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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

三十路の再青春

作者: J.A.Tash

 考え方そのものが間違ってはいないと思っています。決して言い聞かせている訳ではありません。自分はこれ以上嘘をつきたくないのです。これ以上人を、いえ、これも嘘になるでしょう。自分を傷つけたくないのです。ですから、私はこれ以上嘘をつかないためにも、もう一度だけ嘘をつきます。


 コルク式ではない、名前を覚えることなどまるで無意味な料理用赤ワインの蓋をゆっくりと捻る。五十センチ四方ほどのテーブルに、唯一冷蔵庫の残り物として忘れられていたレタスにトマトソースをかけた、これまた名前をつけるのも躊躇いがちな創作料理もつまみとして用意した。五畳ほどのワンルームで、津々見拓馬は一人、三十歳の誕生日を慰め始めた。

 立派なお店に置いてありそうなグラスにその安ワインを注ぐ。音程がずれているのではないかと指摘されそうなか細い乾杯の声を自分に上げた。普段一人で部屋飲みなんかしない拓馬は、お構いなくグイグイ赤ワインを体内に吸収させていく。そして名が無いレタス料理に手を伸ばそうとしたが、寸前でその方向はスマホへと切り替わった。動画視聴中毒者、いや、時間浪費中毒者の拓馬にとって、内容は何でも良かったはずだったが、今はどれも誕生祝いを満たすには至らなかった。ほどなくしてスマホを脇に置き、薄灯りに照らされた小汚い部屋で、溜息が漏れた。溜息が漏れたことに、もう一度溜息を漏らした。

 去年は確か十人ほどが祝ってくれていただろうか。その前の年はどうだっただろう。一番多い時は確か……。歳を重ねて、気が付けば数字に憑りつかれる機会が増えてきた気がする。恋愛をした、いや、したであろう数。友達、いや、そうであろう数。何度きちんと数えようと試みても、途中から始まる帳尻合わせに、数字が決まることはない。遠慮の無い人が拓馬の頭のメモ帳を見たら、こう指摘されるに違いない。

「その人数を二で割ってごらん」

 いないはずの恋人と二人で飲んでいる錯覚を感じさせるほど、飲み始めて三十分足らずで、ボトルの上半身は既に透明化していた。酔っているのか分からないが、それを意識するということは、周りからみたら多分立派な酔っぱらいなのだろう。スマホを見つめ、一度一緒に飲んだことがあり、そのときは敢えてこっちから連絡してまでも、と思えるような女性からの、決して来るはずがない誘いの言葉に期待が始まる。数分後にしっかり自己嫌悪ができてから「いや今日の主役は誰だ」と自身の慰めのために、また哀れな思考に呑まれていく。

 現時点で親しくしている中で拓馬を特別孤独に思うような人はいないだろう。もしかしたら、そんな馬鹿なと思う人の方が多いかもしれない。拓馬は滅多に道化を演じない。しかし、それに変わる動画や漫画で見た何かを、場の雰囲気に合わせて演じる癖がついてしまったようだ。いや、何が演技で、何が本音なのか。ただ、明らかに演じている時、一定の水準には到達しているように思う。それが例え、技という一言で嘲笑を喰らう陳腐なものだとしても、それなりに人を鼓舞させ、笑わせ、同情させることにはできている。現に人と知り合えば、その中で割と影響力の持っている人から好意を抱くことに成功できている例は少なくない。スマホの写真には、ファンが見たら吹き飛びそうな芸能人とのツーショットも複数ある。実際今となってはそのスター友達のほとんどが、酔っぱらった勢いで一方的にメッセージを送りつけるのみの関係にまで冷え切っている。そういう風にしたのは全部自身の薄っぺらい性根に起因しているのはわかっている。だが、写真と口と表情のコンビネーション技で、人の心に拓馬の存在を侵食させようとする試みは、自責の念を忘れかけた頃にいつも繰り返す。

 拓馬はまるで大勢の人を心配させるかのように大袈裟によろめきながら立ち上がり、窓をスライドさせ、外の空気を入れた。思考になっていない思考を止めるために。しかしいくら夜風を浴びても、自分をみすぼらしく至らしめる負の感情はオムニバスでやってくる。自己批判の同時進行はきつい。いや、でもそんなことができる自身は天才か、と勘違いしたいほどに、とんでもなく無意味なものでもいいから耽りたいだけなのか。トマトソースが侵食しきったレタスはふやけた血の塊のような姿と化し、この世で最も食欲をそそらない一品料理となっていた。唯一のつまみは向こうがやってくるのか彼が歩み寄っているのかわからないオムニバス。

