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空色パレット、海色キャンバス  作者: FRIDAY
壱 赤色林檎
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即死系の呪文、的な

「――本当に、申し訳ないです……」

 椅子に座って小さくなっているのは園田(そのだ)夕海(ゆうみ)と名乗った女子生徒だ。上級生であり、俺の顔面に戸をぶち当てた加害者でもある。


「いや、いいですよ。済んだことですし」

 本当は全く怒ってないこともないのだが、ここはこう答えるしかあるまい。鼻に詰め物をした上に押さえているため籠った声で俺は応じる。

「ま、タッキーの油断と言えば油断だよね。いくら緊張してたからって、ねえ」

 へらへらといらんことを言う統也を睨んで黙らせる。緊張? と首を傾げる女子ふたりに、何でもないと手を振る。


 それにしても、氷嚢が邪魔だ……保健室から戻ってきた園田先輩が持ってきたのは、氷嚢だった。スポーツ選手がアイシングで使うような、あれだ。俺も中学校時代、使ったことがある。

 だが間違っても鼻に使うものではあるまい。

 まだ見ぬ保健室の先生が、鼻血と聞いて氷嚢を出す人じゃないことを、園田先輩の説明が悪かったということを切に願う。

 でもこの氷嚢って、中に氷水入れてるんだよな……。


「美術室の戸は曇りガラスだからね。廊下が暗いと、向こう側が全く見えなくなるから」

 そう言うのは、俺にティッシュをくれた方の先輩だ。椅子を並べて座る俺らの対面ではなく、園田先輩の向こう、イーゼルに立てたキャンバスの前に座っている。

 沢城小春。

 そう名乗った。


「ええと、園田先輩に沢城先輩、でしたよね。改めて、僕は一年の宮本統也、こっちの鼻血吹いた方が同じく一年の滝崎(たきざき)聖人(まさと)です。――ふたりとも、美術部で?」

「ううん。美術部ははるにゃんだけ」

 統也の問いに首を振って答えたのは園田先輩だった。はるにゃん?

 向こうで沢城先輩が苦笑しているところを見ると、やはりそれは沢城先輩の呼び名らしい。

 はるにゃん。

 ……にゃん、て。

 成程、と頷きながらも、統也もやや笑いそうになっている。俺は氷嚢で顔面のほとんどを覆っているから表情は見えないだろうが、どのみち顔を変える余裕などない。ん? と首を傾げているのは園田先輩だけで、この人は天然なのか馬鹿なのか。


 ふたりとも二年生、つまりは俺たちのひとつ上の学年に当たる。身長は恐らく年相応。校則通りにふたりとも髪は黒で、園田先輩の髪は肩に達するくらいのところで揃えられている。垂れ目がちなのか、何だか緩い人にも見える。少なくともここまでのやり取りを踏まえて、頭の回る方の人ではないだろう。

 対して沢城先輩は、確かに美術部なのだろう、それらしい格好をしていた。絵を描いている最中だったらしく、黒髪をポニーテールに結っている。絵を描くことを再開しているらしい両手にはそれぞれパレットと絵筆を持っていて、絵の具で制服を汚さないためだろう、黒のエプロンをしている。目鼻立ちはすっきりとしていて、しっかりと芯のありそうな瞳から、それに園田先輩と並べてみていることもあるのかもしれないが、理知的な人間に見えた。


