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縁結びの神子見習い

作者: 春江紗奈

清ノ原町(さやのはらちょう)に来たのなら、紬喜(つむぎ)神社へ行き、土地神様にご挨拶をしなさい』


 これは、この清ノ原町で古くからある言い伝えだ。この町の面積の大半を占める紬喜山の奥に、紬喜神社は存在する。縁結びの神社の総本社として構えるその神社には、〝縁〟を司る土地神がおり、町全体を見守っていると言われている。

 全国各地に神霊を分けた分社が存在するが、総本社である紬喜神社は特にその力が強く、土地神と縁を結ぶことが出来れば、町に住まう限り健やかに過ごすことが出来るとされている。

 そして今日もまた、若い夫婦が新たな命と清ノ原町との間に、縁を結ぼうと神社を訪れていた。


「――糸結びの儀」


 神社の神子(みこ)が若い女性の膨らんだお腹にそっと触れると、神子の手の内が淡く光った。暫くそうしていると、緊張した面持ちの夫婦が見守る中、神子はゆっくりと手を離す。


「これでお腹の子と土地神様は、縁の糸で結ばれました。きっと無事、元気な子が生まれますよ」

「ありがとうございます、(むすび)様。これで安心して出産日を迎えられます」


 儀式を終えると、夫婦は笑顔で神社を去っていった。神子もまた穏やかな笑顔で彼らを見送ると、くるりと体を反転させた。


結衣(ゆい)、また来てたのかい?」

「うん! おばあちゃんのじゅつ、みてた!」


 襖の影から姿を現したのは、幼い少女。結衣と呼ばれたその少女は、とたとたと足音を立てながら祖母である結のもとへ駆け寄る。


「あのね! おばあちゃんのじゅつはー、すっごく、すごーく! きれいなの! きらきらしてて、みてるのすきなの!」

「そうかい。結衣もいつかはおばあちゃんと同じことが出来るようになるさ」


 結がやや乱暴に結衣の頭を撫でてやると、結衣は嬉しそうに瞳を輝かせた。


「ほんとう? わたしもできるようになる?」

「もちろんさ。でも、ちゃーんと修行しないと駄目だからね」

「うん! わたし、がんばる!」

「その意気さね。おばあちゃんは結衣の成長が今から楽しみだよ」


 仲睦まじい祖母と孫のやりとり。それは見ているものには微笑ましく、二人にとっては何者にも変えがたい幸せな時間であった。

 それから結衣は数年の修行の末、結の跡を継いで紬喜神社の神子となる。


 ――はずだった。




「結衣、いつまで寝てるつもりなの! 早く起きなさーい!」


 大きな音を立てて自室の扉が開かれる。騒々しい声に目を覚ますと、部屋の明るさに目が眩んだ。カーテンで遮光されているはずなのに、瞼の裏と比べると随分と照度に差を感じる。


「えぇぇ……春休みなんだし、別にいいじゃん」


 無理矢理に覚醒させられた苛立ちから、突然の来訪者に反抗するように背を向ける。反論はしてみるものの、寝起きでかすれた声では聞こえなかったかもしれない。けれどそんなことよりも、とにかくこの温かく穏やかな寝具の中から出たくない一心で、毛布を頭まですっぽりと被る。すると、目に優しい暗い光景が再び広がってきた。


「まったく……結衣!」

「っ~! あぁああ……」


 けれど無慈悲なことに、毛布はあっさりと引き剥がされる。冬場特有の冷えた空気に体が晒され、悲痛な叫びが口から漏れた。最後の悪あがきとばかりに体を丸めてみるけれど、返ってきたのは呆れたような溜め息一つ。


「いい訳ないでしょう! 今日みたいな天気がいい日にこそ、みっちり修行をが出来るってものよ」

「……私は別にしたくて修行してるわけじゃないし」

「何か言った?」

「なんでもないー」


 極めて小声でぼやいたつもりだったのに、耳ざとく聞かれてしまう。さらに繰り返せば、相手の機嫌を損ねることは明白だ。流石に喧嘩を売るほどの度胸は私にはない。そんなことをすれば、長々としたお説教が待っていることは確実なのだから。


「……(はるか)

「なに?」


 ゆっくりと重い瞼を持ち上げ振り返れば、来訪者の長い金色の髪が目に入る。きっちりと化粧で綺麗に彩られた顔を見ると、自堕落な自分との落差に再び溜め息が漏れた。


「……はぁ。着替えるから、早く出て」

「はいはい。朝ご飯、出来てるからね」


 出来うる限りの抵抗を続けてみたけれど、 結局こちらが折れるしかないらしい。毛布のない寝具では、外気に体の熱を奪われるなど一瞬のこと。寒さに加えて、こうも対話を繰り返せば、否応なしに頭も動き出してしまうというものだ。渋々体を起こすと、ようやく納得したように訪問者は部屋を出ていった。


(……懐かしい夢を見たな)


 パジャマを脱ぎながら、先程見たばかりの夢を思い出す。夢なんて普段ならば目を覚ませばすぐに忘れてしまうものだけれど、今日の夢は過去の出来事が大半であったからか、起床して暫く経った今でも鮮明に思い出せた。


(おばあちゃんと……私、か)


 あれは一体いくつの頃だっただろうか。幼い姿の私は、大好きな祖母の近くをいつもついて回っていた。実際祖母は孫の自分を可愛がってくれていたし、自分も神子として仕える祖母のことを尊敬していた。


(……ずっと、あんな生活を続けられると思ってた)


 温かく、平和で、優しい世界。それは確かにあったはずの時間なのに、今となっては遠い昔のようだ。実際、過去を夢に見て懐かしいと思えるほどに、月日が流れたのは確かだろう。

 幼かった私――紬喜結衣は、十六歳となった。祖母は二か月前に病で倒れ、それまで母のいる東京にいた私はこの町へ呼び戻された。――紬喜神社の正当後継者として、だ。

 そして今。母の代わりに私の傍にいるのは、先程私を叩き……もとい、起こしに来た〝彼〟――鷲宮遥わしみやはるかだ。


「あぁ、やっと来た。ほら早く。 ご飯冷めちゃうじゃない」

「おはよ、ねぼすけ結衣」

「おはよう、(さや)


 居間へ向かうと、唇を尖らせた遥と、人の姿をした小さな生き物が待っていた。 手に乗るくらいの大きさの彼女は、この神社に住み着いている精霊だ。からかうような口調で私の周りをふわりと一周すると、私の茶碗からお米をつまみ食いした。朝食の準備は既に整っているらしい。


「先に食べててくれていいのに。いただきます」

「まったく……。いただきます」


 いつも通り遥からの小言を受けながら、箸を手に取る。冷める、とは言われたものの、まだご飯もお味噌汁もほわほわと湯気が立っていて、私が到着するタイミングを見計らって、よそってくれたのだろうと想像がついた。


「そうだ。今日はこの後雑誌の撮影があるから、一人で修行しておいてね」

「ん、わかった」


 教育係として私とともに生活している彼は、どう見ても女性にしか見えないが、れっきとした男性だ。遥曰く女装は趣味らしいが、毎日長く伸ばした髪を整え化粧をして、言動さえも一貫して女性らしく振舞う様子は、すっかり様になっている。高身長ですらりとした体形に加えて、元々端整な顔立ちをしていることもあり、その抜群のプロポーションを活かしてモデルの仕事もこなしている。――もちろん、女装姿で、だ。


「天気がいいから、走り込みも出来そうね」

「えー、走り込みー?」

「体力づくりも立派な修行の一つよ。術の練習だけが修行じゃないんだから。ようやく道の凍結もなくなってきたんだし、これまで休んでた分をしっかり取り戻しなさい」


 苦手な練習プランを提案されて思わず不満を漏らしたけれど、遥は対して気にする様子もない。

 三月となり、この神社のある紬喜山からも、ようやく雪が融け始めたところだ。遥の言うように、怪我の可能性を考慮し休止していた走り込みのトレーニングも、再会するにはちょうどいい頃合いではあるだろう。けれどあまり体を動かすことが得意ではない私にとっては、あまり嬉しくない状況だ。


「はぁ……」

「返事は?」

「……はい」

「クスクスッ、相変わらず結衣は遥には勝てないね」


 清は楽しそうに笑う。そう、後継者として腕を磨かなければならない身としては、いかに嫌がろうとも、逃げられるものでもない。渋々返事をすると、遥は満足そうに頷き、味噌汁に口を付けた。


(修行……ね)


 卵焼きを口に放り込みながら、改めて今日の夢について思い返す。

 祖母が神子の仕事をこなし、私はそれを傍で眺めている――今となっては遠い昔の光景だ。神子の務めをこなせる者がいないこの神社は、その役目を休止せざるを得なく、今は急ぎ後継者を育てている状態だ。

 そして、その後継者とは、本家直属の跡取り――私ということになっている。 可及的速やかに神子としてのお務めをこなせるようになるためには、日々の修行が必須だ。


(……ってことは、わかってるんだけど……)


 修行の必要性も重要性も重々承知している。けれど、早く祖母のような神子になれと言われても、私には自分が跡取りとしてお務めに励む姿が全く想像出来ないのだ。後継者の実感が未だに持てない。


(それに私は別に、後を継ぎたいわけじゃないし……)


 今日の夢のように、幼い頃であれば、神子の祖母に憧れもしたし、祖母のようになりたいとも思っていた。

 けれどそれはあくまで、幼少の頃の話だ。今の私は違う。憧れていた姿には、もうなりたいと思えない。


(……どうして、やりたくなくなっちゃったんだっけ)


 夢が夢でなくなってしまった原因を思い返してみるが、記憶の入口が蓋で塞がられたように、何も思い出せない。確かに、何かがあったはずなのに。


(私、は……)


 この家の状況を考えれば、早く技量を身に着けて後を継がなければ、とは考えている。 このまま遥に世話を焼いてもらい、言われるままに漫然と修行をするだけの、堕落した生活を送っていていいわけがない。 変わらなければならない。

けれど、そうは思っても、体が動かない。心が付いていかない。頭だけが急いていて、何も出来ていない。それが現状だ。




「う~っ、寒い」


 外に出ると、冷たい風が肌を刺した。いかに天気が良くとも、日の当たらない日陰にいては、体はすぐに冷え始めてしまう。日向を見つけてストレッチを始めると、清が顔を覗き込ん出来た。


