巫女姫イリスの圧崩 / 赤い指先
小魚のように細白い指が、たちまち先端から赤化しはじめる。
断熱圧縮で赤熱する耐熱タイルのように。
魔術の過剰使用による症状だった。
魔力量の多寡と強制制御により筋肉が微細動。
毛細血管の破断から始まって、過熱により細胞組織が茹で上がる。
指先からやがて全身が壊れていく。
イリス様の左小指と中指が煮込んだ野菜のようにぐずりと溶けて、爪が滑落した。
全方位へ向けて発した無線信号で『ヨナ』が悲鳴を上げる。
『フーカ! イリス様を止めて! このままではイリス様が死んでしまう!』
イリスヨナが可視光・不可視光線両方の極彩色で放つ悲鳴。
だが無線の向こうにいるフーカはヨナの悲痛な叫びに一切応えない。
『イリス、かまうことないわ。どうせヨナにイリスは殺せない』
そんなことは私もイリス様も知っている。
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ヒトの肉体はあまりに簡単に損壊する。
菱川重工廠が『開発中』の対Gスーツには大きな課題があり、肝心の対Gアクティブフィードバックが未開発。
じゃらじゃらヒモがついてる温熱服でしかない。
そのためイリス様の専用対Gスーツには、『ヨナ』の髪を引き毟ってイリス様の魔力を込めて編み込まれている。
古代戦艦イリスヨナの計算力とイリス様の魔力制御を接続して、フィードバック制御を行う。
仕組みはほとんど対空碇と同じ。
世界中でイリス様にしか着こなせない戦闘装束。
それでもなお、対Gスーツというコンセプトそのものの根本的な限界もある。
空対空格闘戦における空中機動と急制動による慣性力。
人体はおよそ10G以上の負荷をかけると、どんなに硬い鎧で覆っていようが関係ない。
増加した自重に耐えきれずに内側から潰れてしまう。
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戦闘機の飛行高度は富士山より高い。
気圧が低くて空気が足りないし温度も低い。
魔力を持たない普通の人間が生身で晒されたら、酸欠で即座に気絶し生命も数分と持たない。
戦闘機に乗って全周を覆われていても、油断すれば気を失いかねない極限環境。
イリス様はその高空に身を晒している。
巫女姫の生命力といくらかの魔力保持者としての身体強化、掌砲長から借り受けた防護ゴーグルに、対Gスーツの耐久性に燃える始祖鳥からの放熱。
イリス様自身は肉体の損壊を気に留めない。
せめて痛覚を遮断しようとする私を、イリス様が無理やり押し止める。
『ヨナ、だめ。いま痛覚を遮断すると、一緒に感覚情報と碇の制御を失ってしまう』
イリス様の痛覚が、私には目で見る他人の怪我のように遠い。
皮膚の裂け目が増え、失血量が増す。
『ヨナ、10指すべてを圧迫止血』
命令を受けた瞬間に遠隔からイリス様の神経を発火し、随意運動では不可能な筋収縮を発生。
指が壊死していくのに構わず血流を完全停止して失血を抑える。
続いて、掌砲長から借りた保護ゴーグルと魔力で防護していた肉眼が限界を迎えた。
視神経と周辺血管が次々と破裂断線。
イリス様の眼球が可視光を喪失。
『ヨナ、視覚を反転。何か代わりになるものをこちらに』
イリス様の求めに古代戦艦イリスヨナの電探が出力を増す。
また始祖鳥も形態変化を起こす。
始祖鳥の体側面に側眼が発生する。
目の後ろから首に沿い尾の先まで。
翼のある体側を除いた側面のラインに沿って32対64個の非可視光単眼レンズがパッシブな受光を開始。
直線に並んだ無数の暗い瞳孔に見つめられ、騎乗竜が本能的な恐怖に悲鳴をあげながら姿勢を崩す。
体毛に覆われた側眼はヒトの目からは存在を伺えないが、一部の竜種は非可視光線の領域が見えるため気づいたらしい。
イリス様の視界が『肉眼』から『電探』へ切り替わる。
ヒトの可視聴範囲よりレンジの広い光波受信機。
『ヨナが見ているものを、私も全部見たい』
イリス様から流入していた周辺可視光情報が反転。
膨大な視覚情報を解釈するためだけにイリス様の人格が変容してしまおうとするのを、ヨナの視覚処理を経由して事前変換をかけることで押し止める。
精神だけでなく、肉体まで汚染が進む。
イリス様のあらゆる箇所が圧崩していくなかで、ヨナの髪から再分化した組織構造充填素材が、損壊箇所を支えて代替するために置き換えていく。
分子結合を破壊されて蕩けていく腸粘膜の成分――軸索を通して味として知覚されるイリス様の臓腑から垂れる甘い脂。
愛する巫女姫の甘美な肉体を内側から貪りたくなる欲望に全力で抗い、意識を逸らしながら。
できるだけ損傷を与えないようにしようとする努力も虚しく、イリス様の肉体が強度の足りない部分から、どうしようもなくヨナ由来の物質に置換されていく。
とうとう脊髄にまで喰らいつかれて、イリス様の肉体が反射的に悲鳴をあげた。
脊椎そのものはともかく、周辺は痛覚神経の巣。
ヒトが有史以来に一度も感じたことがないであろう未知の感覚が、イリス様の意識を塗りつぶす。
侵食された一瞬で許容値を超えた痛みが、臨死判定となって脳内をドーパミン漬けにしようとする。
放置すれば脳内麻薬の洪水でイリス様の人格が壊れてしまう。
もちろん放っておかずに脳細胞間まで手を伸ばし、脳内伝達物質を掌握して過剰分泌物を打ち消す。
イリス様の口からはヒトならざる嗚咽が鳴り、そしてグズグズになった内臓から漏れ出た体液が呼気と混ざってごぽりと鳴る。
嗚咽を漏らしたまま開いた口からは、粘度の高い唾液がひとすじたらりと伸びて空中に消えた。
肋骨に補強を入れたが、もう自発呼吸はさせられない。
翼のような鰓を生成して伸ばし広げ、高高度の低圧で足りない空気の分子を掴む。
肺胞に食い込んで直接血液に酸素を取り込む。
対空碇を制御するために意識の接続した箇所がすでに癒合をはじめていて。
『フーカ! このままではイリス様のヒトの部分がなくなってしまう!』
『ダメよヨナ。やめたらイリスが死ぬわ。いまイリス嬢を失うわけにはいかない』
『ヨナ、落ち着いて』
イリス様の肉体と精神をあちらこちらと喰い潰しながら、燃え盛る始祖鳥の放つ妖しい光が闇夜を舞い、周辺に死を振りまく。