第2話 メリダの街にて
第2話 メリダの街にて
朝食を食べ終えたソフィアは支度を整え、家を出た。そして、メリダの街を軽快に登って行く。
この街は城塞都市だ。街全体が丘の上に築かれ、古びてはいるものの堅牢な壁に周囲を守られている。
守っているーーとはいえ、実際は大昔に王国が周辺の小国を統一する前までの話であり、現在は敵国が無いため、その堅牢さは少々過剰だ。
しかし、各地には古くから様々な獣たちがいる。例えば、北の山脈付近に縄張りを持つ"古狼"だ。
"古狼"たちは通常の狼と同様に群れで行動しているのだが、漆黒の毛と大柄で屈強な体格をしており、戦いになると漆黒の毛が血の色のように赤く染まり、対峙した者を恐怖のどん底に突き落とすらしい。
だが、彼らがいきなり人を襲ってくる事は滅多に無いという。それどころか、家畜が襲われたりという話も無い。
なぜなら、遭遇したある旅人の話によると、古狼たちは人の言葉を話せるらしく、縄張りに誤って立ち入ってしまった者には、まず警告を発したという。
そして、その場を大人しく去れば追わず、愚かにも剣を抜けば容赦はしない。
人間が国境を守ることと、大して変わらないのだ。
さらに驚くべきは、商人の中には彼らと
食料や薬などの取引を行った者がいるというのだ。
さすがにこれは、最初誰も信じなかったのだが、他の獣の噂にも同様の話があり、程なくして人々は獣の認識を改めることとなった。
人間より長く生き、人語を解すほど賢く理性的な獣たちが、唐突に街を襲撃するとは考えにくいのだが、それでも絶対というものは無いため、今日も壁は街を守り続けている。
壁の内側は下層・中層・上層と、段々に地区が分かれている。
街の入り口である南門から下層地区に入ると交易広場があり、行商や街の商人で賑わっていた。
勿論、街の人々も訪れる露店や各種工房、倉庫や馬の厩舎、宿屋に酒場などの施設も揃っている。活気に溢れる下層はまさにメリダの玄関口なのだ。
賑わう下層地区から登ると、メリダの人々が暮らす住宅が立ち並ぶ中層地区に入る。ソフィアたちの家もこの一画にある。この地区には城塞の東門もあるが、外から東門へ入るには断崖のような急な階段を登らなければならず、外敵はもちろん、味方でさえあまり東門を利用しない、ほぼ開かずの扉と化している。
その他に医院、それと簡単な読み書きと計算を学ぶ事が出来る学校もあり、ソフィアとルーナもそこで勉強していたことがある。尚、行政官などの役人を目指す者たちは、王都にしかない専門学校に入り、資格を取るように定められている。
医師も王都で専門の教育を受けなければならないのだが、一人前になるためには時間がかかる。そのため、近年の王国においては医師の人手が不足気味で、定期的に王国各地へ出張する事が多い。ちなみにソフィアの母もこの街の医院に勤める医師の一人だが、現在は出張で留守にしている。
留守中のソフィアたちの事は父がみているのだが、その父も兵士の任務で頻繁に国境調査に赴くため、両親が留守になる事も多い。ルーナが家事を覚えているのは、こういった家の事情もあるのだ。
上層地区に登ると、そこは住宅街から一変して空中庭園になっており、街の人々の憩いの場となっている。庭園の奥にある屋敷には王国直轄の行政官達が詰めており、ここでメリダの街の運営を切り盛りしている。
庭園には専属の庭師が手入れに来ており、本来は"花の老人"が世話しなくても良いのだが、なぜか彼が世話する事を黙認している。
今日のソフィアの最初の目的地はこの庭園。家事や買い出しなどの用事が立て込んでいない限り、朝は大体ここで老人と待ち合わせをしているのだ。
「おや?今日は私が先?」
ソフィアは、珍しいこともあるものだ、と思いながら辺りを見渡す。
早朝のこの時間、まだ人気はほとんど無い。ソフィアはしゃがみこみ、庭園の花をぼんやり眺めながら呟く。
「ここのお花、やっぱり一つも名前がわからないや…なんだか不思議」
そう、この庭園の花は全て、メリダの近隣には無い種類だ。医院が薬の研究のために持ち込み、植えたものも少しあるらしいのだが、どこから持ってきたのか、由来はわからない。噂では王国の外らしいのだが、アリアス王国の外は砂漠化が進み、西の海も裂け目のせいで渡れず、誰も足を踏み入れられない。
唯一、北のエバ山脈を越える事は可能なのかもしれないが、例の"古狼"の縄張りが近いため容易ではない。交渉すれば通してもらえるのかも怪しい。それに近年は地震が多発している事で落石も多く、一層人を寄せ付けない。
そんなわけで、花の由来は噂の域を出ていなかった。ソフィアが再び周囲を見渡すと、中層から見覚えのある老人が登ってくるのが見えた。
「あ、おじいちゃーん!おはようございまーす!」
ソフィアは老人に元気よく挨拶の声をかけ、両手を大きく振る。それを見た老人の表情はむすっとして変わらないが、ソフィアの方へ僅かに会釈をした。
"お花のおじいちゃん"と呼ばれる、通称「花の老人」は長い白髪に白髭で、老齢ながらも足腰はしっかりとしており、体格も大柄だ。いつも灰色のフード付きローブを着込み、使い込まれたローブは所々修繕の跡があり、農作業用にポケットやベルトなどが追加されている。愛用している革のブーツは、どんな長旅も出来そうなくらいにしっかりとした作りで、手入れも行き届いている。ローブの下にも何か着込んでいるようだが、それは確認出来なかった。
二人は荷物を確認し終えると、まずは上層地区の庭園をひと回りし始める。今日までの作業で庭園の管理は一通り区切りがついているので、簡単な見回りが終わったら今日の目的地である東門へ向かうのだ。
見回りをしながら、ソフィアは老人に先ほどの疑問をぶつける事にした。
「ねえ、おじいちゃん。ずっと気になってたんだけど、この庭園のお花はどこから来たの?メリダの近くには無いし。もしかして、王国の外から持って来たのかな?おじいちゃんは何か知らない?」
ソフィアの問いに対して、やはり、老人は何も答えない。名前も教えてくれない老人なので、ソフィアも心のどこかでやっぱり、と予想していた。
だが、老人がすっと横に手を伸ばし、人差し指で先を指し示した。
その人差し指の先にはーー北のエバ山脈があった。
「あ…」
ソフィアは言葉が上手く出なかった。無口な花の老人が、意外な反応をした事に驚いたせいもあるが、疑問の答えをあっさりと、その指で指し示してくれた事に素直に驚いていた。
「北の山脈…エバ山脈?もしかして、その更に向こう側…」
(まさかおじいちゃんが、このお花たちを…?)