「今日はどれくらい走るつもりなんだ?」

「うーん、そうだなぁ。走り込み自体久しぶりだし、軽く境内を何周か、って感じかな」


 境内の敷地自体はそれほど広くはない。一周の距離は短いが、数回重ねればそこそこの走行距離になるはずだ。

 けれど清は私の答えに満足していないのか、うーん、と唸る。


「せっかくだから、山道に出たら? 巡回も兼ねてさ」

「巡回って、山に何かあれば木霊が知らせてくれるんでしょう? する必要ある?」


 清のような精霊がこの神社にいるのと同様に、山や森にはその木々に宿る木霊と呼ばれる精霊が存在する。この紬喜山に住む精霊たちをまとめているのが清なのだが、異常事態が起これば彼らはすぐに清にその情報を伝えてくれる。だが、早々そういった事態は起きないし、実際、私がこの町に戻ってきてからトラブルに見舞われたことはない。そのため、清の言う巡回の必要性というものを、私は感じなかった。しかし、清はやはり不満そうに首を振る。


「それは確かにそうだけど、この紬喜山で起きる事象に関しての責任は、紬喜神社が取る。つまり、後継者である結衣には、この山を管理する義務があるってことだよ。何も起きなくても、木霊たちに挨拶するくらいはしておくべきじゃないか?」

「……確かに、そうかも」

「だろう? そうと決まれば、紬喜山パトロールに、しゅっぱーつ!」

「あっ! もう、待ってよ、清!」


 清の言い分について少し納得しただけだというのに、清は言うべきことは言った、というように先を進んでしまう。こうなっては私の意見など聞く耳を持たない。早々に説得を諦めると、清の後を追った。




『あれ、結衣だ』

『おはよう、結衣! 朝から精が出るね』

「おはよう。やっぱりまだ寒いね」


 山道を走り出すと、辺りから声が聞こえてくる。木々に宿る精霊たちだ。その姿は見せず、口々に声をかけてくる。


『私たちも寒いのよ~。早く春にならないかしら』

「そうだね。こう冷えると、朝起きるのも億劫で仕方ないよ」

「今日も遥に起こされてたもんね」

「清、そういうことは言わなくていい」

『ククッ、どうせ今も遥に言われて嫌々走ってるんだろう? 結衣は遥に弱いからなあ』

「……ほら、清が余計なこと言うから」

「そう思うなら自分で起きたらいいでしょうが」

「……」


 正論だ。これ以上何か言っても、自分の首を絞めるだけだろう。言い返すことはやめて、走ることに集中することにした。


******


「はぁ……そろそろ折り返そうかな」


 どれくらいの時間を走っていただろう。神社のある山の中腹から、気付けば見晴らしの良い開けたスペースへ辿り着いた私は、休憩を兼ねてその場にあった適当な岩に腰を落とした。


「……なーんにもないなぁ」


 山からの景色をぼんやりと眺める。眼下には、転々と広がる田んぼ、町役場、住宅街、商店街。目玉となるような特徴は一切ない、至って平凡な町だ。


「何もないって失礼ね。紬喜神社があるでしょうが」

「強いてあげれば、ね。でも、あってないようなものじゃない」


 町の特徴としてあげられるとすれば、全国の縁結び神社の総本社である紬喜神社くらいであったが、それも家元が倒れてからというもの、このザマだ。


(でもまぁ、おばあちゃんがいたときから既に廃れつつあったしね。 『早く後継者を!』……なんて焦る必要なんてないんじゃないのかな )


 人々からの信仰が厚かった時代は過ぎ去ったのだろう。家元が倒れる前から、神社を訪れる人は数える程度だった。それほど求められてもいないのに、急がなければならない理由がイマイチわからない。跡を継げとしつこく急かしてくるのは、運営を任されている親戚陣だが、彼らには神社の現状が見えていないのではないだろうか、と疑う程だ。


「わざわざ町を出ていった私を呼び出す程とはとても思えないよね。……おじさんたちは何を考えてるんだか」


 私は小学生までこの町で過ごした後、母の住む東京で四年間過ごしていた。予定ではそのまま向こうで高校生活を送るはずだったが、高校二年への進級を控えた冬、祖母が倒れたという情報が入った。――脳梗塞だった。

 幸い発見が早かったこともあり命に別状はなかったものの、リハビリ生活に明け暮れる祖母にはとても神子のお務めがこなせるはずもなく。代わりに務めを果たせる者を――と、直系の血族である私が呼び戻されることになったのだ。

 戻った私を待っていたのは、祖母の側仕えをしていた遥による修行生活。宮司の父は、宮司の仕事を親戚に任せ、祖母の面倒を見るために、祖母の入院している病院の近くに一時引っ越しているため会えていない。その親戚は任された仕事を面倒くさがっているのか、事務作業程度しか行わず、神社にはほぼ顔を出さないため、遥と私、そして精霊たちだけが神社で暮らしている状況だ。これで神社の役割を果たせているのかと問われれば、誰がどうみても首を横に振るだろう。


「……そうだね」

「……清?」


 神社の現状に対する本音を口にしたところ、清はツンとすましたような顔をしてそっぽを向いてしまった。もしや怒らせてしまっただろうか、と覗き込もうとすると、不意に清はピクッと何かに反応した。


「……雪」

「え?」


 清の呟きに反射的に空を見上げると、上空には分厚い雲が鎮座していた。


「うそ、あんなに天気よかったのに」

「早く帰った方がよさそうだね。先行くよ」

「あ、待って。清!」


 またも先を行く清を急いで追いかける。走り出すと、それを待っていたかのようにチラチラと雪が降り始めた。出来る限り速いペースで駆け降りるが、雪は待ってくれない。ものの数分であっという間に雪が積もり始めてしまった。


(清がいてくれてよかった)


 真っ白な光景に浮かぶ小さな精霊の姿は、はっきりと私の目に映る。視界が白く染まり始めても、それでも道を見失わないで済むのは清が先導してくれるおかげだ。


「見えてきた……!」


 やっとの思いで神社が見える場所まで辿り着くと、安堵で溜息を吐いた。ここからなら多少ペースを落としても無事家に帰ることが出来るだろう。


(洗濯物、大丈夫かなぁ。後で遥に怒られそう)


 離れの庭に干した洗濯物は、この雪できっとずぶ濡れになっていることだろう。故意ではなかったとはいえ、後々待っているであろう叱責を思うと、先程とは別の意味の溜息が漏れた。


『結衣!』


 突然自分を呼ぶ声がして、驚いて立ち止まった。姿は見えないが、声は木々の間から聞こえてきたように思う。きっと木霊だろう。


『こっちに来て! 男の子が倒れてるの!』

「え!? この雪山に!?」

『いいから早く! このままじゃ危ないんだ!』

「清!」

「うん。確かに気配がする。……弱ってるみたいだね。行こう」


 気配を察知した清が再び先導してくれる。その後を追っていくと、次第に白い視界の中に明らかに自然のものではない何かが視界に入ってきた。


「本当にいた……!」


 その少年は、木の太い幹にぐったりともたれかかって眠っていた。年は私と同じくらいだろうか。その瞳は苦しげに閉じられている上に、息も荒れている。素人の目で見ても、危険な状態であるとわかった。


「よい、っしょ、っとと……!」


 肩を貸して担ぎ上げようとするけれど、完全にぐったりと脱力した少年の体は想定以上に重かった。少年より体の小さい女の自分では、立ち上がらせることすら出来そうにない。


「手伝うよ」


 ポンッと音がしたと思えば、清の体が私と同じくらいの大きさにまで変化した。精霊である彼女は体の大きさを自由に変えられるらしい。

 彼女と協力して少年の体を持ち上げることに成功すると、ひとまず私たちはそのまま彼を神社まで運ぶことにした。


「ふう……、とりあえずはこれで大丈夫かな?」


 少年の体は外気ですっかり冷え切っていた。少年を離れへ運び込むと、溶けた雪でびっしょりと濡れた上着を脱がせ、 自分の布団に寝かせることにした。部屋の暖房と布団とで、少しは体を温めることが出来るだろう。


(服が濡れてなかったのは助かったな。流石に寝てる男の子の服を着替えさせるなんて出来ないし)

「ふわあぁ……」

「清、眠いの?」

「そうだね……」


 他に何をするべきだろうかと考えていると、清が大きな欠伸をした。目をこすりながら、体を元の小人サイズへと戻す。


「少し疲れた。……寝る。おやすみ」

「え? う、うん。おやすみ」


 言うが早いか、少年の枕元で横になると、清はスヤスヤと寝息を立て始める。


(体の大きさを変えるのは、負担がかかるのかな。だとしたら悪いことしたな)


 今まで清がその姿を変化させたところを見たことがない。そうすることで、体に負荷がかかるために控えていたのだとしたら。そう思うと、自分一人で少年を抱え上げられないが故に彼女に無理をさせてしまった、と申し訳ない心地になる。


「ありがとう、清。おやすみ」


 その頭を指先で軽く撫でると、私は部屋を後にした。




「ただいまー」


 お昼過ぎ。遥が作り置きしておいてくれた昼食を終え、洗い物をしていると、遥が帰ってきた。


「あ、おかえり。雪、大丈夫だった?」

「大丈夫じゃないわよー。外での撮影だったのに、寒いし天気悪いしで、別の日に延期になったわ。まあ、そのおかげで早く上がれたんだけど」


 不満そうに愚痴をこぼしながら、遥は沸かしたばかりのお茶を飲む。はぁー、あったまる~、と嬉しそうな遥の横顔は冷えて白くなっていた。


「ところで玄関に見慣れない靴があったけど、誰か来てるの? ジジ……おじさん? ……にしては若い子が履きそうな靴だったわよね。……もしかしてー、男の子連れ込んじゃった? やるわねー、結衣!」


 ここまで一息。ニヤニヤと楽しそうなその笑顔に対し、私は呆れて溜息を零す。


「わかってて言ってるでしょ。まぁ……連れ込んだ、ってのはあながち間違いでもないけど」

「あらやだ、この子ったらもう! 子どもだと思ってたけど、十五歳ならもう立派なオ・ト・ナってことなのかしら。きゃー!」


 緊急事態だったとはいえ、承諾もなしに家に運んだという意味では、的外れと言うこともない。

 そう思って遥の妄想の一部だけに同意したのだが、どうやらそれがいけなかったらしい。遥はますます笑みを深くして騒ぎ出してしまう。


(誤解を招くような言い方するんじゃなかった)


 ふざけているのだとわかっても、こうも騒がれるとうっとうしいものだ。両手で耳を塞いで遥に背を向けると、私は再び溜息を吐いたのだった。


「よ!」

「わぁ!?」


 すると突然、視界に逆さになった人の顔が入ってきた。よく目を凝らして見れば、それは私の布団で休んでいたはずの清だった。


「清、起きてたの?」

「今起きたとこ。んで、あの子も起きたぞ」

「! どんな様子だった?」

「軽く錯乱してる」

「は!?」

「うーん、まぁ、来てみればわかるよ」


 清の不穏な発言に一抹の不安が残る。


(でもまぁ、目を覚まして知らない場所にいたら、びっくりもするか)


