をして、アハアハ笑い出した。爽やかな容姿の青年に似合った、屈託のない笑い方である。セルは、こっちの方がいいと思った。
「……あの人は?」
「ン?ああ、ニコラなら、本部に戻ってるよ」
「本部に?」
「“お前のこと”と“あの晩のこと”で、会長に呼び出されたらしい。マ、そのうち戻ってくるさ」
「会長、ですか」
「ソ。あいつは、あんなでも“第一部隊の部隊長”サマだからな。色々大変なのよ、上との兼ね合いとかサ。あいつがどうした?」
「……相当怒ってるって」
セルが言うと、テオドールはまたアハアハ笑った。この男は、先刻から笑ってばかりである。
「ああ、怒ってる、もうカンカンさ!ゲンコツ10発くらいは覚悟しておいた方がいいぜ!」
「オンジにも打たれたことないのに……」
「あのジイさんは、そんなことしないだろうな。あの人、“無言で圧をかけてくる”タイプだから。でも、ニコラはすぐに手が出るぞ。“武力行使”ってヤツだ」
「……覚悟しておきます」
「アハハ!冗談だよ!すぐに手が出るのはホントだが、子供を殴ったりはしないだろうさ!マ、“お説教”くらいはされるだろうけどな!」
テオドールの言葉に、セルは安心した。殴られることはないらしい。
安心したと同時に、はて、と首を傾げる。
なぜ、あの人は自分に気をかけているのだろう。それに、怒られるようなことしたのかしら。
「……あの、ぼくって、なんであの人に気にされてるんですか?ただの孤児なのに」
セルの質問に、テオドールは笑うのをやめた。少し難しい顔をして、フンと唸る。そんな彼の様子を見て、セルは「いけないことを聞いたのかしら」と緊張した。
「……ヤ、おれもさ、その辺は詳しくないんだよな」
「どういうことです?」
セルが尋ねると、テオドールはさらに難しそうな顔になった。
「“お前が未来社にとって重要な存在”ってことはニコラから聞いてるんだが、あいつ、詳しいことを教えてくれないんだよ。『お前は馬鹿だから聞いても無駄だ』とかなんとか言って。ヤ、おれ、ホントに頭はよくないんだけどサ。でも確か、“巨大な器”がどうとかって……」
「器……?」
「ンン。何かの例えだろうとは思うんだけど……。あいつが帰ってきたら、直接聞いてみな。きっと、お前にだったら教えてくれるんじゃないか?お前、相当賢いらしいし」
「……あの人は嫌いです」
「アハハ!そんなこと言ってやるなよ!……というかセルよ。お前、いつまで食ってるつもりだ?そんなに大喰らいだったのか?」
「え?」
言われて、セルは匙を持っている手を止めた。そして、仰天する。
大きな鍋の中身が空になっていたのだ。
「テオさんも、食べてましたよね?」
「いや、おれは見てただけだ。止めなかったのは悪かったけど……お前、空きっ腹にそんな量食ったら毒だぞ?」
テオドールは困ったように眉尻を下げた。
しかし、一番衝撃を受けているのはセル本人であった。なんせ、セルはオンジに睨まれながら食事をするほど食が細かったのである。それなのに、大鍋の半分はあった粥が自分の胃袋に収まっているのだ。少年は、エメラルドの眼をまん丸にした。
唖然としているセルが、匙をテーブルに置いたその時である。
頭の内側を鈍器で殴られたような激痛が、少年を襲った。
「エ、おい!大丈夫か⁉︎」
突然うずくまった少年に、テオドールは驚いて駆け寄った。
少年の顔色は真っ青で、だくだくと冷や汗を掻いていた。堅く瞼を閉じて、何かに耐えようとしている。
「アア、アア。言わんこっちゃない!お前、食い過ぎだよ。吐きそうか?」
テオドールは、セルの背中をさすった。その薄い背も、汗でびっしょりだ。
セルはかろうじて首を横に振るが、テオドールは気づいていないようであった。少年が胃の中身を吐き出してもいいように、自分の上着を少年の膝に掛ける。
「吐きそうなら、ここに吐いちまえ。な?我慢しなくていいからな」
優しく声をかけられる。テオドールの優しさは素直に嬉しいが、セルは自分の伝えたいことが伝わらなくてもどかしかった。
“胃”ではなくて、“頭”が痛いのだ。
何かが頭の中で喚いていて、それが気持ち悪いのだ。
少年には、何かの“声”が聞こえていた。明らかに人間のものではない、ひび割れた耳鳴りのような叫び声が。
「ごめんなさいねえ。あの子、どこかへ行っているみたい……アラやだ!どうしたの!」