 ある女性の育児の悩みをアメリカ大統領のユートピアに結びつけ、半ば強制的に悩みを解決したことにしてしまったこと。とどのつまり目黒駅前にある漫画喫茶と家の往復が自身の趣味の全てなのではないかとの疑念を払拭しきれないこと。ゲーム会社で単調な事務バイトをしているに過ぎない彼のもう一つの仕事は、周りにその会社で取締役をしていると信じ込ませること。生まれてきたかけがえのないはずの今日、その一年前に離婚したこと。

 なぜ戒められるのかわからないが、このランダムにやってくる自己嫌悪の子羊たちが、彼の心の深淵にこびりついた一つの核から枝分かれして形作られたような気がしてならない。だから彼はこれをオムニバスと、少しシュールなことに酔っていたいかのように名付けた。


 拓馬が目覚めると、透明に寝そべっているバースディ安ワインの二本はベッドで両手に花状態であった。自身がどれだけ一人酒に向いてないのかが垣間見れた瞬間だった。そして彼が生まれためでたい夏の朝は便器と抱擁を交わすことから始まった。吐しゃ物と共に、飲み始めから自身を傷つけた昨夜のオムニバスも、この愛しい便器に絞り出せないか。いや、いっそのこと彼自身がこの便器の中に入り込み、そのまま脳みそごと液化して無感情のまま永遠に汚いところをさまよっていたい。でも臭いのは嫌だな。ではなくて、汚いところの中でも、特に臭かったら、いじめられるだろう。臭いやつに臭いことをいじめられたくはない。馬鹿な話はよしとしていい加減鎮まれ、吐き気をつかさどる肉体のどこかの神よ。

 休日と重なったせっかくの誕生日、漠然とだが、午前から行動しようと考えていた。しかし、具体的に何かしたいことがある訳でも無い拓馬に、行動そのものを起こさせるのには時間がかかった。夕方に差し掛かり、誕生日をきっかけに今度こそ変わる、と向かった場所は漫画喫茶だった。豆腐の意志の最終形態である。

 リクライニングシートに座った拓馬は改めて思った。他のと比べ、最高級の革やロケット装置のような特別な物でできているわけでもないこの椅子の何がここまで彼を聖母のように包み込むのか。魔法としか思えない力がそれにはあった。きっとこの椅子は職人が涙なしでは語りつくせない思い入れと共に完成したものに違いない。ただ、彼を魅了するのはそれだけに止まらない。個室の密閉感、自己奮起を一瞬だけ促す漫画の数々、グラスを押し込むだけで出てくるドリンク。例えグラスからどんなに液体が溢れ出ていても、気が済むまで押し込める。長時間滞在せしめることへの全ての配慮に行き届いたおもてなしが凝縮されている。

 ただこの日はどの漫画も彼のモチベーションをあげてくれない。読めばいつも生きる意味の全てを悟らせてくれるはずのバイブル「俺の空」も、本棚から座席に移動させただけであった。スマホのディスプレイが、誕生祝いをしたい友人の存在を知らせた。

「ごめん。先約が入っちゃって。でも本当にありがとう」

 なぜこんなにも「本当に」という言葉を使ってしまうのだろう。本当に、ということであれば、本当なんだから、わざわざ言わない方が良い。まるで「本当に」と添えてない時は全て嘘をついているかのようだ。そんなことで虚しさを生み出せる拓馬だが、それより自身を「本当に」愚かに感じさせている感情が別にある。何の予定も無く、およそ断る理由の無い誘いを断る自身はどういう神経をしているのか。考え始める拓馬だが、すぐいつもの思考癖が、一つの結果へと導く。誘いを断る理由は、皆から必要とされている人間であることを証明する証書を発行していることに他ならないからだ。彼はきっと今地球一暇な誕生日の主役だろう。しかしそれを悟られたら彼の自我が木端微塵に砕け散るような恐怖感に駆られ、またそんなことを考えることすらが己を低く至らしめることになると、常に両方を考える。だから一向に定まらないのだ。そんな自身の哀れさに気づき、その事実を転換するかのようにまた「俺の空」をめくろうとしたが、表紙に鉛が入ってるかのように開き上げることは叶わず、それは重力に従った。家から歩いて五分の漫画喫茶で漫画を読むことも無く、シネマチャンネルを開くわけでも無く、ただただリクライニングシートに座り、料金の加算を待ちながら、三十という数字が持つ意味を考え始め、それが気づけば十四や十七になったりし、数字心理学者といったでたらめな存在に着実に近づいていっていた。全ては研究家や学者からの視点で考察という状態に置き換えれば、自らに起きていることが、他人ごとに思え、幾分心が楽になった気がした。

