雨降りの再会
雫が定期的にこぼれ落ちる軒先を見上げる。
その先に見える空は暗く重たい雲におおわれ、舞い降りる雨は全く止みそうにない。
そんな空模様から視線をそらし、足下に凜々(りり)しく座る犬に向き合う。
「君は、このお店の跡継ぎさんなのかな?」
そう言った制服姿の少女は、犬の頭を撫でた。
高校からの帰宅途中、ふと犬の鳴き声に気を引かれ足を止めた。
通学路の途中、毎日のように前を通る駄菓子屋の店先。
そこには、一匹の犬が座っていた。
通学でこの道を利用するようになった頃には廃業しており、店先にならぶ駄菓子立ちが奏でる世界を見たことはない。
だから、まさか犬がいるとは思っていなかった。
ただの野良犬かもしれない。だが、その犬を無視できず近づいていた。
しかも、ほとんど無意識に手を伸ばしいぬの頭に手を伸ばしていた。
そのときは、まだ雨は降っていなかった。お世辞にも良い天気ではなかったが、雨が降る予報もなかった。
だが、不意に出会った犬とふれあっていると、急にアスファルトを打ち付ける音が聞こえ初め、あっという間に辺り一面の色を変えた。
タイミングの良さに驚き、思わず問い掛けてしまったのかもしれない。
ここのお店の犬なのか、と。
もちろん、答えなど返ってくるはずもない。
しかし、今起きた出来事は、嫌でも幼少時の思い出を引き出した。
「ここの番犬さんが鳴くと雨が降ったんだよ。君はまるで、その番犬さんの力を引き継いでいるみたいだね」
何の根拠もない。ただの幼少期の思い出。いや、思い込みだ。
今となれば、それくらいの分別はある。
ただ、当時は、本気でそう思っていたのだ。
そうでなければ、今、こうやって目の前の犬を撫でていることもなかっただろう。
「首輪もしているし、やっぱり、ここの犬なのかな?」
首輪にふれ、今度は固く閉ざされた駄菓子屋のガラス戸を見上げる。
◇
いつも小学校が終わると通っていた駄菓子屋。
店先に所狭しと並ぶ駄菓子は、宝石箱をひっくり返したようで、いつも輝いていた。
少ないお小遣いを握りしめ、何を食べるか悩む時間が楽しい。
でも、結局いつも同じ駄菓子に手が伸びてしまう。
味と量と金額のバランス。
非常に悩ましく、高いものは数が少なくなるし、お腹も満たされない。中には数日分のお小遣いを必要とするものもある。
それゆえに、子供たちは毎日頭を悩ませ、眩しく映る駄菓子を選んでいた。
幼い頃の少女もその中のひとりだ。
「ふぁぁぁ」
輝く瞳は、駄菓子に釘付けだ。
少女は、いつもどおり散々悩んで、心に決めた駄菓子を握りしめる。
「これっ!」
そして、握りしめた駄菓子を胸に当て、表情をこわばらせる。
大好きな駄菓子を目前にして、どうしても乗り越えなければならない壁があるからだ。
恐る恐る顔を向ける先は、レジを置いたカウンターの奥。お婆さんの――横。
そこには、大きな犬が寝そべっていた。いかにも大人しそうな犬が眠そうにしている。
少女は、ゴクリと喉を鳴らす。
そして、じりじりとカウンターへと近づく。慎重に、ゆっくり、犬から注意を逸らさず歩を進める。
――怖い――
少女の心を支配する感情。だが、その感情も大好きな駄菓子には敵わない。
「これください」
「はい。五〇円だよ」
お婆さんの優しい声に反応して、駄菓子と反対の手で握りしめていた五〇円玉を差し出す。
代金を受け取ると「ありがとう」と穏やかな笑顔で応える。
いつも、お婆さんは、犬に視線を送りながら、おっかなびっくりカウンターまでやってくる可愛らしい少女を愛おしそうに向かえてくれた。
特に何かすることもないが、いつも諦めず自分で買いにくる少女を大切に思ってくれていたのだろう。
「うん」
だが、短く声になったかも怪しい返事をして、少女はいつも体を硬くして足早にカウンターを離れてしまっていた。
少女としても、お婆さんのことは好きだったが、どうしてもカウンターの側にとどまれなかった。
「ねぇ。何でいつも、嬉しそうな顔をしながら、固まってお店を出て行こうとするの?」
必死に出口へと向かう少女に声がかけられる。
突然のことで、全身をビクッとさせて振り返る。