「アッ!ドレアさん!すんません、こいつ、食い過ぎちゃったみたいで……」
「大変!洗面器!洗面器持ってくるわ!」
息子が見つからずに戻ってきたドレアは、うずくまっている少年のただならぬ様子に、慌てて居間を飛び出して行った。
テオドールは懸命に呼びかけてくれていたが、セルはその声も聞こえないくらいの耳鳴りに侵されていた。
体が浮遊しているような感覚に、目眩がする。
誰かの叫び声が、近づいてくる。
一際大きい叫び声と激痛が頭を駆け巡り、少年は意識を手放した。
⑶
目が覚めると、また同じ木造の小部屋に寝かされていた。
部屋の中は薄暗かったが、窓から見える空はまだ青い。壁に掛けられた細長い柱時計を見ると、太い針は4、細い針は8を指していた。
少年は、ぼやけた頭で思考した。
まだ、頭が痛いような気がする。意識がぼんやりとして、起き上がるのが億劫だった。
「……おはようございます。よかった、気がついて」
真横から声がして、セルは微睡の中から覚醒した。
ギョッとして飛び起きる。声のした方を見ると、ベッドの横に置かれていた椅子に一人の少女が腰掛けていた。
「あ、だめです!急に起き上がったら。熱があるんです。しばらくは横になっていてください」
少女は少し強い口調で言うと、少年の体をベッドに戻させた。セルはまだ心臓が跳ね上がっていて、言われるがままに従った。セルが元の体勢に戻ると、少女は安心したように微笑んだ。
その少女は、焦茶色の長い髪を後ろで一つに束ねていた。顔がドレアによく似ているので、彼女の娘であることがわかった。歳の頃はセルの少し上といった具合で、ゆったりとした白いワンピースを着ているその華奢な体躯は、女性特有の柔らかさを感じさせた。
「びっくりしました。母に言われて来たのだけれど、お人形さんが寝ているのかと思って」
少女は優しく笑って、手元にある裁縫を続ける。隣に置かれた小さなテーブルの上には手持ちのランプがあった。どうやら、部屋に灯をつけてセルを起こさないように配慮してくれていたらしい。
セルは声を出そうとしたが、喉が渇いていてうまくいかず、はくと口を動かしただけだった。
「セルさん、ですよね。お若いのに、未来社のお役人だなんてすごいわね。私、生まれてからずっと、この村から出たことがないから」
少女はゆっくり喋って、ちまちま布に糸を縫い付けてゆく。セルはその手元を眺めながら、なんだか懐かしい気分になっていた。エメラルドには涙の膜が張っていて、白目が少し充血していた。
「でも、殿方たちと旅だなんて、大変じゃないかしら?ほら、セルさん、すごく綺麗なお顔をしているし……」
「……あ、の」
掠れた声が出た。
その声を聞いて、少女は形の良い目を丸くした。
「あ……ごめんなさい!その、私、勘違いを……」
少女は顔を赤くして狼狽えた。そんな姿をみて、セルは柔らかく微笑んだ。熱に浮かされて、白い頬が上気している。
「……。あなたは……?」
セルが掠れた声で尋ねると、少女は裁縫の道具をテーブルに置いて、少し居住まいを正した。
「このうちの娘の、カトレアと言います。ごめんなさい、私……」
「……気にしません。あなたのお母さんにも、同じことを言われました」
そう告げると、少女は肩の力を抜いた。その様子が可笑しくて、セルは少しだけ笑った。
「……少し、お話をしても?」
「ええ、私は構いませんけど……。お体は?」
「寝て、よくなりました。ありがとうございます」
話すと、少し息が上がる。かなり熱が高いらしい。
それでも眠る気にはなれなかったので、セルは低い声で続けた。
「ここは、綺麗な場所ですね。……芝が青くて」
「農村なんです。放牧したり、稲や野菜を育てたり……。ここにいる人たちは、みんなそうして暮らしています」
「カトレアさんの、うちも……?」
「……うちは、裏の畑で野菜を育てています。収穫した野菜を、村の若い男たちに頼んで、街へ行って売ってもらうんです」
「そうなんですか」
「夏は、美味しい野菜がたくさん採れます。秋には、稲が」
「……素敵ですね」
「ウフフ。ありがとう。ここを出ても、またいらしてね。夏の終わりには、豊作祈願のお祭りがあるんです」
「お祭り、ですか?」
「ええ。秋に稲や穀物がたくさん採れるように、村のみんなでお祈りをするの。村の中心に広間があって、そこで“舞踏”をするんです。……ああ、そういえば」