 気づけば午後八時をまわろうとしていた。何も食べてないことに気付いた彼は、せめて夜くらい少しおしゃれなイタリアンにでも行って、ささやかな誕生日を締めくくろうとしたが、いざ漫画喫茶の受付の前まで来てしまうと、持っている伝票をズボンの後ろポケットに差し込み、カップ麺を注文しているのであった。何度繰り返せば学習するのだ。意志という言葉は二度と使うまい。

「210円です」

 言われた丁度の額をトレーに置いているのだが、目の前の店員はそれをなかなか受け取ろうとしない。

「あの、本当に良いんですか」

 事務的な会話以外で声をかけられたことに驚いたが、状況への一刻も早い理解に脳をシフトする。

「いえ、ごめんなさい。けど、私が言うのも変なんですけど、誕生日ですよ?」

 目の上で一直線になったストレートの黒髪とメガネが似合う彼女が池脇ということは、名札で前から知っていた。いや、覚えていた。反射的にいつもするように、その場しのぎのもっともらしいユーモアで躱そう。けどなぜだ。表情が引き攣っていつものように言うことを聞かない。

「なぜそれを……ああ、年齢確認」

 できる限り明るいトーンで返したつもりだったが、池脇は先ほどの発言を後悔するかのように黙ってうつ向いている。うつ向いた時の頭の頂点がちょうど拓馬の鼻の辺りの高さで、髪からラベンダーのような香りがほのかに舞った。

「いつものように気づいたらここに来ちゃってたんですけど」

 真っ赤な顔を申し訳なさそうに上げる彼女と目が合い、逆に恥ずかしくなった拓馬は目を逸らした。

「よく考えてみるとほんと言う通り、何やってるんだって感じですね。やっぱりラーメンは止めにします。お会計、お願いします」

 うっかりすぐさまズボンから伝票を取り出してしまった。最初は会計しようと受付まで来ていたことが彼女にばれたかと思うと、拓馬は自身の顔が彼女より赤くなっているのではないかと急激な不安が膨れ上がった。

 生涯で一番緊張したお会計は終わった。さあ、レジーナという一度は行ってみたかった格式が高めのイタリアンに行こう。一人で行くとは思わなかったが、絶対に行こう。今度ばかりは絶対に。

 拓馬は出口のドアを開けながら、池脇に目を合わないように軽く会釈をした。これからはここも来づらくなるな。そう考えながら階段を下りていると、後ろから切り切りとした音が耳を掠めた。

「あの」

 振り向くと、さっきの店員がドアを開け、ぎりぎり届くほどの声を投げかけた。顔は相変わらず真っ赤なままだ。

「私、あともう少しであがりなんで、良かったら一緒に、ど、どうですか」

 絞り出すように言い切った彼女は、顔をうつ向け目を閉じているが、階段の下から見上げている拓馬からすると、以前から整っていると思っていたその顔を一つも隠せてはいなかった。逆に彼女が目を瞑っているおかげで顔を初めて直視でき、彼がいつから無くしてしまったか思い出すこともできない清純さが滲み溢れる美しさに、数秒魅入っていた。

「実は私も、今日が誕生日なんです」

 一年前離婚してから、何かを取り戻すように、何人かの女性とは会った。その時には感じなかった、

 いや、嘘だ。

 小学校六年生の時、好意を寄せていた女子が席替えで奇跡的に隣に座ることになった、あの時の胸の高鳴りが、もう一度同じように今、鮮明に再現されていた。 

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