よろしくお願いします
「さっきもちょっと言ったけど、私、同級生の男子に告白されたんだよね。それが大体、先々週のこと」
やや座りを直した園田先輩が話し始める。俺はそろそろいいかと思って鼻に詰めていた両のティッシュを引き抜いた。どろり、と落ちてくるのはせき止められていた分のそれだけで、やはり血そのものは止まっているようだ。全部ティッシュに丸めて捨てる。
しかし、先々週か。ということは、園田先輩に告白した男子はもう二週間もそわそわして過ごしているのか。
憐れ。
「ちなみにそれ、方法は直接ですか、紙面ですか」
「しめん、って、ラブレターってこと? ううん、違うよ。靴箱に手紙が入ってはいたけど、そのあと呼び出された校舎裏で告られた。それが?」
「いえ、別に」
統也ではないが、ちょっとした興味だ。続けてくれ、と俺は手で先を促す。
「でね、直接告られたわけなんだけど、実は私、誰かに告白されたのって生まれて初めてでさ! すっごい嬉しかったけどすっごいテンパっちゃって。で、咄嗟に『しばらく考えさせて!』って言っちゃったのよ」
はあ。言っちゃったんですか。
それで二週間も経ってるんだが……これ、もう既に相手が静かに諦めていたりもするんじゃないか?
「それで、困っているのはその告白を受けようか、それとも断ろうかってことなんですよね」
「うん、そだよ」
統也の確認に、園田先輩は至極軽い調子で頷く。その上で、ふたりはなぜか俺の方を見た。――どうやら話はこれで全てのようで、恐れていたほど長い話ではなかったようだが、しかし園田先輩はともかくなぜお前まで俺を見るんだ統也。
「――まあ、話は聞きましたけど。それで、先輩は俺たちにどうしてほしいんです? 相談というのはわかりましたが、正直俺たちはその男子のことはおろか、園田先輩のことだってよく知らないんですよ」
下手に知ったような口をきいて話がこじれるなどたまったものではない。馬に蹴られて死にたくもない。
えっとね、と園田先輩は顎に指先を添えて虚空を睨んだ。
「私が彼と付き合った方がいいのか、それともやめておいた方がいいのか、意見? を聞かせてほしいの」
だから、あんたのこともその男子のこともろくに知らんのだから、それができないという話なんだろうが。
俺は頭を掻き毟りたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえた。
はあ、と何度目になるかもわからないため息をつく。
もう、どうにでもなってしまえ。
「……付き合うかやめておくかを悩んでいるっていうことは、園田先輩は別に、その男子に対して好意はない、ということですよね」
「うん、そうだね。別にない。だって私、告白されたときに彼と初めて話したんだもん」
「クラスは同じで?」
「ううん、ふたつ隣」
ふたつ隣のクラスで、どこに接点があったんだろう。それまで接点なくして告白にまで至った男子の心情は驚嘆に値するが。
まさか罰ゲームか何かじゃないだろうな。
「迷っているわけだから、園田先輩自身に意中の相手がいる、ということもないんですよね」
「いちゅう……? ああ、好きな人ね。うん、いないよ」
さっきからきみ、変な言葉好きだねえと園田先輩は笑った。
失敬な。どこが変なものか。
……しかし、
「面倒くさい……」
「え?」
「いえ」
つまりは、どっちの心情に転ぶにしても、これといった決定打に欠ける、ということか。それならば、と俺の場合、どちらの方がメリットが多く、デメリットが少ないかと要素を列挙して考えてしまうところだろうが、果たしてそれでいいものだろうか。
対外的に、という意味もあるが、人道的に。
……考えすぎ、か? もっと純粋に、感情的に考えるべきだというのは、いささかロマンティックに過ぎるのだろうか。いや、そもそも感情論に向かうならば、前提、付き合うべきか否かという条件からして不可だろう。
「迷うくらいなら、園田先輩もその男子に告白されて、まんざらでもない気分なんですよね。それだけじゃ、付き合うところまでは行かないんですか?」
行かないんだろうな、と訊きながらも思っていた。テンパっていたにも関わらず、咄嗟に出てくる答えが「しばらく考えさせて」では。案の定、園田先輩は頷いた。
「もともと全然知らない人だったっていうのもあるけど、正直彼って、全く私の好みのタイプじゃないんだよねー」
それはどうしようもないな。俺はまるで見知らぬ先輩男子に同情する。これでは全く目がない。
そう、全く。
「それなら迷うまでもなく、断ればいいんじゃないですか。好きでも嫌いでもないけれど、好みじゃないって言うのなら」
その『好み』が容姿と性格のどちらに向かっているのかはわからないが(まあ全然知らない人だったのだから性格ということもないだろうけれど)、実際に交際を始めてから一番どうでもよくなるのが容姿であったという話も聞いたことがある。面倒だから言わないが。
ところが、うーん、と小首を傾げた後の園田先輩の台詞は、俺の度胆を派手に抜いた。
「でもねえ……折角告白されたのに、フッちゃったらもったいないと思わない?」
「…………は?」
何と言った、今。
もったいない、だって?