 だがそれにしては〝錯乱〟という言葉がいささか引っかかる気もする。普通なら〝混乱〟していると表現するのが適切だろうに、あえてそう告げた理由はなんなのか。


「ねぇねぇ、どういうことなのー? 教えて、結衣ちゃん」

「わかったわかった、説明するからとにかく行こう」


 話に混ぜてほしい、とでも言うように遥が背後から覆いかぶさって来る。それを適当にあしらいながら、私たちは部屋を目指した。

 ――そして、先程抱いた疑問を、私たちはすぐに理解することになる。




「えーっと。あのー、入りますよー」

(自分の部屋なのに断りを入れるのって、違和感あるな)


 部屋の外から声をかけ、中の様子を伺う。何かが動いたような物音がしたけれど、それ以外に返答はない。


「沈黙は了承と捉える、ってことで! しっつれいしまーす!」

「あっ、ちょっと、遥! もう」


 どうしたものかと悩んでいると、遥は私の遠慮などお構いなしに襖を開いた。


「……」

「……」


 目の前に広がる光景に、私たちは言葉を失くした。

 でんと構えた部屋の中央には、こんもりと山を作る羽毛布団がある。私は遥と顔を見合わせると、無言で頷き合い、それに近付いた。


「……あのー」

「※◆×◎*△!!」

「うん。何言ってるかわからないから、それ脱いでもらっていい?」

「……!……」


 布団越しでは彼の声がはっきりと聞こえない。遥が瞬時に返答するも、彼は沈黙するだけで動かない。


「……結衣」

「……うん」


 このままでは、埒が明かない。遥に頷き返すと、私は布団を思い切り捲り上げた。


「どわっ!?」


 すると、布団はあっさりと剥がれ、中から体を小さく折りたたむようにしてうずくまる少年が現れた。


「か、返せ!」

「あっ! ……ってそれ、私のなんだけど」


 身を隠すものを奪われ、驚いたように目を丸くした少年は、私の手から無理矢理布団を取り上げると、再び体に巻き付けた。


「だ、誰だ!」

「家主だけど」

「家主!? お前、この妖怪屋敷に住んでるのか!?」

「は? 妖怪屋敷って……また随分な言い草だね。確かに古いけど、そんなに陰気じゃないと思うけど」


 少年の口から発せられた言葉に耳を疑い、つい返答に怒気を含ませてしまう。


(失礼な人。……でももしかして、参拝者が減って廃れ始めたせいで、そんな噂が出回ってるの? ううん、この子はさっきまで寝てたんだもん。ここが神社だってことも知らないよね)


 では、少年がこの離れを妖怪屋敷と表現した根拠は一体なんなのだろう。その疑問は意外なところから明らかになった。


「この家、何かいるだろ!」

「何か、って?」

「なんかこう……見えない何か、だよ! 気配がするかと思ったら、たまに笑い声みたいなのも聞こえるし、妖怪の類じゃないのか!? お前には聞こえないのか!?」

「え?」


 姿が見えない何か。気配、笑い声。妖怪ではないとしたら、それはもしかすると――


「そうだ。この子、私のことがわかるみたいなんだよ」


 頭に浮かんだ可能性を肯定するように、清が返事をしてくれる。少年を不審がらせないように声には出さず、目だけで清に合図すると、清はそのまま続けた。


「見えてはいないけど、察知してるっていうのかなー。具現化するだけの力がないだけで、私以外にも精霊はいるし。はっきり認識してるわけじゃなくて、精霊たちの噂話が耳に入った、ってところだろうけど」

「やっぱり何かいる!」


 清が試しに少年の目の前を飛んで通り過ぎてみると、少年は逃げるように体を後ろへ逸らす。ほらね、と両手を上げる清の顔はなぜか得意げだ。

 

(それならつまり、この子が錯乱したのは、精霊の気配に気が付いたからってことか。……ん?)


 少年の気が動転している理由に検討がついたと同時に、あることに気が付く。


「ってことは、アンタのせいじゃない」

「てへっ♥」

「てへっ♥ じゃないよ。まったく……」

「お前、誰と話してんだ……?」

「あ」


 しまった、と思った時にはもう遅い。清を認識できない彼の前で、つい声をだして清をいさめてしまった。みるみるうちに、少年の目が不審なものを見るような眼差しへ変わる。どうしたものかと固まっていると、隣からパンッと軽く柏手を打つ音が聞こえた。


「まあまあ。ここには確かにあなたが言うとおり、何かいるのかもしれないけど、まずはあなたが元気みたいでよかったわ」

「え、あ、おわ!?」


 気まずい空気を壊すように、遥が明るい声音で少年に語り掛ける。少年が狼狽するのもお構いなしに、少年の額へと手を伸ばす。


「うん、熱はないみたいね。体はどう? だるいところは、ない?」

「へ!? あ、はい……ないです……」

(おお! あれだけ騒いでたのに大人しくなった!)


 遥は曲がりなりにも、美形で売っているモデルだ。見目の整った異性に至近距離で見つめられれば、相当慣れていない限り目が泳ぐのも仕方ないだろう。


(まあ、男なんだけどね)


 それをわざわざ教えて、夢を壊す必要もあるまい。半ば温かい目で静かにその光景を眺めていると、不意に少年が気付いた。


「あ、あの……、も、もしかして……HARUKA……?」

「あらー、私のこと、知ってるの? 嬉しいー!」


 HARUKAとは、モデルとしての遥の名前だ。どうやら少年はHARUKAを知っていたらしい。モデルと言っても、全国区の雑誌なんてものには載っていないし、せいぜい地方誌レベルだ。それでも知っていると言うことは、少年がコアのファンか、HARUKAの知名度があがってきたということか。


「し、知ってるも何も、俺のクラスの男子がいつも騒いでたし! HARUKAは色気がヤバイって!」

「色気? あら、んふふ、ありがとう。でも、クラスの子がってことは、応援してくれてるのはあなたのお友達だけで、あなた自身は私に興味ないってことかなぁ? だとしたら……、残念だなぁ」


 自分のことを知っているということに調子づいたのか、遥は自分の魅力に揺らぎつつある少年に追い打ちをかける。 悲しそうに顔を伏せながら、目だけは少年の方を向けると、その視線に何を感じ取ったのか、少年は慌ててピンッと姿勢を正す。


「そそそんなことは! 興味なら全然あります! めちゃくちゃ美人で綺麗です!」

「ふふ、そっか~、ありがとう! HARUKA、嬉しいなー!」

(ああ……こうして一人、哀れな子羊がHARUKAの毒牙にかかってしまった……)


 心の中でこっそりと哀れみを向けながら、話を本題へ移そうと咳ばらいをした。


「ところで君、名前は? 家はどこ? あんな場所で何をしていたの?」

「待って、結衣。そんなに矢継ぎ早に質問したら困っちゃうでしょ」

「あ、そっか。えっと、私は紬喜結衣。とりあえず、君の名前を教えて」

「……」


 返答はない。


(あれ? もしかして無視?)


 少年の方を向くと、少年は再び不審なものを見る目で私を見ていた。余程警戒されているらしい。


「ね。あなたのお名前、教えてくれる?」

「は、はい! 植坂連(うえさかれん)、今年清ノ原高校の二年になります!」


 見かねた遥が尋ねると、少年改め連はハッとした顔をして瞬時に答えた。どうやら私には未だ警戒心があるようだが、遥に対してはないらしい。職業までは訊いていなかったが、私と同い年のようだ。


「そっか。 清ノ原高校ってことは、結衣の同級生だね~。結衣はこの春から 清ノ原高校に転入するの。これから結衣のこと、よろしくね」

「……え、そうなんですか?……まあ、……はい」

(こら、そこ!)


 遥の社交辞令に、連はちらりと私の方を見た後、露骨に嫌そうな顔をした。確かに連からすれば、何も無いはずの空間に話しかけた私は不審に見えるかもしれないが、そこまで嫌がられるようなことでもないだろう。随分と嫌われたものだ。


(はぁ、仕方ない)


 どうやら私の相手をする気はないようなので、ここは遥に任せて沈黙に徹することにする。


「ここに来るまでのことは覚えてる? あなた、雪の中で倒れていたそうよ」

「えっと確か……、紬喜山を登ってる途中に雪が降ってきて、まぁでももう春だし、大したことないだろ、と思ってそのまま登ってたら、雪が激しくなってきて、それから……」

「……そこからは覚えてない?」

「眠いなって思ったら、体が重くなってきて……」

「……そっか。怖かったね」

「! ……、……はい」


 遥が連の頭を撫でると、連は嫌がる様子もなくされるがままになる。心なしか、安心した表情になったように見えた。


(そうだ。連は雪山で倒れる、って怖い思いをしてたんだ。……私、事情を聞き出そうとしてばかりで、連くんの気持ちを慮ろうともしなかった)


 遥が当然のように連に配慮している姿を見て、はたと気付かされた。そんな怖い思いをした後に、見慣れない場所で目を覚まし、姿の見えない何かに囲まれていることに気が付けば、さらに恐怖を覚えてもおかしくない。


「……連」


 グッと決意すると、私は連の傍に膝をついた。


「ここは神社。……の離れで私の家。私は神子……見習いで、遥は私の教育係なの」


 まずやるべきは、連の事情を聞き出すことではなく、連を安心させることだ。そのためには、連が疑問に思っていることに回答する必要がある。


「君が感じている〝何か〟の気配っていうのは、勘違いじゃない。その正体は、この神社に昔から住んでいる精霊だよ」

「精霊……?」

「……結衣」


 遥は注意をするように、静かに私の名を呼んだ。一般人である彼に神道にまつわる話をするのは、褒められたことではないだろう。けれど、それを承知の上で、私は連を納得させたいのだ。

 そして、その甲斐あったのか、今まで私の言うことを無視してきた連だったけれど、ついには私の方を向いて返事をしてくれた。そのことにほっとしながら、話を続ける。


「そう。全ての大地や自然には、魂が宿っている。それらが長い年月をかけて力をつけ、形作られるようになると、精霊になる。ここにいる精霊たちは、私たち神職の者と共に暮らし、力を分けてくれているの。君が倒れていることを私に教えてくれたのも、木霊って言う精霊の一種。悪事には関わらないし、いい子たちばかりだよ。例えば……清」

