西高美術部との顔合わせ
「――あ、おはよう。滝崎くん」
戸を引き開けると、中にはやはり先に沢城先輩がいた。例によって、キャンバスの向こうに林檎を据えて、しかし今日手に持っているのは絵筆ではなかった。黒い直方体形の、木炭か?
おはようございます、と返しつつさりげなく部室内に視線を走らせる。だが、室内には沢城先輩以外の姿はない。どうやらまだ西高の人たちは来ていないようだ。
俺の目の動きはさりげなかったつもりなのだが、沢城先輩はどうやら目敏く気づいたらしく、笑った。
「西高の人たちはまだ来てないけど、もうすぐ来る頃だよ。さっき東高には着いたって連絡あったし、途中で会わなかった?」
「いえ、会ってないと思いますが」
仮に途中ですれ違うようなことがあっても、お互い見知らぬどうしなのだから気付きようも――ああ、でも、当たり前だが西高は東高とは制服が違うのだから、こちらから一方的に発見することはできるのか。しかしそれを踏まえても、遭遇してはいない。
と、やはり俺が首を振ったとき、俺の背後がコツコツと鳴った。ノックだ。この美術室への来訪者はそもそも少ないが、園田先輩は戸を引きちぎろうとでもしているのかというくらいにけたたましく開けるし、対照的に統也は音もなく忍び込んでくるから、ノックがなされるということはそのどちらでもなく――早い話が、招かれたる客だ。
「どうぞ」
近くにいた手前、俺が戸を押し開けた。勿論、万が一にも初日に俺が園田先輩にされたように来訪者をノックバックしてしまうことがないよう、慎重に繊細に、だ。
戸の向こうにいたのは、ふたりの女子生徒だった。
確認する。まず東高の制服ではない。ならば西高の制服かというと、今までそんなに注意深く見たことがないから何とも言えないが、他にないだろう。
「おはようございます。西高の美術部です。本日は東西合同文化祭の打ち合わせに参りました」
ふたりのうち、背が高く眼鏡をかけた方がそう言って折り目正しく頭を下げた。はあ、どうも、と俺も会釈して返す。
「あ、来たね。いらっしゃい。入って入って」
思いのほか軽い調子で、沢城先輩は俺の肩越しにふたりを招き入れた。では遠慮なく、とふたりは道を開けた俺の横を通って中に入った。
「急に暑くなったよね。調子はどう?」
「上々です。ただこちらの部室のエアコンが故障してしまっていて、扇風機では間に合っておらず困ってます――あ、林檎ですか?」
さすが美術部、というわけでもないかもしれないが、眼鏡の方が早々に沢城先輩のルーチンワークに目を付けた。先程まで沢城先輩が描いていたキャンバスを覗き込む。
「今日は木炭ですか」
「うん。もうちょっとで終わるから、少し待ってね」
言いながら沢城先輩は椅子に座り直し、やはり木炭だったそれを持ち直す。そのやり取りから察するに、どうやらふたりは旧知であるようだ。それからも沢城先輩は手を動かしながら、眼鏡の方と俺にはよくわからない話で楽しそうに盛り上がる。
眼鏡の方は、髪を顎のライン当たりで切りそろえている。銀縁の眼鏡のせいでもあるまいが、すっきりとして理知的な顔立ちだ。
対して、沢城先輩の絵に特段の興味も示すことのなかった背の低い方は、スタスタと歩いていくと用意されてあった椅子のひとつにちょこんと座っている。背の高い低いは西高のふたりを比較してのもので、眼鏡の方は女子としては高い方、といった程度なのだが、こちらは本当に小さい。標準仕様の高校の椅子に座って、踵がついていない。他のパーツも相応に小さく、垂れ目がちでどこか茫洋とした視線のせいかかなり緩い雰囲気があった。――見たところ、あちらの眼鏡の方が西高の部長だろう。背の低い方は、副部長にしておくのも不安になりそうな雰囲気だし。
俺がふたりを観察している間に、沢城先輩の絵が完成したらしい。ふたりもこちらへやってきて、沢城先輩は俺の隣、眼鏡の方は背の低い方の隣にそれぞれ座った。
「――さて。それじゃあ改めて、まずは自己紹介からしようか」
沢城先輩の言葉に、まず眼鏡の方が頷いた。こちらへ顔を向けて感じよく微笑する。
「初めまして。私は西高の美術部副部長、古谷響子です。二年生です。それからこちら」