「だってさ、こういう機会、次いつ来るかわからないじゃん。それなら、別に好きでもなくても試しに付き合ってみてもいいのかな、って。やっぱり駄目だと思ったら、それから別れればいいわけだし」
くらっときた。そして間髪入れずにかっと、なりかけた。椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり声を荒げかけあわや鼻血を再噴出する危険を冒す寸前で、自制した。
結果、俺はぐっと息を呑んだまま座っている。
――カルチャーショック、という奴だろう。
それが男女間によるものか、この歳頃の若者の思考法と俺とがずれているだけなのかは判別できないが、とにかくそう自分に言い聞かせることで俺は俺を制した。
――それでも。
消しきれない燻りが残る俺は、まだまだ幼いのだな、と思う。
ふん、まあ、いいじゃないか。まだ高校に入学したてなのだ。幼くて当たり前だろう。
「――園田先輩は」
「うん? なにかな」
小首を傾げる園田先輩に、俺は唇を舐めて湿らせて、こう訊いた。
「園田先輩は、人を好きになったことはありますか」
我ながら一体何を訊いているんだろうと頭を抱えたくなったが、園田先輩の方は特に違和感を覚えることもなかったようで、
「そりゃまあ、あるよ。初恋は小学三年生のとき」
そうですか、と俺は頷いた。曲がりなりにも『異性へ向けた好意』に覚えがあるのなら、それでいい。それを聞いた上で、ひとつ問いたい。
「園田先輩は、恋人にする相手は誰でもいいタイプ、ですか」
「え?」
少々率直に過ぎただろうか。園田先輩は軽く眉根を寄せつつも、「別に誰でもってわけじゃ……」と答える。
「ではこう訊きましょう。園田先輩は、その男子と恋愛がしたいのですか。それとも、ただ彼氏が欲しいだけなのですか」
言ってて恥ずかしくなってきた。何というか、あまりに初心に過ぎないか。
だがそれを大事に思うことは事実だ。
「ここまで園田先輩の話を聞いての、俺の理解の話になりますけど……園田先輩は、少なくともその男子を好きであるということはないんですよね。その上で交際を始めるというのであれば、つまり園田先輩はこう考えているわけですか。『誰でもいいけどとりあえず彼氏が欲しい。ステータスとして、あるいは経験値、ステップとして』」
これも極端な言い様だ。『告白されたから付き合ってみた』なんて話、世間に聞けば掃いて捨てるほどあるだろう。そこまで眉を顰められるような価値観でもあるまい。
ただ、俺が気に入らないというだけで。
「ステップって」実際、園田先輩は嫌悪感を明らかにしながら反論した。「そんなんじゃないよ」
「ではその男子と恋愛がしたいのですか」
「それは……でも、実際付き合ってみれば好きになるかもしれないじゃん」
「なら付き合ってみればいいでしょう」
俺の即答に、ぐ、と園田先輩は言葉に詰まった。
なぜ詰まる? そういうことだろう。
「本気で『好きになるかもしれない』と思っているのなら、試してみるといいんですよ。本当にそうなれば誰ひとり不幸にならない。でもそうならなければ、園田先輩にとっても、その男子にとってもこの上ない時間の無駄です。もったいないからという理由だけでは到底長続きしないでしょう」
「む、無駄にはならないんじゃない?」
「ではやはり、その男子との『試験的恋愛』はステップでしたか」
「それも違うけど……」
「じゃあ何なのですか」
間髪言わずに、園田先輩を追い詰める。だが……本当に『じゃあ何なんだ』と言いたいのは、むしろ園田先輩の方だろう。
これは全く相談になっていない。一歩も前に進んでいない。
ただ、堂々巡りしているだけだ。
「俺は別に、何がよくて何が悪いって言いたいわけじゃないです。その男子を人生のステップにしようと割り切るのならば、それで結構」男子にとっては堪ったものではないだろうが。「それをよくないことだと思うのなら、断った方がいいんじゃないかと、俺はそう思います」
以上。
と締めることはしなかったものの、言うだけのことを言って満足した俺は口を閉じた。あとは園田先輩の反応を待つばかり――いや、本来は待つ必要だってないはずなんだが。
園田先輩は、やや俯き加減で唇を浅く噛んでいる。考えているのか、悩んでいるのか、迷っているのか。はたまた怒っているのか、傷ついているのか。いずれにせよ、すぐには言葉が出ないようだ。
俺は俺で、言いながらやや熱くなり過ぎていたことに気付いた。横を見ると、統也は反対側へ顔を向けて肩を震わせていた。