「はいよ」


 名を呼ばれた清は、少年の目の前をサッと通過した。その拍子に、連の前髪が風に揺れる。


「おわっ!?」


 連は驚いたように前髪を手で押さえた。その様につい笑みが零れる。


「今、何かいたな!? ……魔法か?」

「魔法って、違うよ。今のは、精霊の清が君の目の前を通ったの。ほら、今も君の目の前にいる」

「やぁ、少年。私がわかるかな?」


 清は手をあげて挨拶しながら、連の顔を覗き込むようにじっと見つめている。が、対する連は清の姿は見えないらしく、目を凝らしながら不思議そうに首をひねっている。


「でも、普通の人には彼らの姿や声はおろか、気配だって察知できないはず。……ねぇ、君は神道を志しているの? もしくは、家族に神職がいるとか」

「いや。俺、そういう宗教的なのはサッパリ。親も無宗教だしな」

「そっか。……そこが不思議なんだよね。彼らを認識できるのは、神道に関わる者だけのはず。気配だけとはいえ、どうして君は認識できているんだろう……」


 本人や直近の家族が神道を信仰しているわけではないのだとすれば、遠い祖先にでもいるのだろうか。理由を考えてみるが、心当たりが見つからない。


「なぁ、聞いてもいいか?」


 頭を捻っていると、連が口を開いた。先程までの嫌悪感のようなものは見受けられない。どうやら恐怖心を取り払うことには成功したようだ。


「なに?」

「お前、さっきここが神社だって言ったよな。それって、紬喜神社のことか?」

「そうよ。正しくは、紬喜神社の離れだけどね」

「本当か!?」

「うわっ!?」


 掴みかからんとする勢いで、連が近付いてきた。反射的に上体を後ろに反らしたが、気付けば両手首を掴まれている。


「俺、ここに来たかったんだよ! 山道は長いわ雪は降って来るわで、本当に辿り着けんのかと思ったけど、そうか、ここが紬喜神社か。倒れて目冷ましたら目的地って、はー、俺ラッキー!」

「……」

「……」


 今まで大人しかった連はどこへ行ったのだろう。遥と二人、今日一番のテンションの上がり様についていけない。


「なぁ、ここって何でも願い叶えてくれんだろ!? 俺の願い、叶えてくれよ!」

「は……、はぁ!?」


 何の脈絡もない突然の依頼に、素っ頓狂な声があがってしまった。けれど連はそんなことなどお構いなしに、私の両手首を握る力を強めながら迫って来る。


「なぁ頼むよ。俺、本当に困ってんだ。ここって縁結びの神社で有名なんだろ? だったら、俺の願いくらい簡単だって!」

「そ、そんなこと急に言われても、全然簡単じゃない……」

「頼む! この、とーり!」


 ようやく手を解放してくれたかと思うと、連はパンッと音を立てて祈るように顔の前で合掌した。


「……」


 どことなく必死さを感じさせる連の様子に私は――


「無理」


 彼の頼みを一蹴した。


「え」


 呆気にとられる連から視線を逸らし、簡潔に理由を答える。


「今は縁結びの依頼は受けてないの。休業中」

「は? なんで」

「……、糸結びの術を行う神子は私のおばあちゃんなんだけどね、少し前から療養してるの。私たちはその留守を預かってる身。何も出来ないよ」

「でもお前、さっき自分は神子見習いって言ってなかったか? 見習いなら、その糸結びの術?っての、出来んじゃねぇの? それか、見たことくらいはあんだろ?」

「……そりゃあ、見たことはあるけど」

「じゃあさ! 見よう見まねでいいから、やってみてくれよ! 〝失敗〟しても文句言わねぇし! 頼む!」


 連は床に手を付いて頭を下げてきた。いわゆる土下座と呼ばれる体勢だ。


「――っ!」


 そこまでするのだ、連には余程の事情があるのかもしれない。彼の姿を見れば、頭ではそう理解できた。

 ――けれどその姿以上に、彼の言ったある言葉が、私の頭の中を支配してしまった。


「……し、っぱい……」 

「――、結衣!」


(……声がする)


 ――『結衣ちゃんのせいだ』

 ――『酷い、酷いよ』

 ――『……嫌い。結衣ちゃんなんて、大嫌い!!』


 頭がぐるぐると回っているのがわかる。記憶か、思い出か、意識していないのに勝手に何かが蘇って来る。


(嫌……、私を、呼ばないで。やだ……やだ……!)


 頭が痛い。ガンガンと鳴り響く声がうるさい。これ以上は、考えたくない。


「結衣!」


 ハッと気が付けば、目の前に遥がいた。その奥では、連が膝をついたままの姿勢で、不思議そうな顔で私を見ている。


「あ……」


 肩に触れた遥の手の温度が伝わって来る。いつの間にか冷えていた体が、そこから少しずつ熱を持っていくのがわかった。


(そうだ……これだ……)


  私が夢を、神子の道を離れた原因ともいえる出来事。思い出さないようにと、自分を守るために被せていた記憶の蓋が、少しだけ開いてしまった。


「……ごめん。私には、無理だから」

急に頭を抱えて黙りこくった私を、連はさぞ不審に思っていることだろう。彼の顔を見ることも出来ず、それ以上その場にいることが居たたまれなくなると、それだけ吐き捨て、遥が止めるのも無視して私は部屋を飛び出した。




あれは、私の〝失敗〟の記憶だ。その出来事は、神子見習いとして修行し始めて暫く経った頃、まだ私が小学六年生であった時に起きた。


「ねぇ、紬喜さん。……お願いが、あるんだけど」

「なぁに?」


ある日、私が神子であると知ったクラスメイトの女の子に、好きな男の子との縁を結んでほしいと頼まれた。血縁のおかげか、幼く修行中の身とはいえ、神子としての能力が開花していた私は、快くそれを引き受けた。

それまで依頼など受けたことはなかった。けれど、力試しだとでも思っていただろう。自分の力を過信していた私は、何の問題もなく達成できるだろうと考えていたのだ。

そしてそれを裏付けるように、結果は――成功だった。

 術の力により、彼女と目当ての男の子との間に縁が結ばれた。学校からの帰宅途中に偶然出会ったことがきっかけで仲良くなり、席替えのくじ引きを引けば隣同士、休みの日には外でばったり出会い遊び――そんな偶然が積み重ねられ、最終的には男の子からの告白を受け、彼女たちは付き合うこととなった。

 それだけならばよかったのだ。けれど、話はこれで終わらなかった。


「……結衣ちゃん、術をかけたって、本当?」


 それから数日後のこと――、仲良しの女の子が暗い顔をして私に詰め寄ってきた。


「どうして? ……私、彼のことが好きだったのに!!」


 怒りと悲しみで顔を真っ赤にした彼女の目からは、涙がとめどなく流れ落ちていた。


「彼が元々あの子を好きだったなら、私も諦められたよ! でも、違うんでしょう? 結衣ちゃんが二人に術をかけたから、だから彼はあの子を好きになったんでしょう!?」

「そ、れは……」


 私のかけた術は、人の感情を操作するようなものではない。あくまで、縁を結ぶもの。いくつもの偶然を生み出しはするものの、結果として結ばれるか否かは、本人たちの行動や想いに委ねられるのだ。

 けれど、当時の私には術の効果についての詳しい知識がなかったし、仮にそれを説明できていたとしても、彼女には伝わらなかっただろう。


「結衣ちゃんのせいだ」

「え……?」

「酷い、酷いよ。結衣ちゃんが、全部悪いんだ」

「そ、そんな言い方……!!」

「……嫌い。結衣ちゃんなんて、大嫌い!」

「……っ!」


憎悪の籠った目で私を睨みつけ、彼女は走り去っていく。それを追いかけることも出来ず、私はその背を見送るしか出来なかった。彼女からぶつけられた心の叫びは、私の心の奥深くへと突き刺さってしまったのだから。


「えー? それほんと?」


その帰り道、重い足を引きずりながら歩いていると、通りがかった公園から聞き覚えのある声が聞こえてきた。なんとなく嫌な予感がして茂みから覗き込んでみれば、私が願いを叶えてあげた女の子と、彼女がいつも一緒にいる女の子たちがいた。


「紬喜さん?になんか頼んで付き合い始めたんでしょ? もう別れたの?」

(え……?)

「そ。かっこいいなーと思って付き合ってたけど、付き合ってみたらもうほんとつまんなくて。いーっつも野球の話しかしないの。私、全ッ然興味ないのに! あーあ、どうせならもっとかっこよくて面白い男の子と縁結んでもらったらよかった!」

「――っ!」


 それ以上は、聞いていられなかった。逃げるようにその場を走り去る。


(私がしたことって……!)


 ただ、願いを叶えただけだ。望みを叶えてあげようと、自分の力試しをしようと思っただけだった。そして、それは成功したはずだった。

 けれど、叶えたはずの願いはあっさりと捨てられ、術の対象となった男の子を無駄に巻き込み、さらには自分と仲良しの女の子を傷つけるという、最悪な結果に終わってしまった。


――『……嫌い。結衣ちゃんなんて、大嫌い!!』


(やめて……やめて……!)


 自分の力を過信し、誤った判断をした私を責めるように、彼女の声が頭の中でこだまする。


(私はただ願いを叶えただけ! 私は……私は悪くない!!)