そこには、タンクトップに短パン、真っ黒に日焼けした肌を晒した元気な子がいた。
「だって怖いんだもん」
「何が?」
日焼けの子は、全く理解できないようで首をひねっていた。
「犬が……」
小さく呟くと視線を店の奥へと向け、それを追従して日焼けした顔も動く。
答えを提示されたものの、やはり納得がいかないようで、不思議そうな顔をしている。
「ねぇ。犬……怖くないの?」
「うんん。そんなことないよ。可愛いし、何で怖いの?」
今、目の前にいる子に限らず、他の子に聞いても答えはいつも決まっている。
だが、少女がこわばって答えられずにいると、別の質問に切り替わる。
「いつも、ああやって寝てるばっかりで、大人しいのに?」
少女は、黙って頷く。
「うーん。全然、吠えないし怖いって思うようなことないんだけどなぁ」
更に不思議そうに首を目の前でひねられる。
「でも、やっぱり、噛まれたら痛いし、吠えられると怖いから……」
「たしかに、それはそうなんだけど……」
そして、この答えまでが、ある意味テンプレートだった。
しかし、当時の少女にはそれがとても怖かった。
「小さい頃に、お母さんとお店に来たの。そのときに、撫でようとしたら吠えられて……。すっごく怖かったの。だから……」
少女は不思議と原因になった出来事を話せた。知らない子なハズなのに、と思う反面、いつもお店で顔を合わせていたような気もしていた。目の前の子は、そんな不思議な相手だった。
少女の中で更に幼い頃が思い出される。
幼い少女は、今と変わらない寝そべる犬に近づいた結果、吠えられ大泣きした。結局、何も買わずに帰宅し、母親をさぞかし困らせた。
自分のトラウマの原因となった出来事を話した少女だったが、さすがにその後の更に恥ずかしいエピソードまでは話さなかった。
「やっぱり、たまに吠えるし」
「うーーん。たまに……吠える。かな?」
目の前の子も、そう言われれば吠えるかもしれないが、あまりに吠えたところを見た記憶がなくて眉間にしわを寄せる。そして、おぼろげな記憶を辿り疑問に行き当たる。
「でも、すっごい静かじゃない?」
「でも、吠える」
「まぁ、そうだけど」
「そうだよ」
結局、納得してもらえた記憶は、少女にはない。苦笑いしている様子しか思い出せない。
後になって思い返せば、本当に静かに穏やかに吠えていたのだから仕方がない。
よっぽど滑稽に見えただろう。見えない何かに怯えているようにすら見えたのかもしれない。
実際、少女は母親にときどきからかわれていた。当時の怖がりっぷりを思い出すような話題があると、お決まりの話題だ。
『あなたが、お菓子を食べたいって言うから買いに行ったのに、お店の犬に吠えられて泣き出しちゃって大変だったのよ。その帰りに雨に降られてびしょ濡れになるは、その後、しばらくの間、お菓子は欲しいけど、お店に行くのは嫌だーって言い出しちゃって、困った困った。いつもはあなたがどんなに撫で繰り回しても、されるがままだったから油断してたのね』
そう語る母親は楽しげな表情をしているので、とても意地悪だと思う。
長い間、(忘れかけた頃に)吠えられると怖かったし、近づくのはいつも恐る恐るだった。
だから、吠えられるといつも泣きそうになりながら、友達の後ろに隠れていた。
そのせいで、たまに意地悪をされたこともある。
本当に少しだけ、からかわれていたのだろうが、近づいたときに軽く肩を押されるのだ。
そのたびに、少女は半泣きになって、慰められていた。
そんなある日、少女は店の軒先で鼻をすすりながら、ぼやけた視界で足下のアスファルトに黒い斑点ができるところを見ていた。
「んっ」
唇を引き結んだ口からでた声がと共に、傘が目の前に差し出された。
「これ、使って」
少し申し訳なさそうな。誰かに言われて渋々のような。恥ずかしさに耐えているような複雑な表情で助け船を出されていた。
少女は、どんな表情をして良いかわからず、少し困った表情で傘を受け取った。
「ありがとう……」
そして、小さくお礼を言った。
「――」
傘を差し出した相手は、顔を赤くして店の奥へと戻っていった。