……いやいや、おい。何がおかしい。
「――話は終わったかな」
と、口を開いたのは、必死で笑いを噛み殺す統也でも、それにむっとした俺でも、まだ反応を見せない園田先輩でもなく、となると残るひとり、沢城先輩だった。
「まあ、いろいろ盛り上がってたみたいだけれど。何だかんだ言ったって、決めるのは結局夕海なんだから、精々悩みなさい」
と、俺に目配せしながら総括するようなことを言う。それは俺が言わなければならず、しかし俺では言うことのできない台詞でもあった。助け舟、ということだろう。
でも、と園田先輩は顔を上げて歩いてくる沢城先輩を見るが、それ以上は唇を震わせるだけで何も言葉にならないようだ。
「タッキー、ちょっと言葉が強過ぎたんじゃない? 言いたいことはわかったけどさ」
統也の耳打ちに、俺は顔を顰めた。そんなことは、わかってるさ。
「――すみません、園田先輩。もう少し言葉を選ぶべきでした。気に入らなかったら忘れてください」
そう言って、軽く頭を下げる。
力になれなくてすみません、と。
対して園田先輩は、ううん、と首を振り、ぎこちなくではあるが笑みを見せた。
「こっちこそ、やっぱりいきなり強引に相談しちゃったし、御免ね」
一応は、それで緊張していた空気が緩む。これ以上の事態と心証の悪化は防ぐことはできた、か?
「よしよし、ちゃんと終わったね。それじゃあ――どうぞ」
お近づきの印に、などと言いながら、ぽんと沢城先輩は俺に何かを手渡した。反射的に受け取ってしまったそれを、俺はまじまじと見つめる。沢城先輩はそのまま、統也と園田先輩にも同じものを渡していく。
林檎だ。四分割された一かけら。
見ると、先程まで机の上で被写体になっていた林檎がなくなっている。
「季節のものじゃないからそんなに美味しくないかもしれないけどね。遠慮しなくていいよ」
言いながら沢城先輩がシャクシャクと齧り始める。園田先輩も言われる前から既に食べ始めていて、もしかしたらこれも恒例行事なのだろうか。同意を求める気持ちで横を見ると、統也も遠慮なく齧っていた。おい。
「…………」
俺は少しの間林檎を見つめていたが、やがて観念して一口齧った。
シャリ。
「園田先輩は美術部じゃないんでしたよね。じゃあ、何の部に入っているんです?」
「私? 私は弓道部だよ」
「へえ、かっこいいですね! でも東高に弓道場なんてありましたっけ?」
「割と近いところにスポーツ公園みたいなところがあってね、そこに弓道場もあるんだよ――」
統也と園田先輩が他愛のない話を始めてくれたおかげで。俺はようやく会話から離脱できた。これも統也のアシストだとは思いたくないが、とにかくもそれで俺は先程の、相談とも口論ともつかない会話の気分を、払うことができた。
「――本当に、御免ね。いきなりこんな感じになっちゃって」
と、小声で話しかけてきたのは、俺の横に立つ沢城先輩だった。俺は完全にこの場の雰囲気から抜け出していた気分だったので、心臓が跳ねる。
「い、いえ」
「夕海もそんなに悪い子じゃないんだよ。ただなんて言うか……うん。正直に言って、私も『とっかえひっかえ』みたいな考え方は好きじゃない。でも割とその考え方って普通だったりするんだよ」
訥々と沢城先輩は言う。何の話をしているのかと思ったが、考えるまでもない、先程の話だ。
それも、内心では俺と同意見だ、という。
「まあ、女子高生って奴なのかな。恋愛とか、友情とか。人の縁っていうものを意識的に切ったり繋いだりすることを厭わない」
「……それは」
俺は沢城先輩を見ないままに口を挟んだ。
「それは別に、女子高生に限ったことではないと思います。男子でも」
「あ、そうなんだ?」
「……多分」
確認したことはない。少なくとも俺に、プレイボーイな友人はいたことがないから。
でも、友達百人、とか平然と言ってのけてしまえるような人間の人の縁は、繋がりやすく切れやすいものなんだろうと。
そう思う。
「――そういえば、廊下の壁にたくさん飾られてる林檎の絵って、あれは何なんですか」
「ん、何って?」
「いや、その……あれを描くことが、この美術部の伝統とか、そういうものなのかなって」
もしそれが入部の条件だったりなどしたら、俺はここまで来て入部を断念することになってしまうのだが……果たして沢城先輩は、「何それ」と笑った。
「伝統とか、そういうものではないよ。あれは私の個人的な趣味」
「ああ、そうなんですか……」
それは安心だ。俺まで描く必要はないということだから――個人的な趣味?