 必死で自分に言い聞かせても、彼女が私を責め続ける。けれど、自分でもわかっているのだ。自分が彼女を傷つけたのだと。自分の身勝手な行動で、彼女を悲しませたのだと。

 翌日から彼女は学校に来なくなった。彼女の家を訪ねても、会いたくないと言っていると彼女の母から門前払いを受け、彼女には会えない。

 あの時聞いた通り、私に依頼してきた女の子が再び依頼に来たけれど、力が使えなくなった、と言ってお断りした。これは嘘でも方便でもなく本当だった。あの日から、全く使えないわけではないけれど、上手く術を練ることが出来なくなってしまったのだ。


「ストレス……かねぇ」

「……ストレス?」


 祖母からは、心因性だろうと言われた。心に乱れがあると、術は発動しないのだという。祖母は私を労わってくれ、無理をしない程度にと修行を見てくれていたが、とうとう耐えきれなくなった私は、神子の修行を休止することになった。そして、嫌な記憶を想起させる環境から離れた方がいいだろうということで、東京で単身赴任している母の下で暫く暮らすことになったのだ。

 こうしてこの土地から逃げるように去った私は――彼女に謝ることが、とうとう叶わなかった。




「結衣」


 遥の声に、体がぴくりと反応した。丸めていた体から力を抜いて顔を上げると、扉から差し込む光に目が眩む。遥は一つ息を吐くと、この薄暗い本殿の明かりをつけ、うずくまる私の傍の壁に背を預けた。


「落ち着いた?」

「少し。……あの子は?」

「ちゃんと送り届けたわよ」

「……そっか」


 気がかりが無事片付いたと知って安心したのか、自然と乾いた笑いが零れた。それと同時に、何か重たいものが胸にのしかかる。


「……悪いことしちゃったな」


 連はあの雪の中、願いを叶えてほしくてここまでやってきたと言う。きっと心から叶えてほしい願いがあったのだろう。そうでなければ、雪が酷くなる前に引き返し、決して遭難などしなくて済んだはずだ。


「連の目、真剣だった。顔は笑ってた癖に。本当に、困ってたのかも」

「そう思うなら、話だけでも聞いてあげたらよかったのに。……まぁ、そう思う前に〝ああ〟なっちゃったのかもしれないけど」

「……聞いたところで、私には何も出来ないよ」


 私の吐き出すような呟きに、遥は、そうね、と短く答えた。そう、私には何も出来ない。話を聞いて力を貸すことも、神子として務めを果たすことも、何も。

 私が〝ああ〟なるのは今に始まったことではない。時折、ふとした拍子に〝声〟が聞こえるのだ。自分を非難する声が、拒絶するような言葉が。そうなると私は、考えることも、身動きを取ることも出来なくなってしまう。その度に、必死でその記憶を頭の隅へと追いやるのだ。


「……」


 遥は何も言わず、ただ腕を組んでどこかを見つめている。何か考え事でもしているのだろうか。

 遥は私の〝あれ〟の原因を知らない。聞かれたこともない。遠慮されているのか、はたまた興味がないのか。日常生活において注意を受けることはあっても、触れてほしくない部分に干渉してくることはほとんどない。そしてそんな遥の対応に、私も少なからず助けられている。

 だが、深くまで干渉されないということは、今のように気分が沈んでいる時にも励ましてもらえないということ。 だからこうして黙って、私の出方を見ているのだろう。


「ねぇ、遥」

「なに?」

「……どうしたら、いいと思う?」

「結衣はどうしたいの?」


 どうしたらいいのか、遥はきっと知っている。だが遥は自ら答えを教えてはくれない。甘やかしてはくれないのだ。

 けれど、 こうして傍にはいてくれる。突き放しはしないが、救いの手を差し伸べもしない。 自分で考え、自力で立ち直るよう促す。それがきっと、遥の教育論だ。


「……困っているなら、助けてあげたい」

「そう。それには、まず何をしたらいいと思う?」

「急に飛び出したことを謝って……、それからどんなお願いをするつもりだったのか、聞く」

「……聞いてどうするの? 何も出来ないんじゃなかったの?」

「神子としては……出来ることは、少ないと思う。でも、私個人としてなら、何か出来ることが、あるかもしれない」

「何かって? あんた個人が出来ることも、たかが知れてるんじゃない?」

「それは、……願いを聞いてみないことにはわからないし、聞いても出来ることはないかもしれないけど……。なんだか放っておけない」

「それはどうして? あんたと連くんは今日会ったばかりじゃない。あんたが力を尽くす必要なんてある? 倒れまでしてここまで来た連くんに、同情でもした?」

「そんな言い方――!」


 座った姿勢のまま、顔だけを遥の方に向けると、遥は楽しそうに笑っていた。

 ――遥は私を試している。そんな気がした。


「同情する必要なんてないのよ。連くんが倒れたのはただの自業自得。いかに尊い目的があったとしても、目標だけに目を向けて足元が疎かになっていては、叶うものも叶わない。そんな人間のために手を差し伸べてあげる義理は、初対面のあんたにはないんだから」

「……そうだね」


 遥は連のことをバッサリと切り捨てる。確かに遥の言うことは正しい。目標があっても、 達成するまでの過程において、道半ばで倒れては意味がない。全てに言えることではないが、ことによっては、達成できないだけでなく、それまでの努力までも水の泡と化すこともあるだろう。そういう意味では、連は自力では神社へ辿り着けなかったものの、途中まで来ていたおかげでこの場所に到達できたため、努力が無駄にならなかったと言える。


「確かに、私が連を助けてあげる義理は、ないと思う。でも、でもね」


 自分の手首へと視線を落とす。この本殿は時期も相まって少々肌寒い。部屋を飛び出してからというもの、両腕は血の気が引いてすっかり白くなっていた。そしてその白い手首には、くっきりと赤い手の痕が残っている。これは、連に願いを叶えてほしいと懇願された時についたものだ。まだ痕が残っているとは、一体どれほどの力で握っていたのだろう。

 ――だがその痕のおかげで、決心がついた。


「助けを求めてここまで来てくれた人を、見捨てることなんて出来ないよ。……後悔、したくない」


 どうしても叶えてほしいと告げた連の姿を思い浮かべる。元々明るい性格なのか、顔は笑っていたけれど、瞳は笑わず至って真剣だった。あの姿を見て、見て見ぬふりをするということは、私には出来そうになかった。


「……、そう」


 私の返答を聞いた遥の顔は、小さく笑っていた。


(……あれ?)


 遥の姿に違和感を覚える。が、それも一瞬のこと。遥は唇の笑みを深くすると、両手をパンッと叩いた。


「さて、 今日はもう日が暮れるから、これ以上は明日ね。やることは決まったし、少し早いけどお夕飯の支度始めよう。手伝ってくれる?」

「あ、うん。今日は何にするの?」

「今日はねー、いいお肉が入ったからとんかつにしようかなーって」

「お、とんかつかー。いいね、食べたい」

「そ。明日は頑張らないといけないしね。体力つけないと!」

「あはは、考えが体育会系だよ」


 今日の夕飯について話しながら、遥は楽しそうに笑う。


(……気のせい、かな? さっき、寂しそうに見えたんだけど)


 小さく笑った遥の表情。笑っていたはずなのに、その瞳はなぜだか寂しそうに揺れているように見えたのだ。

 けれどこうして改めて見ても、そんな様子は一切感じられない。一瞬抱いた違和感は、やはり勘違いだったのだろうか。


(ま、いいか。笑ってるし)


 わざわざこの楽しい空気に水を差すようなことを聞く必要はないだろう。深く考えることをやめると、足取り軽くキッチンへと向かった。




 翌日。遥の運転する車に乗って、私たちはとある家を訪れていた。緊張を深呼吸で和らげると、インターホンを鳴らす。はーい、という若い女の人の声が聞こえたと思えば、玄関の扉が開かれた。


「ん、どちらさま?」


 現れたのは、二十歳前後の若い女の人だった。邪魔なのか、髪は緩く縛ってあるが、あまり整っていない。化粧はされておらず、上下ジャージ姿と、なんとも気の抜けた格好だ。


(……お姉さん、かな?)


 一瞬家を間違えたかと思ったが、表札の名前は確認したし、昨日遥がこの家の前まで訪れている。緊張しながらも、口を開く。


「あの、連……くん、いますか?」

「ああ! 連の友達? 悪いねー、今あいつ出掛けてんだわ」


 どうやら間違えてはいなかったようだ。しかし、目的の人物は残念ながら外出しているらしい。

 そう、私たちは連の家にやってきたのだ。目的はもちろん、連の願いの内容を聞くため。入れ違いにならないようにと、迷惑にならない程度に早くに訪問したつもりだったが、既に遅かったようだ。


「何か用事? なら呼び出してやるよ」

「え? そんな、私たちの勝手な都合で来ただけなので……」

「あ、もしもし、連? 女の子がお前に会いに来てんぞ。それも二人。お前高校入学前に色気づいたか? アッハッハッ、ようやくモテ期到来か。よかったなー!」


 女性は私の静止も聞かず、すぐさま携帯を取り出し電話をかけてしまう。あろうことか、話は明らかに脱線しているし。電話先の本人からすれば恥ずかしい以外の何物でもないだろう。少しだけ連が哀れに思えてきた。


「すぐ帰って来るって。ここじゃなんだし、中入んな」

「あ、ありがとうございます」

「まぁ、ありがとうございます。助かります」

「ていうか、あんたもだけど、特にあんた! えらいべっぴんだなぁ。つーか、どっかで見たことあるような……」

「まぁ、ふふ。ありがとうございます」


 女性に促され、家に上がらせてもらうと、居間に通された。広いとは言えないが、整理整頓が行き届いているらしく、落ち着いた空間だ。


「これは……」


 ふとサイドテーブルに視線を向けると、そこにはいくつかの写真立てが並んでいた。赤ちゃんの写真や、遊園地で撮ったらしい写真など、様々ある。


「ああ、それね。恥ずかしいからあんまり見ないでほしいなぁ」

「子どもの頃の写真ですか? 可愛いですね」

「だろー? あいつさ、今でこそあたしよりでっかくなってクソ生意気だけどさ。それくらいのときは、ホンット可愛くて仕方なかったんだよなー。お姉ちゃんお姉ちゃんってついて回ってくんの。可愛いのなんのって、なぁ?」

「あはは。連くんも可愛いですけど、お姉さんもすごく可愛いですね」

「アッハ! あんた、いい子だな~。あたしはこんなだし、可愛いなんてガラじゃなさすぎってけど。言われんのは嬉しいぞ! ありがとな、じょーちゃん」


 わしわしと豪快に頭を撫でられる。その顔はほんのり赤みを帯びているし、どうやら照れ隠しらしい。


「あら、この写真の猫ちゃん、可愛いですね」


 遥が指さした写真には、黒猫が映っている。黒い体毛に、橙色の瞳がよく映える。


「ああ、そいつな。クロっていうんだ。真っ黒だからクロ。そのまんまだろー? 昔、連が拾ってきて、そのままうちで飼うことにしたんだ」

「クロちゃんっていうんですね。可愛い~。この子は今どちらに?」

「あー……クロな」


 遥が尋ねると、お姉さんは言いづらそうに言葉を濁す。


「今いないんだよ」

「えーっと、お散歩中ですか?」

「あー、いや……散歩って言やぁ、散歩なんだろうけど」


 完全な室内飼いでないのであれば、外を出歩くことも多いだろう。と思って聞いたのだが、お姉さんはやはり歯切れが悪い。詳しく聞こうと口を開きかけたそのとき、玄関の扉が開く音がした。そのままドタドタと慌ただしい足音が近付いてくる。


「ただいまっ!!」

「静かに帰ってこい!」

「グハァッ!!」


 勢いよく居間に入ってきた連に対し、お姉さんはその腹部に蹴りを入れる。蹴りの勢いで吹き飛んだ連は、大きな音を立てて床に倒れた。


(お姉さんの蹴りのせいで、もっと騒々しくなったんじゃ……)