その後ろ姿を見送ってから、少女は渡された傘を手に歩き出す。
なぜ傘を渡されたのか。疑問が頭をよぎるが、雨音を軽快にならす傘を見上げて立ち止まる。
「もしかして……」
少女は、あることに気がついた。いや、ただ思いついたと言うべきかもしれない。
「もしかして、駄菓子屋さんの犬が吠えると雨が降る? 雨に濡れないように教えてくれてた?」
疑問の答えを確かめたくて振り返ると、駄菓子屋の入り口が遠くに見える。店の奥にいる犬は当然見えないが、不思議と見えているような感覚に包まれる。
そんな子供らしい夢のような話だが、実際、吠えられた後は必ず雨に降られていた。
そう考えて、何だか胸がギュッとするような感覚に襲われる。それと同時に、手を当てた胸の奥から温かな優しさのような不思議な感触も得た。
そして、犬に対する恐怖心が、自然に薄れていった。
そう、その後からだ。母親に不思議がられるようになったのは。
『なんでか、いつの間にか犬を怖がらなくなったのよね。良いことだけど』
そう言って結局、笑われるのだが……。
少女は、その話題になるたびに渋い顔をしつつも、駄菓子屋には通っていた。
小学生だった少女は、犬が吠えて雨が降ることに気がついていても、特に何も変わらなかった。「わー、雨だ-」とむしろ雨が降ることを喜んで遊んでいた。
友達と一緒に濡れながら、走って帰ったこともある。
もちろん、帰宅してびしょ濡れになっている姿を見せて母親を呆れさせていたのは言うまでもない。
時が流れ、小学校を卒業するころには、駄菓子屋に通うことはなくなり、中学生になってからは、お店に近づいた記憶すらない。
しかし、高校への入学で通学路が変わってから毎日お店の前を通るようになった。お店の入り口をくぐることはなかったが。
◇
撫でていた犬から再び視線を上げる。
カーテンの引かれたガラス戸の中をうかがい知ることはできない。
少女が中学生のころに、店番をしていたおばあさんが亡くなり、跡継ぎもおらず駄菓子屋は廃業していたらしい。
だから、入りたくても入れないのだ。
子供の頃に足しげく通ったお店が閉店している。胸の奥がもやもやとする。
お店がなくなって不便とか、そう言った話ではない。
これから、利用するのかといえば、正直なところ、わからない。
それでも、寂しさが胸中を支配する。
雨はまだ止まない。
「君は雨じゃなくて、素敵な出会いとか連れてきてくれないのかな?」
ガラッ。
「また、こんなところにいた」
少女が、現状とは全く関係のない思春期らしい願望を口にした瞬間、固く閉ざされていたはずのガラス戸が開いた。
そして、見慣れない顔がひょっこりと飛び出してくると、犬に声をかけた。
「ひゃ、あ、あの、すみません」
少女は驚きのあまり、飛び上がる勢いで立ち上がり、謝罪を口にする。
「いえ、こちらこそ。うちの犬がご迷惑をおかけしてすみません。いつの間にか脱走しちゃって、――あ」
「え?」
お店の関係者と思われる人物は、少女の顔を見て何かを思い出したように指をさす。
「もしかして、むかし、うちの店に良く来てた?」
少女も連鎖的に反応して、こくこくと頷く。
「えっとー。ちーちゃん」
「ちがう……」
「うーん、みーちゃん」
「遠のいたよ……」
どう見ても、適当に言っているとしか思えない呼び名の連発に少女は渋面になる。
「思い出した」
「本当かなぁ?」
自信満々な宣言に少女は半眼で見つめ返すしかできなかった。
「はーちゃん」
「はずれ……」
「降参です」
ついに両手を挙げた。
「やっぱり、人違いなのでは?」
「ごめん、久しぶりだったから。でも、一時期、誰も怖がらない前の犬を異常に怖がってたのは覚えているから間違いないと思う」
少女も自分の感じた懐かしさが間違いじゃないかと思い始めたところに、間違いなく自分のことだと分かるエピソードが出てきて、少し安心する。
だが、本当のところは、小学生のころに名乗った覚えはない。名前を知らなくても仕方がないのだ。見ず知らずの子供同士が名前も知らないままに仲良く遊ぶ。良くあることだ。