「それじゃあ、まさかあの林檎の絵って、全部沢城先輩が描いたんですか?」
「うん。そうだよ」
実に軽い調子で、沢城先輩は頷いた。
本当か。途方もない数があったが。
「林檎はね、まあ、習慣というか、ルーチンワークだね。去年の、いつからだったかな……一日一枚、林檎の絵を描くことに決めて、ね。今のところちゃんと毎日描き続けてるよ」
今日もほら、と沢城先輩は先程まで向かっていたキャンバスを示す。「今日は水彩」という言葉とともに見たそれは、確かに水彩の、静物画だった。俺たちがもう食べ終えてしまった林檎が、そこに描かれている。
感想は、言葉にならなかった。
それはただの林檎の絵であるはずなのに、何か、響くものがあった。
そして、俺の中で引っかかる、小さなもの。
言葉を失っている俺に気付いているのかいないのか、沢城先輩は小さく笑った。
「まあ、何はともあれ、ありがとうね。参考になったと思う」
「そうですか? 何の役にも立たなかったと思いますが……」
「いやいや、夕海も思うところあるはずだよ。――で、もの凄い今更なんだけれど、あなたたちは美術部に何の用で来たんだっけ」
「ああ……」
そう言えば、その点についてここまで全く触れていなかった。自己紹介まではしたものの、俺が用件を切り出す前に統也が園田先輩が何を騒いでいたのか訊き始めていたし。
それでなくとも、鼻血のせいでそれどころではなかったのだが。
「迷惑かけた謝礼と、相談に付き合ってくれたお礼、ってことで、何かある?」
「いえ……そういうのは、いいんですが」
そもそも俺は、という話。
「美術部に入部、しに来たんですよ、俺」
「え?」
は? という疑問符全開の表情で俺を見る沢城先輩。完全に虚を突かれた顔だ。
「なに?」
「え、いや、だから、入部」
鞄から入部届を取り出して、沢城先輩に見せる。まだ得心いってない顔でそれを受け取り、数秒まじまじと見て、
「え……?」
「何で猜疑心全開なんですか。本物ですよ、それ」
「あ、うん、御免御免、ちょっとびっくりしちゃって……え、入部?」
沢城先輩は、それでもまだ疑わしそうな顔だ。矯めつ眇めつ、入部届を眺める。
「入部希望者なんてびっくりだよ……見学にだって、ひとりかふたりしか来なかったくらいだから」
「あ、それって僕ですよ」
沢城先輩の言葉を聞きつけた統也が己の顔を指さしながら口を挟んできた。え? と沢城先輩は統也の顔を改めて見て、
「あー……そう、だったかな。御免、ちょっとぴんと来ないけれど。――ん、あなたも入部希望なの?」
覚えていない、という旨の沢城先輩の言葉にちょっと肩を落としながらも、統也は首を振る。
「いえ、僕は違います。すみませんけど。入部希望はタッキーだけです」
「そっか。いや、いいんだけどね。むしろひとりでもいたことに驚きで……」
「どうしてそんなに驚くんです?」
俺は問うた。いくらなんでも、そんなに驚くようなことではないはずだ。美術部と言えば、文芸部や音楽部と並んで文化系ではメジャーな部活動のはずだ。だが、いやー、と沢城先輩は苦笑する。
「何だろうね。偶然なんだろうけど、私の代もそうだし、いっこ上にも先輩ひとりもいなくてね。二個上にはひとりだったし、美術部って人気ないんだなーって」
「そんなことないんじゃ……」
とは言ったものの、そういうタイミング、というものはあるんだろうな、とは思う。
ふーん、と沢城先輩はまだ物珍しそうに入部届を見ていたが、やがてにっと笑った。
「ともあれ、まあ、入部してくれるのは有り難いことだよ。歓迎するよ、滝崎くん」
そう言って、入部届を俺へ返してくるが、
「あ、それにサインしてもらいたいんですが」
「サイン?」
返しかけた入部届を戻し、それをしげしげと眺めてから、ああ、と先輩は得心いったように頷いた。
「そうだね。こんなのもあったあった――面倒だよねえ。まあ、強制的に顔合わせができるわけだからね。活動の義務付けを、学校側はこれで果たしたつもりなんだろうけれど」