 とは、口が裂けても言えそうにない。

 姉弟のやり取りに呆然と目を奪われていると、お姉さんはくるりと反転させ、居間を出ていこうとする。


「長いこと話聞かせて悪かったね。んじゃ、あたしはこの後用事があるんで。またね、べっぴんさんたち」

「え? あ、はい。こちらこそ、ありがとうございました!」


 背を向けたまま手を振ると、 何の後腐れもなく お姉さんは颯爽と部屋を出て行った。ただ強いていえば、猫のクロちゃんの行方について知れなかったというくらいだ。お姉さんはただ客の応対をしていただけなのだろう。彼女がいなくなると、入れ違いに連が入ってきた。


「いってぇ……あのクソ姉貴、思い切り蹴りやがって……」

「大丈夫? 結構大きな音してたけど……」

「まぁ慣れてるし。それより、わざわざ来てくれたのに、待たせて悪かったな」

「ううん、こちらこそ何の連絡もなく突然来てごめんなさい」


 といっても、連の連絡先で知っているのは、連の住所くらいだったのだから、他にどうしようもなかったのだが。


「……ってそれより、なんでそんな泥だらけなの?」


 見れば、連の服や体が所々砂や泥で汚れている。転んだか、激しい運動でもしなければ、ここまで汚れることはそうないだろう。


「あぁ、これか? いつものことだから気にすんな!」

「いつものことって。連は一体何をしているの?」

「んー? そうだな……。それについて答える前に、聞いてもいいか?」


 連は一瞬口を開くも、すぐに飲み込むように口を閉じた。あたかも、答えを知る権利が、私にあるかを推し量るかのように。


「なに?」

「お前は、……二人は、何の目的があって俺を訪ねて来たんだ? ……もしかして、俺の願いを聞く気になったのか!?」


 連の瞳は、昨日と同様、真剣そのものだった。今日は笑顔もない。曖昧に誤魔化す気はないということなのだろう。

 彼が真剣ならば、私にそのようにえるのが適切だ。私は小さく息を吐くと、連に向き直った。


「私はあなたの話を聞きに来た」

「話?」

「うん。あなたの願いは何か。どうしてそれを望むのか。知りに来たの」


 緊張で喉が渇いてきたのを感じる。けれど、伝えなくては。昨日うやむやにしてしまったことを、今度こそ誠意をもって対応する気があるのだと。


「あなたの願いを叶えられるかはわからない。けど、出来ることなら力を貸したい。……私は、紬喜神社の神子見習い、だから」


 自ら口をついて出た言葉に驚く。今この時、初めて私は自覚出来たような気がしたのだ。――自分が神社の跡取りであり、神子なのであると。


「……、わかった」


 短い沈黙の後、連は小さく頷いた。


「叶えられないかもしれないってことはよくわかった。それでも、お前が知りたいって思ってくれたことも」

「……うん」

「わかった上で、改めて頼む。……聞いてくれるか。俺の、願いを」

「……! うん!」


 強張っていた連の表情が、穏やかなものに変わっている。ほっとしたような笑顔に、私は力強く頷いた。




「俺には、小さい頃から一緒にいる友達がいるんだ。まぁ、友達って言っても、猫なんだけどな」


 連の視線が、写真立てに向けられる。そこには連と思われる小さな男の子と黒猫の姿がある。


「それって、クロちゃんのこと?」

「あぁ、もしかして姉ちゃんから聞いてた? そう、クロ。幼稚園くらいの時だったか、庭で遊んでいたら、鳴き声が聞こえてな。どこから聞こえてくんのかと思って探し回ったら、軒先で震えてたんだ。秋の終わりくらいだったか、冷え込み始めたくらいだったし、寒かったんだろうな。 ススだらけで真っ黒に汚れていたから、嫌がるクロをなんとか風呂に入れて洗ってやったんだけど、クロは真っ黒いままで。まぁ要するに、黒猫だったってことなんだけど、あの時はススのせいだと思っていたから、なかなか汚れが落ちねぇなぁ、なんて思ってたよ」

「ふふふっ、黒猫を見たのは初めてだったのかしら。困った顔の連くん、想像したら可愛いわね」

「か、可愛くなんかないですよ! ただのガキでしたし! まぁとにかく。親や兄弟とは何かの理由で別れたのか、軒下にいたのはクロ一匹だけだったんだ。食事を取れていなかったのか、細くやつれていて……。そんなあいつを放っておけなくて、結局飼うことに決めたんだ」


 懐かしそうに出会いを語る連だったが、その目が悲しげに伏せられた。ただそれだけで、クロちゃんがいかに痛ましく頼りない姿をしていたのか伝わって来る。


「それからは本当に大変だったんだ。なかなか人に慣れなくてご飯はほとんど食べないし、近付こうとすれば威嚇してくるしで、手に負えなくて。引っかかれたり噛まれたりしたことなんか、そりゃあもう何回も」

「うわぁ、それは確かに大変そう……」

「ご両親からすれば、幼いお姉さん、連くんに加えて、もう一人子どもが出来たようなものだったでしょうし、苦労なされたでしょうね」

「はははっ、それは俺も思っていたみたいです。人に慣れてきた頃には、クロと俺たち姉弟で両親の取り合いなんかにもなっていたみたいなんで」

「ふふふっ、お子さんとクロちゃんに好かれて、ご両親も幸せな苦労をされていたのね」

「そうッスね。まぁそうやって、喧嘩なんかもしつつ、家族で過ごしていたわけなんですけど、最近になってクロがちょくちょく姿を消すようになったんです」

「え?」


 楽しそうだった連の表情が、寂しげなものに変わっている。どうやらここからが本題らしい。姿勢を正すと、連に向き直る。


「初めは、彼女でも出来たのかなー、とか思ってたんですけど、日に日に外出する時間が長くなって……。それまで、長くても一日二日で必ず帰ってきていたのが、もう二週間も帰ってきていないんです」

「二週間も!? 警察には届け出たの?」

「あぁ。姉ちゃんに調べてもらって、保健所とか動物愛護センターとか、必要なところには連絡してる。あと、友達や近所の人にも協力してもらって、手分けしてクロが行きそうな場所を探したり、広い範囲でポスターを貼って回ったりもしたんだけど、姿を見るどころか情報もほとんど入ってきてない」

「もしかして、今日も朝から?」

「あぁ。土手の方まで行ってたんだけどな。見つかんなかったよ」


 服が泥だらけになっていたのは、どうやらそれが原因らしい。くまなく探し回っていれば、汚れるのも当然だろう。連はきっとこれを、毎日続けているのだ。見つかる保証もないまま駆けずり回る日々で、どれほど神経をすり減らしているのだろう。連の気持ちを思うと、胸の内が苦しくなってくる。


「事故に遭ったんじゃないか、誰かに連れ去られたんじゃないかって不安で仕方なくて。そしたら一昨日、友達が家に来て、そこの紬喜山には〝何でも願いを叶えてくれる神社〟がある、って話を聞いたって教えてくれたんだ」

「それで昨日、お願いをしに紬喜山に入った、ってこと?」

「あぁ。まさか雪に降られて倒れるとは思ってなかったけどな」


 冗談めかして連は笑う。けれど、その目は明らかに笑っていなかった。


「……大切な家族がいなくなるだなんて、本当に、……、辛かったわね」

「遥さん……、ありがとうございます」


 震えたような声に、はたと隣を見れば、遥は悲しそうに顔を伏せていた。自分のことではないはずなのに、辛そうに眉間に皺を寄せている。


(そうだ。大切な人を失くす痛みは、遥だって、私だって知っているじゃない)


 二ヶ月前、祖母は病に倒れた。数年会っていなかったとはいえ、遠くにいるときでも大好きな祖母であったことに変わりはない。そして、祖母は遥にとっては仕えていた主人だ。遥にとっても、大切な人なのだ。きっと遥は、連に自分を重ねて悲しんでいる。


(おばあちゃんだったら、こんなときどうする?)


 連は既に、自分に出来ることを全て行っている。友人や知人、公的機関に協力を要請し、自らの足で探し回っている。これからただの高校生である自分が混ざったところで、出来ることはたかが知れている。

 ならば、ただの高校生ではなく、〝神子〟としての自分には何か出来ないだろうか。


「……遥」


 考えろ。神子なら出来ることを。尊敬する祖母であれば、何をするかを。


「……糸結びの儀」

「え?」

「私に出来ると思う? 遥」


 糸結びの儀とは、その名の通り縁を結ぶための儀式だ。人と人だけでなく、動物や植物、はたまたその土地との間の縁を取り持つ力を持っている。この儀式であれば、連とクロちゃんとの間を繋ぐことが可能なはずだ。


「……、えぇ」


 恐る恐る、けれど真っ直ぐに遥を見つめれば、一瞬驚いたような表情をした遥も、しっかりと首を縦に振ってくれる。


「あんた、誰の教育を受けていると思ってるの? こんなときのために、みっちり仕込ん出来たんだから」


 力強い遥の笑みは、不安な私の心を鼓舞してくれた。


「そうと決まれば。連くん、悪いけど今から、あなたの時間を少しもらえるかな?」

「え? それって……」

「……連。きみの願いは、私たちが叶えてみせる。……必ず」

「……! ありがとう! よろしく頼む!」


 正直を言えば、確実に叶えられる自信はない。けれど、絶対に叶えてあげたい。自分に言い聞かせるようにはっきりと連に伝えると、連は嬉しそうに笑った。




「おかえり。待ってたぞ~」


 車を遥に任せ、先に本殿に入った連と私を出迎えてくれたのは、清だった。だがその清の姿がいつもと少し異なっている。


「……清、大きくなった?」

「お、気が付いたな。お前たちが戻って来るまでの間に、精霊たちから霊力を集めておいたんだよ。そしたらこうなった」


 普段は手に乗る程の大きさの清だが、今はその倍くらいの大きさになっている。


「集めておいたって……」

「糸結びの儀、するんだろ?」

「え?」


 なぜ清がそれを知っているのだろう。呆気に取られていると、悪戯が成功した子どものように、清はニヤニヤと笑った。


「私はこの紬喜山筆頭精霊だぞ。天下の清様が知らないことなんて、あるはずないだろう?」

「でも、儀式を行うって決めたのは、連の家だよ。山から離れてるのに、どうして?」

「山から周辺地域までが私の管轄だ。その範囲では全てが私の管理下にある。それに、そもそも誰がお前とあの子を引き合わせたと思ってるんだ?」

「え?」

「昨日、山道を走れと言ったのは誰だった?」


 昨日の出来事を思い出す。いい天気だから走り込みをしろと言ったのは、遥だった。体力づくりは修行の一環だ。昨日が特別だったわけではない。いざ走り込みをしようとしたとき、確かに清に訊かれた覚えがある。