言って、カトレアはワンピースのポケットから小さな笛を取り出した。
「これは、『月の笛』と呼ばれる楽器です。木を削ってできていて、“舞踏”の音楽を奏でるんです」
カトレアが、ピィと笛を吹く。柔らかい、不思議な音色である。
「それと、“舞踏”の音楽には歌もあって。この地方では有名なのだけれど、『月の調べ』ってご存知?」
「……聞いたことがありません」
「古くから伝わる唄で、地域によって歌詞が微妙に違うの」
『月は太陽を追う
母の大地の上で 明日を探す
風の運びに雨が集い
みどりがざわめく
めぐみの宝を この地にもたらすよう』
「綺麗な唄……」
「気に入ってくださってよかったわ」
柔らかに歌った彼女は、セルの様子を見て嬉しそうに微笑んだ。
セルは身じろぎをして、彼女の方へ体を向ける。
「テオさんは……」
「テオドールさん?あの方なら、裏庭にいらっしゃるわ。弟と一緒に、薪を割って下さっているの」
「……そうですか」
「テオドールさん、力持ちね。うちで使う5日分くらいは割ってくださってるわ」
カトレアは、可愛らしい声でクスクス笑った。つられて、セルも笑った。
「……弟さんが」
「ええ。今年で7つになるんです。体が弱くて、近所の子達とはあまり遊べなくて……。だから、テオドールさんが相手をしてくださって、はしゃいでると思います」
カトレアは、きっと弟がいるであろう裏庭の方を向いて言った。彼女の言葉を聞いて、セルは孤児院の子供達を思い出した。あの子供たちは体が弱いわけではなかったけれど、他の子供と遊べない子たちだった。
「カシスというんです。体が白くなる病気で……。お日様に当たると、すぐに火傷をするの」
あの子、本当はかけっこが大好きなのに。
カトレアの表情が曇る。悲しそうな、悔しそうな彼女の顔を、セルは眺めるしかできない。
はく、と息を呑んで、セルは言葉を吐き出した。
「……ぼくにも、弟や妹がいました」
「そうなんですか」
「孤児院で、共に過ごした、子供達です。かわいい子たち……」
「……そう」
「ぼくは、家族がいないから……、本当は、家族みたいに……オンジも……」
思い出して、涙が溢れてきた。
心を開かない子供達と、無口で無愛想な老人。
本当は、家族になりたかった。
みんなとたくさん話して、笑い合いたかった。
こんな顔を見られると、またオンジに「みっともない」と言われる気がして、セルは鼻を啜った。
静かに涙を流す少年を見て、少女はその額を優しく撫ぜた。
「……私たちもね、父がいないんです」
悲しい顔をした彼女が言う。
「2年前に、他界しました。森の中で、獣に襲われたんです。力持ちで、優しくて、自慢の父でした。弟も、大好きな……」
「父は、立派な山羊飼いでした。村の人たちからも、随分慕われていました。でも、ある晩、夕食の時間になっても帰ってこなかったんです」
「村中で探しました。松明を持って、森まで行って。それで、『父に助けられた』という村の人が、森から出て来たんです。『父は、獣に襲われた』って……」
「それから、父が帰ってくることはありませんでした。半年待って、死んだことになりました。遺体すら、見つからなかったのに……」
「……泣かないで」
「すみません……。本当に、大好きだったんです。私も、あの子も……」
少女は少年の額から手を離し、涙を拭った。“父の死”を思い出すと、悲しくて、悔しくて、仕方がなかった。
溢れる涙を拭っていると、そっと、熱い体に抱きしめられた。
薄く骨張った体に、ハッとする。
少年が、熱に浮かされたまま少女を抱きしめていたのだ。
「大丈夫……、泣かないで……」
そう譫言のように繰り返す少年の目にも、涙が溢れていた。
少年は、抱え込んだ少女の頭を優しく撫ぜる。まるで、幼い子供にしてやるように。
この少年は、確かに、孤児たちの“兄”だったのだ。
少女はその感覚に幼い日の父を思い出して、涙が止まらなくなった。
少年は、熱い体で苦しそうに息をする。きっと、熱が上がっているのだ。
少女もまた、自分よりも年下の“兄”を細い腕で抱きしめた。
ふたりは少年の意識が熱に溶けるまで、静かに泣いていた。
<続>
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
まだまだ続きます……。
これからもよろしくお願いいたします!
2021.3.7 水瀬宏