眼鏡の方――古谷先輩は、横に座る背の低い方を示し、
「美術部部長、戸木沢聖、二年生です。――どうぞよろしくお願いします」
古谷先輩はまた一礼し、戸木沢先輩はどうもーと笑った。
……背の低い方は部長だった。
「えっと……どうも、滝崎聖人です。一年生です」
いまいち精彩に欠ける調子になってしまったが、思えば俺はいつもこんな調子だから今更気にしても仕方がないか。
あと、戸木沢先輩の視線が気になる。何だか知らないがもの凄い一直線にじぃっと俺の顔に視線を当ててくる。何なんだ? なまじ焦点の曖昧な視線だからちょっと怖いんだが。
よろしく、と改めて会釈した古谷先輩は、俺の横に座る沢城先輩に笑いかけた。
「新入部員、いたんですね。おめでとうございます。――滝崎さんは、何を描かれるのですか?」
あ、と俺は言葉に詰まった。それは極めて真っ当かつ自然な問いだった。だが俺は、それに対する当然の回答ができない。何せ目的が目的だ。とはいえそこのところをはっきり明言してしまうのも憚られる気がした。体のいい返事も用意していない。言い淀んでいる俺を見て、古谷先輩は不思議そうに首を傾げつつ「絵ではないのですか? では彫刻か、陶芸か、それとも?」そのどれでもないんですよねえ。
「滝崎くんはね、美術部員だけど……絵とか彫刻とかは、やってないんだよね」
困っている俺を見かねてか、沢城先輩が助け舟を出してくれた。とはいえそれで状況が好転するわけでもない。案の定、古谷先輩は、は? という顔になった。無理もない。
「その……何と言うか、目的が、ありまして」
「はあ、目的ですか」
「ええ……探し物が、あって」
「探し物?」
首を傾げる古谷先輩に、俺は鞄から例のものを抜き出して、手渡した。
沢城先輩にも見せた、あの『青』の写真だ。
受け取った古谷先輩は少しの間それをじっと見てから、上目がちな視線をこちらに寄越す。
「綺麗な絵ですね……これは?」
「『永遠の青』っていう題の、絵です。俺の卒業した中学に飾られてるんですけど、誰が描いたのかがわかっていなくて。で、俺はその描き手を探してるんです」
「成程」
短く応じて、古谷先輩は再び写真に視線を落とした。目を細める。俺は抑えきれずに逸る自身の鼓動を感じながら、訊いた。
「何か……心当たりとか、ありませんか?」
時間にすれば、数秒だったろう。だが俺にとってはその倍以上の長さに感じられる沈黙が過ぎ――古谷先輩はゆっくりと首を振った。
「御免なさい、私は初めて見る絵ですね。写真なのでやや見にくいですが、筆遣いにも心当たりは……」
「……そうですか」
「すみません、お力添えできず」
あからさまに肩を落としてしまった俺に、申し訳なさそうに古谷先輩は頭を下げるが、いえ、と俺は手を振る。もともと、真っ暗闇を手探りで彷徨っているようなものなのだ。ともすれば一生、当てもないまま終わる可能性の方が高いだろう。
部長は、と古谷先輩が横でぼんやり座っている戸木沢先輩に写真を見せる。だがこれには戸木沢先輩も、ものの数秒で首を振った。
「いいやー、私もこの絵には見覚えないなあ」
完全に外れ、だろう。
「…………」
ん?
「えーっと、それじゃあ、まあ文化祭の打ち合わせをしようか。まず今年うちの部に生徒会から割り当てられた仕事なんだけど――」
沢城先輩が切り出し、古谷先輩も応じて沢城先輩へ顔を向ける。幸いにして、ひたすら俺の顔を見つめていた戸木沢先輩も沢城先輩へ視線を向けた。そして今度は沢城先輩をひたむきに見つめている――何だろう、癖か何かなのだろうか。慣れているのか、沢城先輩は動じていない。
そこから交わされていく会話は、俺にはわからない話だ。一応断っておくと、それは俺が冷たいだとか、士気が足りないとかではなく、半ば専門的な話であったり具体的な作業(当然、美術)の話であったりするために参加しようにもできないだけだ。俺の仕事はおよそ、当日の店番だけ。だから、この打ち合わせのほとんどにおいて俺は暇を持て余すことになっている。
「…………」
だからすることのないこの時間、俺は確認をするべきかどうか考えていた。