 ――せっかくだから、山道に出たら? 巡回も兼ねてさ。


「でもあれは、木霊に挨拶するためだって……」

「あんなの建前。もちろん挨拶回りも神子の大事な務めだけど。それ以上に、昨日は重要な縁との出会いがあるってわかってたから薦めたんだ」


 清がちらりと私の後ろを見た。そこには不思議そうな顔の連がいる。


「つまり、清には全部お見通しだったってことか……。流石は精霊様ですねぇ」

「そ。わかったら私を敬いたまえよ」

「はいはい」


 清との話を終えると、連の方を振り返る。彼は何かを探すようにキョロキョロと辺りに視線を向けていた。


「そこに精霊がいるのか?」

「うん。気配がする?」

「あぁ。何かいる、気はする。悪い奴じゃないんだよな?」

「うん、もちろん。これからすることに、清も力を貸してくれるよ」

「そうか。……精霊様、よろしくお願いします」


 連は深々と頭を下げる。なんとなく察知しているのか、彼の正面には確かに清がいる。清は満足そうに頷くと、連に向かってニカッと笑った。


「それじゃあ準備してくるから、暫く待ってて」

「あぁ、わかった」


 本殿に連を残し、私は自室に戻る。箪笥を開けて取り出したのは、真新しい白衣と緋袴の神子装束だ。神子装束を着るのは、四年ぶり近いが、今の背丈に合わせて新調されたこれを着るのは、全くの初めてだ。

 緊張しながら襦袢を身に着け、白衣の袖に腕を通す。滑らかな布地が肌をこする感触が気持ちいい。白衣を着ると、次に緋袴に手を伸ばす。


「よかった、忘れてない」


 着替えを終えると、自分の姿を改めて確認する。身に着けるのは久しぶりだが、手間取ることなく着付けることが出来たようだ。装束を身にまとうと、気が引き締まる心地になった。


「……よし、行こう」


 これから私は、神子として儀式を執り行う。深く息を吐くと、再び本殿へと戻った。




「お待たせしました」


 本殿に戻ると、その中央で連が座っていた。その傍には、清と藍色の袴姿の遥がいる。どうやら先に着替えを終えて待っていたらしい。彼らの前までやってくると、私は静かに膝をついた。


「それでは、糸結びの儀を執り行います。媒介を」

「あ、あぁ。これでいいんだよな?」


 連は手に持っていたものを差し出して来た。猫の首輪だ。これは、いなくなる前まで身に着けていたものらしい。この首輪を媒介に、連とクロちゃんの縁を結ぶ。


「お預かりします」


 慎重にそれを受け取ると、連と私の間に置いた。


「……」


 緊張で手が震える。本当に、術を発動できるだろうか。成功、するだろうか。

 ちらりと周りを見れば、遥が安心させるように私を見つめ小さく頷き、清が私を元気づけるようにニカッと笑った。


(大丈夫。大丈夫よ。私は一人じゃない。それに気持ちは前を向いてる。……いける)


 胸の前で両手を合わせ、静かに息を吐くと、正面を向く。そこには、緊張した面持ちの連がいた。この目の前の彼のために、私は必ず儀式を成功させてみせる。


「……始めます」


 合わせた両手を離すと、床に置いた首輪に触れた。連の後ろで遥も同じように両手の指を床につけ、清は連の頭上で両手を合わせている。


「……共に刻むは青き時。紬ぎ描くは赤き縁」


 祝詞と呼ばれる呪文を唱えると、指先がぽうっと淡い光を発し始めた。うまく霊力を混ぜ込めているらしい。ここまでは順調だ。


「深きに潜む彼の物の、眠る記憶を呼び覚ませ」


 光は少しずつ大きくなり、手の内だけだったものが、手首、腕と大きく広がっていく。片手を首輪から離すと、自分の髪を結っていた紐を一気に解いた。


「宿れ、縁。繋げ、縁の糸!」


  解いた髪紐を宙に向かって振るった瞬間、今までより強い光が私、連、遥、まで包みこんだ。


「……!」


 そのまばゆさに、思わず目を閉じてしまう。


(いけない……!)


 急いで目を開くと、光は少しずつ弱まっていくようだった。


(失敗した……?)


 一瞬、過去の記憶がフラッシュバックした。これは、あの〝失敗〟の時と、同じ儀式。発動するのは、あのとき以来だ。どうか、成功してくれ――

恐る恐る手元に目線を落とすと、見慣れないものが目に入った。


「これは……?」


 それは赤く細い紐のようなもの。その先に目を向けると、連の右手の小指に繋がっていた。

 

「ん……?なんだ、これ」


 連は小指に巻き付いたその糸を引っ張っている。しかし、どうにも外れそうにないようだ。その糸の逆の終わりを探そうと目で追うと、それは、連指から部屋の外へと伸びていた。


「……成功だ」

「え?」

「成功だよ! それは縁の糸。連とクロちゃんを繋いでいるの!」

「俺と、クロを……!?」

「うん! ねぇ、遥! 清! これ、成功でしょ!?」


 興奮のあまり、声が大きくなる。遥と清を交互に見ると、二人は力強く頷いた。


「えぇ。結様が執り行っていた儀と同じ糸。間違いないわ」

「成功だな。見ろ、お前が私の霊力を使ったおかげでこの通りだ」


 言われてみれば、清の体はいつもの大きさに戻っている。私と遥と清の三人の霊力を使って、術式を行えた何よりの証拠だ。


「これを辿っていけば、その先にクロちゃんがいる。会えるよ!」

「あぁ! ……っ、本当に、ありがとう!」


 連は今にも泣きだしそうな顔で笑った。


「あぁでも、こんな糸ついてたら、周りから怪しまれないか?」

「大丈夫! その糸は術者と直接術をかけられた者だけに見えるの。繋がれた先のクロちゃんにも見えないよ」

「そうか、ならよかった。こんなものが見えたら、怪しまれること間違いなしだからな。助かる」

「さ、そうと決まれば早速行こう! 遥、車出してくれる?」

「仕方ないわね。……まぁ、急いだ方がいいでしょうし」

「? 遥、何か言った?」

「なんでもないわ。さぁ、飛ばすからついてらっしゃい!」


 一瞬遥が何か呟いたような気がするが、遥は何事もなかったかのように笑顔で首を横に振る。

 けれど、この後すぐに、私はその笑顔の意味を知ることになる。




「おわっ!!!!」

「ひぃいっ!! ちょっと! 遥、飛ばしすぎ!!」

「飛ばすって言ったでしょう! ちゃんと掴まっておきなさい!」

「いや、だからってこれはやりすぎ……ひぃいい!!」


 猛スピードで車が走る。カーブを曲がる時でさえも、その勢いは弱まることはない。荒々しく山を駆け降りていく。


「連くん、糸はどう!?」

「は、はい! 変わらず真っ直ぐ差してます!」

「そう! なら良いわ。このまま進むわよ!」

「はい!」

「もう止めてぇえ~……」


 運転している遥はともかく、助手席に座る連も、興奮しているのかまだまだ元気が有り余っているようだ。後部座席の私は既にグロッキー状態だというのに。


(クロちゃんのことで頭がいっぱいで、気にならないのかな)


 車酔いの私に対し、連はただ真っ直ぐ前を向いている。背中は椅子から離しているし、いつでも飛び出す準備が出来ているように見える。ようやく愛猫に会える興奮で酔いなど感じないのかもしれない。


(とにかく早くついて……お願い……)


 気分が悪くなってきた私は、ただひたすら車の窓から吹き込む風にあたりながら祈るしか出来なかった。


******


「道が開けてきたね」


 遥の爆走の甲斐もあり、山道はほんの数分で終わり、広い河川敷へと差し掛かる。このまま進めば隣町に続いているはずだ。揺れが小さくなったおかげで、ようやく景色を眺める余裕も出てきた。日の光を浴びて、川がキラキラと輝いている。


「……あれ?」

「どうかした?」


 連は自分の手元に視線を落としている。そこには私たちを導いてくれる縁の糸がある……はずなのだが。


「消えかかってる……?」


 儀式を終えたばかりのときは、くっきりと浮かんでいたはずの縁の糸が、今はまるで点滅するように浮かんだり消えたりを繰り返す。


「もしかして、術が切れるの?」


 糸結びの儀は成功したはずではなかったか。それとも、術が未熟なために効力が持続できないのか。


「……いいえ。術は間違いなく成功してた。こんなに早く切れるはずがないわ」

「それじゃあ、なんで……」

「……」


 遥は何も答えない。彼の様子を見る限り、何か知っているはずなのに。何か言えない理由でもあるのか。バックミラー越しに遥を見るも、遥は前を向いたまま私の視線には気付かない。


「あっ、遥さん。糸は橋の下に伸びてるみたいです」

「そう。それじゃあ、ここからは歩きね。……どうやら、長旅はこれで終わりみたいね。目的地はすぐそこよ」


 車を通りの端に寄せて停めると、私たちは車を降りた。土手から河川敷へと階段を駆け降りると、速足で橋の下へと向かう。

 橋との距離が埋まるにつれ、糸が橋より先にないことに気が付く。つまり、クロちゃんはここにいる。


「……っ!」

「あ、連!」

「待って、結衣」


 そのことに気が付いたのか、連が突然走り出す。その後を追いかけようとしたが、肩を遥に掴まれた。


「今はだめよ」

「どうして止めるの? 私は連に術をかけたんだよ? 私にはあの子たちを見届ける義務があるよ」


 見習いの身で術をかけたのだ。本当に成功しているのか、この目で確かめるまでは安心できない。


「……そうね。でも今は、あの子たちだけにしてあげましょう。……もう時間があまりないんだから」

「それってどういう……」

「……、それはね……」


 遥が答える前に、私は察してしまった。遥があまりにも、寂しそうな顔をしているから。




(クロ……、クロ……!)