言いながら、先輩はこの美術室に数基しかない机の方へ向かう。林檎を描いていたときに座っていた椅子の横に置かれている机だ。その机の横には、先輩のものであろう鞄も引っかかっている。
「一年生かあ……ふふ、後輩くんだね。ちなみに、滝崎くんは何をするの? 絵かな。ここは見ての通り、陶芸なんかもできるけど」
「あー……それなんですが」
「あ、それなんですけどね、沢城先輩。タッキーは、実はとある絵を探してるんですよ」
「うん?」
いらん口を挟んだ統也を睨むも、統也は悪びれなく舌など出してみせた。余計なことを。
「絵って?」
「……正確には、絵の描き手、なんですけどね」
やむなく、俺は鞄を探って一枚の紙片を取り出す。一応、と思って持ってきていたもの。
写真だ。
「この絵、なんですけど」
「ん、ちょっと待ってね」
応じて沢城先輩は入部届を持ったままこちらに戻って来る。どれどれ、と空いた手で、沢城先輩は俺の手から写真を受け取った。
そして、軽く目を見開き、固まった。
「――これって」
「え、なになに?」
沢城先輩の横手から、ひょいと園田先輩も覗き込んだ。そして、「おー」と感嘆の声を上げる。
「すっごい綺麗な絵だねえ。誰の絵?」
「いや、ですから、それを探しているんですよ、タッキーは」
やはりどこか抜けたことを言う園田先輩に統也が苦笑交じりで返す。統也は俺と同じ中学校の出身だから、その絵のことは見るまでもなく知っているわけだが。
それよりも、沢城先輩だ。その写真を見た瞬間の反応。これは、
――何か、知っている?
「……これは?」
ようやくもれた沢城先輩の言葉は、疑問だった。対して俺は、堂々と答えた。
「俺が卒業した中学に飾られている絵の写真です」
「……絵の」
言われて、沢城先輩は横の園田先輩とともに改めてそれを見下ろす。
それは、『青』だった。
写真に撮ってしまっているので大きさはわかりにくいが、相当に大きな絵だ。
その全面が、『青』。
それも、『青』一色というわけではない。
青、蒼、藍、碧。
ありとあらゆる『あお』が、その絵に封じ込められていた。
描いているのは、恐らくは空想の世界だろう。
大空と大海。
その境界を遠く臨み、ひとり、少女が立っている。
そんな、世界。
「……『永遠の青』」
ぽつり、と沢城先輩が呟いた。その言葉を聞き拾って、俺は驚く。
「知ってるんですか?」
「はるにゃん、知ってるの、これ?」
園田先輩と、期待すらも込められた俺の言葉に、沢城先輩は曖昧な笑みを見せた。
「まあ、ね。知っているというほどではないけれど、見たことはあるよ。確か、第三中学にあるんだよね。滝崎くん、あなた、もしかして第三中学出身?」
はい、と俺は頷く。そうなんだ、と沢城先輩は返す。
これは。
俺が一番知りたいことだ。
「これを描いた人が誰なのか、知りたいんです。知りませんか」
『永遠の青』と題された、一枚の絵。その作成者は、不明となっていた。
他にも学内には絵が飾られていて、それらには必ず描き手の名が残されている。けれど、その絵にだけはどういうわけか、名がなかった。学校の誰に訊いても、わからなかった。
わかっているのは、それが古い、少なくとも十年以上は遡るものであるということ。
そして、第三中学の美術部員だった、ということ。
それだけだ。
実質、何もわからないに等しい。
だけれども、俺は知りたかったのだ。
だから沢城先輩の反応を見て、俺はいきなり当たりを引いたのかと柄にもなく期待に胸を躍らせてしまったのだが、果たして沢城先輩は、
「……いいや」
短い間を置いて、そう答えた。
「残念ながら、私も見たことがあるだけで、詳しいことはわからない、かな」
沢城先輩は、言葉の端々を妙に濁していたが、外れた、という落胆に気を落としていた俺は特に気を止めることもなかった。
まあ、いきなり当たるというのも虫のよすぎる話だ。
「……それが誰に描かれたものなのか、どこかでわかるかもしれない。少なくとも美術部に身を置いていれば、どこかで。だから、その……美術部的な、絵を描くとかそういった活動は、実のところしないと思います」
