第3話 花の老人
第3話 花の老人
「早くて…一週間くらいか」
灰色のローブ姿の老人は独り、宿屋の薄暗い一室で呟く。窓の外は日が陰り、雨が降り始めていた。
老人はローソクで灯りをつけ、机の引き出しを開ける。中には一見何もないように見せてあるが、上げ底になっている。底を外し、中から大事にしまわれていた小さな箱を取り出す。箱は古い布の包みに覆われている。
箱を手に取った老人は目を閉じ、しばらく立ち尽くしていた。外の雨音が次第に強まり、屋根を叩く滴が次々に跳ねていく。それ以外の音はなく、静かだった。
やがて、老人はゆっくり目を開けると、椅子に腰掛け、箱の包みを丁寧に開いた。中の箱は古い木箱で、鍵が一つかけられている。蓋の中央には何かの印が押されているが、少し掠れているため、相当に古いことがわかった。
老人は箱の蓋の印に手を置き、また呟く。
「お前と出会った時は、熱意ばっかりの若造同士だったのにな…もう300年か。自分で言ってて、変な気分だよ。そう思わないか?」
呟いている老人は、思い出を懐かしむ、優しい瞳をしていたが、ふぅ、と息を吐くと、目はこれから先に起こる出来事を見据えるかの如く、鋭く光っていた。
老人は小さく頷き、箱の鍵を開け、中に入っていたものを取り出した。
昼過ぎから振り始めた雨は、結局そのまま次の日の朝方まで振り続けた。雨上がりの空は青く、朝日が眩しい。
ソフィアは玄関前に立ち、空を見上げていた。これからいつも通り、花の老人の手伝いに行くつもりではいたが、昨日の件もあり、少しもやもやしていた。
(おじいちゃん、怒ってはいないと思うんだけど…あの顔は、聞いちゃいけない事をしつこく尋ねちゃったのかな…)
ソフィアは昨日の老人の、今まで見た事が無かった表情を思い出し、自分が一体何をしてしまったのか、ずっと考えていた。最初は普段と違う老人の様子に困惑していただけだったのだが、ある事に気づく。
例え、北の山脈の向こうで、珍しい花を持って帰って来たことが事実だったとしても、花のことで何か悲しいことや辛いことがあったのかもしれない。あの横顔の意味は、私が無神経に色々尋ねてしまって、老人を傷つけてしまったのかもしれない。ソフィアはそう思い当たった。
「私、やっぱりルーナが言う通りのお節介をしてたのかな…」
ソフィアが俯きながら呟くと、
「何がお節介なの?」
後ろから声が飛んできた。
ソフィアが振り返ると、ルーナが首を傾げて立っていた。
「ルーナ?聞いてたんだ…。ねえ、ルーナ。私、お花のおじいちゃんに余計な事をしちゃってたのかな」
ソフィアは下を向きながら、ゆっくり話し出す。
「あのお花たちには、おじいちゃんの大切な思い出が詰まってて、それをおじいちゃんが世話することは、その思い出を守るような、すごく意味のあることだったのかも」
そこまで言うと、言葉が詰まる。ソフィアは胸を押さえ、絞り出すように声を出して話を続ける。ルーナは黙って聞いている。
「なのに…私がズカズカと足を踏み入れちゃって…。おじいちゃんは優しいから何も言わずに手伝わせてくれたけど…」
再び言葉が止まり、ソフィアはルーナに顔を向ける。ソフィアの目からは涙が溢れていた。そして、最後の一言を絞り出す。
「本当は、すごく迷惑だったのかな?」
「そんなわけないじゃない!!」
ソフィアの絞り出した言葉を、ルーナは怒鳴り声で一蹴する。ソフィアは驚いて、キョトンとした顔で固まっている。
「あのね、お姉ちゃん。お花のおじいちゃんが無口なのはよく知ってるでしょ?名前も教えてくれない。そんなおじいちゃんが、ちょっと普段と違う感じになって、そんで置いてけぼりにされたからって、なんでお姉ちゃんがそんなに傷ついてるのさ!?」
ソフィアは目を丸くして固まり続けている。
「それにね、お姉ちゃんがお花の世話を手伝いに行くことは、なんにも悪くないよ?だっておじいちゃん、嫌だったら最初からお姉ちゃんのこと無視するだろうし。そりゃ、お花に何か特別な思い出が
あるのかもしれないけどさ」
ルーナは深く息をつく。そしてまっすぐ姉を見つめて話す。
「お姉ちゃん、私聞いたよね、なんで手伝ってるの?って。そしたらお姉ちゃん、あのおじいちゃんが一人では大変でしょ?って言った後に、なんて言ってた?」
ソフィアはハッと我にかえる。
「お姉ちゃん、おじいちゃんが寂しそうって言ってたんだよ?だから、あのおじいちゃんを手伝ってるんでしょ!!だったらこんなとこで突っ立てないで、さっさとおじいちゃんの所に行きなよ!!」
ルーナが再び怒鳴る。ソフィアはビクッと驚きながらも、拳を強く握る。
「それと、おじいちゃんの本当の気持ちが知りたいんだったら、もっと質問責めしちゃえばいいのよ。そしたら手振りだけじゃ答えられないだろうしね!それでまた恥ずかしがって逃げようとしたら、今度は腕をがっしり掴んじゃえ!!」