 連は走った。一週間以上離れ離れになっていた愛猫が、すぐそこにいるのだ。これで、ようやく会える。


(頼むから、そこにいてくれ)


 それと同時に、本当にクロがいるのかという不安が連の胸を占めた。 緊張で唾を飲み込みながら、祈るような気持ちで連は歩き続ける。彼の頭の中では、クロで出会ったばかりの頃が思い出されていた。

 怯えたように震える、痩せ細った黒猫。それが初めて出会った時のクロの姿だった。今にも消えそうなほど頼りなかったけれど、自分と過ごすようになってから、クロは少しずつ元気に走りまわるようになった。


(クロ……)


 家に帰れば嬉しそうに出迎えてくれることもあれば、ふてくされたように丸まって寝ていることもあった。だめだと言っているのに連のご飯を食べようとしたり、宿題の紙を破いてみたり。散々な目に遭わされたこともあったが、連にとって、クロと過ごした日々は本当に幸せで、かけがえのない日々だった。


(お願いだ、クロ。もう一度俺と一緒に、生きてくれ)


 もし俺が嫌で出ていったなら、このまま自由になってくれていい。でも、そうではないのなら。帰りたくても道がわからなくて帰れないだけならば。俺たち家族と一緒に、これからも過ごしてほしい。


「あ……!」


 糸が結ぶ先は、橋の下の茂みの中。確かに誰かがいる気配もする。


「クロ……?そこに、いるのか?」


 そう呼びかけてみれば、ガサッと小さな物音がした。かき分けた茂みの中に、黒い塊が見える。


「クロ……!」


 黒い体に橙の瞳。そこにいたのは、確かにクロだった。ようやく、会えた――




「……みぃ」

「……クロ?」


 抱き上げた腕の中で、クロは小さな声で鳴いた。擦り寄るように頬を寄せてきたクロの体は、最後に抱いたときと比べて、随分小さくなっていた。


「な……なんだよ、お前。腹、減ってんのか? メシ食えてなかったんだろう? なぁ、クロ……」


 言いながら、声が震えてしまった。こんなに軽いのは、食事を取れていないから。食べればまた元気になる。

 ――そう思うのに、なぜだか胸がバクバクとうるさい。言いようのない不安が襲ってくる。


「……み」


 クロの返事は、小さく頼りない。慰め程度に俺の頬を舐めた舌は、以前よりもザラついていて、ひんやりと冷たかった。髭は力なく下を向き、慈しむように細められた瞳には、まるで生気を感じられない。

 ――そう、〝生気〟が、感じられないのだ。


「え……?」


 クロの左前足には、俺についているものと同じ糸が結ばれている。はっきりと俺の目に映っていたはずのそれは、気付けば細く薄い色になっていた。


「まさか……」

「……その、まさかだよ」


 足音とともに、女性の声が聞こえた。振り返った先にいたのは、結衣と遥だった。


「……その子はもう、間に合わないわ」

「――!!」

「かけたばかりの縁の糸が消えるということは、繋いだ者が死ぬということ。術を発動させたときには、その子の縁の輝きは既に弱っていた。……死期が、近いのよ」


 受け入れがたい現実を突きつけられ、連は頭をガンッと強く殴られたような気分がした。 遥が説明している言葉も、連の耳には全く入らない。

 本当は、遥に言われずとも、連には察しがついていた。だが、受け入れたくなかったのだ。大切なクロを失うということが、連には理解できなかった。


「はっ……ははっ……」


 乾いた笑いが零れる。間に合わなかった。クロはもうすぐ、死ぬのだ――


「俺が、俺が遅かったから……!早く、クロを見つけ出せていれば、こんなことには……!!」

「……違うよ。連が見つけられなかったから死ぬんじゃない。元々、その子にはもう時間がなかったんだよ。……だから、連の元を去った」

「どういう、意味だ?」

「聞いたことない? 皆が皆ではないけれど、猫は自分の死期を悟ると、飼い主の元を去る習性があるそうよ。クロちゃんも自分が死ぬことがわかっていて、連くんの元を去った。……クロちゃんが何を思って去ったのかはわからないけど、もしかすると大好きな飼い主の連くんを悲しませたくなかったから、かもしれないね」

「――っ!」


 大好きな、飼い主。悲しませたくなかった。遥の言葉が、連の胸に突き刺さる。

 クロはどうして、自分の元を去ったのだろう。連を悲しませたくなかったのだろうか。自分が死ぬ姿を見れば、苦しむとわかっていたから。


(俺のことが大切だから……? そんなのっ……、俺は、ずっとお前の傍にいたかったのに!)

「なぁ、あんたたちの力で、クロを助けることは出来ないのか!?あんなすごいことが出来るなら、クロを元気にすることくらい、簡単じゃないのか!?」


 すがりつくように、連は二人に詰め寄る。けれど二人の表情は暗く曇っていた。


「私たちに出来るのは、縁を繋ぐこと。消えゆく命を留まらせることは、出来ないよ」

「――!!」


 二人にそんなことが出来るはずない。そんなこと、わかりきっていた。

 それでも、連はどうしても聞かずにはいられなかった。二人に、こんな表情をさせてしまうとわかっていても。申し訳なさそうに唇を噛む二人に、連は何も言えなかった。


「み……」


 クロは小さく鳴くと、俺の頬を舐めた。


「ごめんな……。俺じゃあ、お前を救えないみたいだ」

「……み」

「ごめん。ごめんな……」


 次から次へと、瞳から熱いものが零れ落ちる。クロの体に落ちてしまわないように涙を拭うが、止まることを知らないように、ぽろぽろと雫が零れていく。


「みぃ……」


 小さな前足が頬に触れる。視線を落とせば、クロと目が合った。


〝泣かないで〟


 優しく細められた瞳は、そう告げているような気がした。


〝大好き、連〟


 連の腕に、クロは静かに頬を寄せた。すりすりと腕を撫でる様は、連のことが大切だと言っている。

 勘違いかもしれない。ただの自分の願望かもしれない。それでも、クロの行動は連にそう信じさせるだけの力があった。


「クロ……、俺も、お前が大好きだよ」

「みぃ……!」


 クロが望まないのなら、もうクロの前で泣かない。必死で涙をこらえて、出来る限りの笑顔を浮かべると、クロは満足そうに笑って、


〝またね〟


「……クロ?」


 ――静かに、眠りについた。




「こんにちは、連」

「来てくれたのか。あがってくれ」


 数日後。遥と私は、改めて連の家を訪れていた。目的は、クロちゃんに会うため。写真の中のクロちゃんは、連の腕の中で幸せそうに笑っていた。


「ありがとな。クロも喜んでると思う」


 遺影に手を合わせ、振り返ると、連が私たちに向かって頭を下げていた。


「お世話になりました。無理を言って悪かった。でも、二人のおかげで、最期にもう一度クロに会うことが出来たよ。本当に、ありがとう」

「いいえ。ギリギリになってしまったけれど、連くんたちが再会できたことは、私たちも嬉しいの。力になれてよかったわ」

「うん。……でも、連と初めて会った時に力を貸していれば、もう少し長く一緒にいられたかもしれないのに、本当にごめんなさい」


 後悔があるとすれば、そこだ。連と出会った時に話を聞いて儀を執り行えていれば、一日でも長く一緒にいられたかもしれないのだ。

 トラウマに錯乱したり、未熟であるからと逃げ腰にさえなっていなければ、よりよい結果になっていたはずだ。後悔せずにはいられない。


「いいんだ。元々、ダメもとだったんだし、叶えてもらっただけで、十分ありがてぇよ。それに、クロの死因は、老衰だった。成猫としては長生きした方だって医者にも言われたし、初めて会った時に願いを叶えてもらってたとしても、すぐにお別れすることになってたよ」

「……うん、ありがとう」


 連は優しい。私が心から申し訳なく思っていることでも、気にするなと言ってくれる。けれど、それではだめなのだ。


「あのね、連。実は私が今日ここに来たのは、もう一つ目的があるの」

「ん、なんだ?」

「お礼がいいたくて」

「……礼?」


 連は何のことかわからないないらしく、頭に疑問符を浮かべている。けれど、心当たりがなくて当然なのだ。これは私が勝手に思っていることなのだから。


「私たちを信じて、依頼してくれてありがとう」

「……は?」


 連はますます首をひねる。それはそうだろう。依頼した側は礼を言われる理由など、普通はないはずなのだから。


「私は見習いで、術も未熟。この地に帰ってきたのも最近で、正直を言うと神子になる気なんてほとんどなかったの。後継者って言われても、実感がなかった」

「そうなのか?」

「うん。……やれって言われたことをやってるくらいで、神子としての自覚も、覚悟も抱いてなかった。……でも」


 視線をサイドテーブルに移す。そこにはクロちゃんの写真がある。私が依頼を叶えた、その証だ。


「連の話を聞いて、神子の自覚が持てた。人が心から望むことを叶えるだけの力が、その義務が、私にはあるんだって」


 視線を戻すと、決意を告げるように、連を真っ直ぐに見つめた。


「私、神子になるよ。どんな願いだって叶えられる、人の力になれる……そんな神子になる」

「……」

「……」


 暫くの間、連はぽかんと口を開いて固まっていたけれど、その一瞬の後、フッと噴き出した。


「ハハッ、わざわざその宣言しに来たのかよ。それに礼って。俺、本当に何もしてねぇじゃん」

「そ……そうかも、しれないけど! でも、本当に連が願ってくれたから私もこうして自覚を持てたわけで……感謝、してるんだよ、これでも……」


 何がおかしいのか、連は声をあげて笑い出す。まさか笑われると思っていなかった私は、恥ずかしさで居たたまれなくなってきた。


「クハハッ、でもだからってわざわざ、なぁ?」

「わ、笑わないでよ……。もう、言うんじゃなかった」

「悪い悪い。まぁ、頑張れ。お前の最初の依頼人として、応援してるよ」

「……なんか生意気。でも、ありがとう。ふふふっ」


 相変わらず無遠慮な連の態度に、笑みが零れる。連がこんな前向きな性格の人だったからこそ、叶えられたのかもしれない。そう思うと、自分の初めての依頼人が連でよかったと心から思えた。


「さ、決意を新たにした結衣ちゃんには、今日から早速新たな修行プランを用意しました~。帰ったらみっちりやるからね?」

「げっ……、お手柔らかにお願いします……」


 遥はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。この決意表明を遥に聞かせるべきではなかったのではなかろうか。後悔しても、もう遅い。


「それじゃあ、そろそろ帰るね」

「おう、また学校でな」

「あ、そっか。同級生になるんだよね。これからよろしくね」


 偶然とはいえ、連とは同じ高校の同級生になる。今後はかなりの頻度で会うことになるだろう。きっとこの明るい性格に助けられることも多いはずだ。


「ね、連」

「ん?」

「無力な私を、信じて任せてくれてありがとう。あなたの力になれて、本当によかった」

「……!」

「またね」

「お、おう……」


 改めてお礼を伝えると、もう一度だけ写真立てへと目を向ける。写真の中のクロちゃんは、心なしか先程見た時より幸せそうに笑っているような気がした。


(よし、これから頑張るぞ!)


 両手でパンッと頬を叩いて気合を入れ直すと、遥を追って連の家を後にした。

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