少女の中では、お店にいつもいる子供くらいにしか思っていなかった。ただ、それだけだ。
だから、怒ってなどいない。知っていると信じ込んでいるのも、どうかと思わなくもないが……。
「……」
だが、少しふてくされたフリをしてみた。記憶に残っている、過去の所業への仕返しだ。
「だよね? 気がついたら大丈夫になっていたみたいだけれど」
「そうね。でも、誰のせいで――」
「誰のせいも何も、初めて会ったときには怖がってたでしょ?」
「あなたが、さんざんからかうから悪化したの」
少女は精一杯、頬を膨らませてにらみつける。
そして、笑った。
二人の笑い声が、雨の音に吸収される。
ずっと静かにしていた足下の犬が、急に少女の足にまとわりついた。
尻尾を大きく振って随分とご機嫌だ。
「わ、ごめん」
濡れた犬の体や足で汚れた少女の足を見て慌てる。
「大丈夫」
「でも、靴とか足が汚れて……」
「制服は無事だから。靴はどうせ雨で汚れてたからお手入れするし」
そう少女は言うが、被害が広がることを心配したのか、取り押さえられ不満そうな犬。
「何か、すごい懐いてるな」
「ほんとね」
少女は再び、しゃがんで犬を撫でる。
「気に入ってくれているなら、いつでも会いに来てくれても良いんだけど」
少女に撫でられている犬から視線をそらし、頬をポリポリとかいて言う。
「え? それって……」
何かを察した少女が赤くなる。
「あっ、いや、その。誤解しないでよ。犬に会いに来ても良いって意味だから」
少女の反応に無駄なフォローを入れようとして、しどろもどろになる。
「――もうっ、分かってる」
軒先から落ちる雫がリズムを刻む。
ときおり通り過ぎる車が、勢いよく雨をかき分ける。
「今度は、晴れてる日に来ようかな。制服が心配で遊べそうにないし……」
「それがいいよ」
ぽつりと少女が呟き、応答がある。
二人は、雨の止まない空を見上げる。
「そうだ。ちょっと待ってて」
そう言うと、店の奥に入っていった。
少しだけの間。
足下の犬は静かに少女を見上げている。
靴や足を汚されても憎めない表情を眺めていると、嫌な気持ちにならない。自分の不思議な感覚に触れていると、不意に少女の視界へ傘が差し込まれる。
「これ――。使って」
少しぶっきらぼうに。少しぎこちなく。差し出されていた。
少女が、ずっと店先にいた理由に気づいたのだ。
ただ、犬と遊びたかったわけでは、なかったのだ。
「ありがとう。いつだったかも、傘を貸してくれたよね」
「そうだったっけ?」
とぼけてはいない。照れ隠しでもない。実際に照れていた。お礼を言う少女の笑顔にどぎまぎする様子があからさまにわかる。
「そうよ。ふふふ」
少女に見透かされたと感じて、照れた顔が背けられる。
その様子を見て、更に表情をほころばせる少女。
「ところで、小さい頃にここでときどき遊んでいたけれど、自己紹介したことあったかな?」
「……」
先ほどのやりとりを思い出して固まる気配が、少女にも伝わる。
分かっていて問い掛けたものの、少女は少し悪い気がした。
「ごめんなさい。私は、相模香那」
だから、自己紹介に謝罪の言葉を付け加えたが、笑みが混ざってしまい謝意が薄れてしまった。そのことが、変なプレッシャーになっていないか、心配になる。
案の定、少女の前で必死に何かを誤魔化そうとしていた人物は、昔と変わらない短めの髪を払いのけた。
強がっているつもりなのだろうが、赤面した表情が雄弁に状況を物語っている。
そんな中、悪あがきの咳払いが行われ――。
「私は、福井昭子」
少しぎこちなかったが、少女を見つめ返す熱い視線。
二人の間には、既に雨音は聞こえていない。
そんな心振るわせる空気の中で、少女は思う。
天気予報犬だと思っていた駄菓子屋の番犬は、とっくに出会いをくれていたのだ、と。
――ありがとう――
いつしか、赤面していた表情も柔らかくなり、笑顔が溢れていた。
了
本作に興味を持っていただいてありがとうございます。
短編ですが、お疲れ様でした。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。