ルーナはいたずらっ子のような顔で笑った。ソフィアも一緒に、涙目をこすりながら笑う。
「ルーナ、ありがとう!早速おじいちゃんを掴まえにいってくるね!」
ソフィアはブンブンと手を振って、走り出す。ルーナも、手を大きく振って見送る。ソフィアは上層地区に向かって、一気に駆け上がっていった。
上層地区の庭園にソフィアがたどり着くと、いつもの灰色のローブを纏った老人がベンチに腰掛けていた。お花の世話はまだ始めていないようだ。
「おじいちゃーん!おはよう!あのね…
?」
ソフィアが何か言葉を繋げようとすると、足元に変な違和感を感じた。地面に立っているのに、立っていないような、気持ちが悪い感じだ。そしてーー
ズン…
突然、重い衝撃が下から突き上げ、地面が揺れた。ソフィアは何が起こったのかわからず、その場にしゃがみ込む。辺りから物が落ちる音、崩れる音、悲鳴が聴こえてくる。
「え…なんなの?!どうしちゃったの?」
ソフィアは慌てると共に、恐怖に襲われる。更に遠くから凄まじい轟音が聴こえてきた。
「きゃ!!」
あまりにも大きな音に、ソフィアは悲鳴をあげる。すると、急に目の前に覆い被さってきた灰色の布が見えた。その直後、粉塵混じりの突風が吹き荒れる。
顔を上げると、花の老人がソフィアを覆い、守っている。ローブをマントのように広げた老人が、ローブの下に着込んでいるものを見て、ソフィアは驚いた。それは、革の鎧だった。機能性を重視してポケットが多い。そして腰の方に目をやると、短剣が差してある。
ソフィアは混乱の極みにあった。
(この地揺れは何?あの大きな音は何?おじいちゃん、なんで鎧着てるの?その腰の短剣は何?私どうなっちゃうのー!?)
ーー急に辺りが静かになる。揺れも少しずつ消えていく。街の人々や兵士の慌てた声は聞こえてくるが、先ほどの轟音はもう収まっていた。
ソフィアは再び顔を上げると、灰色のローブ…いや、灰色のマント姿の老人に手を引いてもらい、立ち上がる。
周囲を見渡すと、街全体を粉塵が立ち込めていた。少し先は何も見えず、自分がどこにいるかわからない。
「いったい、何が…」
ソフィアが呟くと、頭の上から声が返ってきた。
「これは終わりであり、始まりだよ、ソフィア」
老人がソフィアに告げる。少し間が空いて、ソフィアはビクッと跳ねる。見上げると、見慣れた老人の顔がある。
「お、おじいちゃん、今、喋った…」
「わしは喋れるぞ?まぁ、誰かに話すのは久しぶりだがね」
ソフィアは口をポカンと開けて固まった。まさかこんな展開になるとは。そう思っていたが、ふと我にかえる。
「あ、おじいちゃん!あの、助けてくれてありがとう!でも、さっき言った終わりとか始まりって、どういうこと?何が始まるの?この地揺れといい、あの大っきな音といい…それにおじいちゃんのその格好も。わからないことだらけだよ!」
ソフィアが尋ねると、老人は目を瞑り一瞬考える。そして、ゆっくりと目を開き、ソフィアへ向き直る。
「…今、何が起こっているのか話す前に、昔から伝わる言葉をソフィアに教えてあげよう。これは、アリアス王国に300年も前から伝わる、古い言葉だ」
そう言うと、老人は空を見上げる。粉塵の合間に、青い空が見える。そして再びソフィアに顔を向けた。ソフィアも老人の顔をまっすぐ見る。
「世界はもう終わっている。あとは、新しい世界を始めるだけだ。始めたければ、船に乗るといい。だが船に乗り、出帆すれば、私たちは故郷を失うだろう」
それを聞いたソフィアは、再びポカンとする。
「世界がもう終わってるけど、新しい世界を始める?船に乗れば始められるけど、故郷を失う?どういうこと?」
ソフィアはまた困惑していた。世界がもう終わっているということも、実感がないからよくわからない。
そんな様子でソフィアが頭を抱えていると、老人が横を向き、手を伸ばしてある方向を指し示す。昨日もこんなことがあったと、ソフィアは確認した。そして老人が指し示す方向をみてーー
心臓が止まりそうになった
息をするのも忘れた
「山が…崩れてる」
北の国境、エバ山脈の一画が完全に崩壊し、今まで見ることが無かった山脈の向こう側が見える。そして、その先は更に異様な光景が広がっていた。
「なに…?なんで地面が割れて、浮かんでるの?」
山脈の向こう側では、奥に行くほど地面が割れて、宙に浮かんでいた。崩れた壁から落ちてくる欠けらが、まるで時を止めたように止まっているかのようだ。
ソフィアは恐怖に襲われる。あの轟音は山が崩れる音だった。こんな事が起こるなんて…正に世界の終わりだ。それにあの異様な光景は…
と思っていたが、ソフィアはハッとし、急に不安に襲われた。
「…ルーナ。ルーナは!!?」
そう叫ぶと、ソフィアは家に駆け戻っていった。老人が慌てて後を追いかける。
メリダの街は青空の下、粉塵に包まれていた。