美術部に入部するのは、美術活動をするためではなく、個人的な目的のため。
ここで明言したのは、まあ半分は統也の余計な一言のせいでもあるが、あとあとのことも考えてのことだ。何せ、俺には絵のセンスがまるでない。いざ初めてみて自分の壊滅的な美術センスに嫌気がさす、なんてのは嫌だ。
極端な話、ふざけるな、出ていけと怒鳴られてもおかしくなさそうなわけだが。少なくとも、その理由くらいは訊かれるものと身構えていたのだが――沢城先輩は、これまた驚くほどあっさりと頷いたのだった。
「うん、そっか。私は力になれないけど、上手く見つかるといいね」
「え……いいんですか? こんな不純な動機で?」
思わず俺がそう訊いてしまった。沢城先輩も苦笑で、「それをあなたが言うの?」と返す。
「不純でも何でも、美術部に入部してくれるのは有り難いことだからね。なにせここは弱小だ――それに、それでなくてもここには夕海が入り浸ってたりするし」
名の挙げられた園田先輩は、いえーいなどとピースサインを向けてくる。
……正直、鬱陶しいが。
「あ、それなら僕もここに来てもいいんですかね」
ぴこーんと手を上げた統也にも、沢城先輩は快く頷いた。
「勿論、歓迎するよ。と言っても、別段何ができるわけでもないけれど……こんなところでよければ、ね」
そんなことを言いながら、沢城先輩は俺に写真を返し、先程向かっていた机に戻る。そこで筆を取り、さらさらとプリントに署名する、が……あ、あ、ああ……いいのか、それ。
「はい、できたよ」
「あ、有り難うございます」
受け取って、俺はやや引き気味の表情でそれを見下ろす。ん? と不思議そうな表情になった沢城先輩に、俺はどんな顔になったものか思案しながら、
「何と言うか……血判、みたいですね」
紙面に踊る赤色が。
思いのほか達者な字で書かれたその名前は、沢城先輩が何気なく拾い上げられた絵筆でそのまま書かれ――つい先程まで描いていたその筆には、当然絵の具が染み込んでいるわけで。
そしてその色は、目も覚めるような真紅だった。
「おお、成程、血判ね……言われて見れば、見えなくもない」
感心したように俺の手に渡った己の筆跡を見て唸ると、沢城先輩は何かを思いついたように再び俺の手からプリントを取ると、また机の方へ戻って行った。
「印鑑とかはいらないんだろうけれどね……」
言いながら何をするのかと思えば、いやもうおよそ予想はついていたのだが、沢城先輩は自分の親指に署名したのと同じ赤色を塗りたくると――ぶちゅ、とサインの横に押し付けた。
捺印した。
「ほら、どうだい。これで完璧に血判だ」
いや、血判だったらインクは絵の具じゃなくて鮮血です、と思わず言いかけたが、言ったらこの先輩は本当にそれを検討しかねないと思い、呑み込んだ。
「活動はほぼ毎日だよ。鍵は職員室にある。先に入る方が鍵当番としようか。――うん、今はとりあえずそんなところかな。今日はもう帰るの?」
問いに、俺は頷いた。サインをもらったのだから、今度はそれを担任に提出しなければならない。
「うん、そっか。――それじゃあ、まあ、新入部員くん。これからよろしく」
す、と右手が差し出される。――握手か。こういう場面で握手が求められるのは、将来的には普通のことなのかもしれないが、この歳までにそれが求められることはなかなかないので俺はちょっと驚いて、反射的に素直にその手を握ってしまった。
「改めて、私は沢城小春。二年生だよ。よろしくね、滝崎くん」
「あ、はい。一年生の滝崎聖人です。よろしくお願いします」
初めて聞くはずの名だったが、どこかで聞いたことがあるような気もした。大方、統也あたりから聞いたのだろうが……それから、気づいた。
沢城先輩もようやく気付いたのだろう。あ、という顔になって、未だ握られたままの手を見下ろした。
「御免ね、滝崎くん」
「…………」
「さっき捺印した手で握っちゃった。絵の具がべったり」
「……いえ」
そんな気は、していたんだ。