幕間:敗戦処理の割譲交渉2 / 美しい子鹿を狩った猟師の話 / 人類の方舟
エーリカ様が去った後の会談室。
「どうしてエーリカ嬢の提案の飲まれたのですか。それに、エーリカ嬢は一体何を考えているのか。正直、後半の話の意図が私には読めなかった」
「そうか。しかし、どう説明すればいいか」
男はしばらく思案する。
「君は鹿を知っているかね」
「ええ。実物を直接見たことはありませんが」
「私が持っている記憶のなかに、ある子鹿を撃った猟師の話がある」
卿は話し始める。
「彼は、故郷の森で誰よりも腕の立つ猟師だった。
誰よりも早く森を駆け、誰よりも遠くの小さな得物を見つけ、誰よりも正確な矢で射る。
そんな彼がある日、ほかに誰も分け入れない森の最奥で、一匹の小さな子鹿を見つけた」
そのツノは小さいが、伸びはじめたツノの瘤の曲線ひとつとっても美しく、薄カラメル色の表面は深いブラウンへの変化を予感させた。
首の筋からいずれ強くなり厄介な獲物となることが伺い知れる。
理性的な瞳は周囲を十分警戒して、しかし無駄なく見回し。
体毛も幼毛でありながらすでに美しい模様の片鱗を見せ、腰つきは大人になった鹿の豊かな肉を想像するあまり、涎が滴り落ちそうになるほどだった。
つまらない得物に、狩人は疎むものだ。
最高の狩人は最高の得物を求める。
「猟師は子鹿を射殺した。
そして、猟師はその日から死ぬまで毎日、子鹿狩りを後悔し続けたのだ」
「なぜです? 最高の獲物を狩り取ったのでしょう?」
「猟師が狩ったのは、その時はまだ、ただの子鹿だったからだ。
屈強さと美しさを兼ね備えたツノ、頑丈で美しい毛皮、豊かな大人の鹿肉。
そして何より、難敵と戦い困難な獲物を狩ったという名誉。
そのひとつも手に入らなかった。
人食い熊や幻獣のように、他の猟師たちへの自慢にもならない。
つまらない子鹿をわざわざ狩ったことは、むしろ猟師の評判を落とした」
それは獲物を逃すことよりも、はるかに悔しい出来事だったろう。
「つまりエーリカ嬢は、獲物を肥え太らせてから喰らうつもりだと」
「そういうことだ」
話し終えて一息つく。
「しかし我々吸血鬼としては、エーリカ嬢が古代戦艦を肥え太らせるのを待つわけにはいきませんな。
檻に囲った家畜だとしても、あの船は危険だ」
「我々が手を出しても、エーリカ様は文句を言わないだろう」
エーリカ様は、古代戦艦イリスヨナを敵と呼んでいた。
どうやら、エーリカ様はイリスヨナを、家畜ではなく野生動物として扱っている。
家畜の屠殺に興味がある御仁ではない。
強敵は、ハリボテではむしろ名誉を損なう。
本当に強い獲物でなければ意味がない。
だから少なくとも、我々がイリスヨナを消そうとするのをエーリカ様は邪魔しないはずだ。
他の猟師が狩れる相手なら、そもそも獲物としての価値がなかったことになる。
「むしろ、吸血鬼をぶつけて見極めようというつもりか。もしそうであれば、なんという豪胆さだ」
エーリカ様の意図を推測して呆れる卿に対して、もう一人の意識は古代戦艦に向いている。
「しかし、いつも悔やんでいることですが、やはり大海戦のときに、海軍と共に古代戦艦を絶滅すべきでしたな」
「心の光を遮ることのできる唯一の手段だ。万が一のときに我々を生き延びさせるために、方舟は残しておかねばならん」