ソフィアは身震いした。
心臓が高鳴る。
今、ソフィアは誰も知らない老人の謎、そして庭園の謎を解明しようとしているのではないか。そんな胸が踊る気持ちに満たされ、意を決して核心に迫る。
「おじいちゃん、あのエバ山脈を越えた事があるの?あのお花たち…も?」
ソフィアが質問をしている途中、ふと老人が北の山脈に振り向き、何かを見つめている。その横顔は、普段のむすっとした感じでは無く、もっと鋭い刃物のような感じだった。
ソフィアは何が何だかわからず、とりあえず一緒に北の方を凝視してみるが、特に変わった感じはしない。
なんだろうか。ソフィアは更に困惑した。老人に尋ねようと彼の方に振り向くとーー老人は背中を向けて歩き去ろうとしていた。
「え?え、えー!?おじいちゃん、どこ行くのー?!」
ソフィアはわたわたと、慌てて老人を呼びながら追いかける。だが、彼からは何も返事が無い。中層、下層へと足早に降りていく。結局、市場の人混みに入ったところで老人を見失ってしまい、今日はここで解散となってしまった。
いつの間にか空も曇り、天気も崩れそうだ。
ソフィアはぷーっと頰を膨らませ、何やらブツブツと独り言を言いながら家に戻る。
「もう、いいところまで話を振って、急に私を置いてかないでよ。ん?話してはいないか。いやいや、それはどうでも良くて…」
自分で言ってることも、だんだんわからなくなって来たところで、ソフィアは家に着く。ちょうど、雨も降り始めた。
「ルーナ、ただいまー」
「お姉ちゃん?まだ昼なのに?あ、もしかしてお昼ご飯食べに来たの?外で食べてくると思ってたから、なんにもないよ?」
「いや、今日はもう終わったんだー。お昼は市場の屋台で済ませたよ」
「え、そうなの?なんで下層に…というか、珍しいね。まぁ、ちょうど雨も降って来たしね…」
ルーナは窓の外を眺める。雨音が少しずつ細かく、強く打ちつけてくる。家の前の道では、急な雨から逃れようと走る人が見える。
(午後の買い出しは…やめとこうかな)
ふーっとため息をついたルーナは、お茶を淹れようと思い、キッチンに向かう。
ソフィアとルーナは、朝食の時と同じようにテーブルで向かい合い、お茶を飲みながら一息つく。ボーッと天井を眺めるソフィアを見て、ルーナは口を開いた。
「それで?お姉ちゃん、何かあったの?」
ルーナが尋ねると、んー、とソフィアは唸り、頭を抱える。
「もしかして、お花のおじいちゃんと喧嘩したの?お姉ちゃん、何か仕事の邪魔して怒らせたとか」
「いやぁ、そうじゃないと思うんだけどねー。おじいちゃん、どうしちゃったんだか」
ソフィアは今日の出来事を思い出しながら、釈然としないような気持ちでいた。胸が高鳴る話もあったが、その後の老人の横顔はなんだったのか。そして、置いていかれたことを思い出し、また頰を膨らませた。
そんな、ふてくされたような顔をしている姉を見て、ルーナは理由を教えなさいと言わんばかりに、身を乗り出して顔を近づける。
ソフィアは苦笑いをして、今日の出来事をルーナに説明する。
「えー!?おじいちゃん、お姉ちゃんの質問に答えたの!?指差して!?」
「答えたっていうか…謎かけされたのかな?結局、大事なところは聞けなかったし、置いてかれたし…」
「いやいや、あのおじいちゃんが手振りとはいえ、会話をするなんて…そりゃ、お天気も変わるよ」
(この妹は、なに上手いこと言っちゃってるんだか…)
なぜか鼻息を荒くして話す妹をみて、ソフィアは呆れた顔でため息を吐く。
妹のため息が移ったかな、などと思いながら、変な一日だったなぁ、と呟いて、窓の外を振り返る。道にはもう、人影は無くなっていた。
その頃、城塞の壁の上で雨に降られた兵士は、見張り兵用に用意してある物置で雨具を探していた。その兵士が見張る先、北のエバ山脈から強まる雨音に混じって、狼の遠吠えが鳴っていたが、壁の上の兵士の耳には聴こえなかった。