 そしてその沢城先輩と対面して据えられているキャンバスの向こう、沢城先輩が描いている対象物が置いてあるわけだが。

 机の上に、赤鮮やかな林檎がひとつ。

「…………」

 林檎か。


「随分慌てた様子でしたよね、園田先輩。その勢いでタッキーは鼻血吹いたわけですけど――」

「御免なさい……」

「いえいえ」

 一層小さくなる園田先輩に、統也が朗らかに手を振る。いやいや。

 お前が応じるなよ。

「でも、何を急いでたんですか? よっぽど危急だったんじゃないかと思いますけど、どこかに向かう途中だったのならむしろ僕らが謝罪しなくちゃならないでしょうし」

 統也の言葉に、しかし園田先輩は全力で首を横に振った。

「い、急いでたわけじゃないんだ! でも、その、ただ……」

 急速に勢いが失われていく。最後には完全にフェードアウトした。何か言いにくいことなのだろうか。

 俺と統也が首を傾げていると、また向こうの沢城先輩が苦笑しながら引き継いだ。

「夕海はね、逃げ出したんだよね」

「ちょ、ちょっとはるにゃん⁉」

「え、逃げ出した? 何からですか?」

 沢城先輩の言葉に園田先輩は大いに慌て、統也はすかさず問い返す。また余計な好奇心を、と俺は統也に対して内心で顔を顰める。


 統也が余計なことばかり詳しいのは、その無用なまでの好奇心というか、知りたがりであることが関係しているんだろう。少しでも気になればすぐに調べる、問う。俺は今でも覚えているが、統也は中学校時代、常に広辞苑を携えていた。あんな重い物をいつも鞄に入れて運搬していたのだ、足腰がさぞかし強くなったことだろう。そして統也は、知らない言葉が現れればすぐさまその場で引いていた――今ではさすがにそこまでのことはしていないが、時代は変わり、科学は進歩し、統也はスマートフォンなるデバイスを手に入れた。今ではそれがかつての広辞苑の役割を、さらに射程距離を拡大して担っているわけだ。それは確かに、どちらかと言えば立派な志向と言えよう。しかもその上で逐一記憶できているのだから大したものだ。

 しかし、俺はそれに素直な賞賛を送りつつも、やはり『余計』だと思う。

 生きるために最低限の知識、知恵。それだけあれば十分だろう。

 広範深淵な知見は確かに、あればあるで人生は豊かになっていくのかもしれないが、別に人生は豊かである必要はないのだ。

 生まれて、生きて、死んでいく。

 それだけなのだから。


 ――と、まあ御託はともかく、おおよそそんな理由で、俺は統也と園田先輩の話は聞かなかった。聞き流していく。

 そもそも俺はここに入部届にサインしてもらおうとしてやって来たのだ。さっさと終わらせて帰りたい――とはいえ話は始まってしまっているようだし、他にすることがあるわけではないので、美術部の部室内をぼんやりと眺める。


 やはり広い教室だ。一般に授業で使われる教室の一・五倍はあるか。四人でも完全にもてあます広さだが、それでも四割近くには物が置かれている。それは既に描かれたキャンバスの列であったり、石膏像であったり、筆やパレット、イーゼルのような美術用具であったり――ろくろまであるな。誰か陶芸でもやるのか?

 壁には一面に木を打ちっぱなしたような棚。そこにもずらりと様々なものが一見不規則に並んでいる。絵の具の瓶やペンキの缶などが多いが、金槌や釘のような工具らしきものもちらほら。隅には大判で厚い冊子が並んでいる。美術関係のものだろうか。最も端の柱には杭が飛び出ていて、数着のエプロンが掛けられている。

 教室は西向きらしく、この時間はちょうど西日が強烈に差し込むため、薄地のカーテンが引かれていた。それでもまだ眩しいが、俺としてはこういう雰囲気は嫌いではない。

 また、よく見ると至るところに残っている色の筋、傷跡などから、ここで人が活き続けてきた歴史のようなものが垣間見えるようで――


「――ねえ、ちょっと、ザキくん? 聞いてるの?」

 気が付けば、園田先輩と統也がこちらを見ていた。

「え、いえ、すみません。聞いてませんでした――」ん、いやそれよりも、「――ザキくん?」

 って、もしかして俺のこと?

 と俺が自分を指さして疑問すると、園田先輩は何を当然のことをという顔で頷いた。

「きみ、滝崎くんでしょ。だからザキくん」

 ああ、なるほど、滝崎の『崎』ね――いやいや。

 成程、これが『はるにゃん』と呼ばれる沢城先輩の気分か。氷嚢の裏で渋い顔になる俺に対して、統也が半笑いで「即死系の呪文みたいだね」などと言ってきた。

 やかましい。


「酷いなあ、ザキくん……人の話はちゃんと聞こうって、小学校で習わなかった?」

「さて。園田先輩は習いましたか?」

「え? え、うーん……習った、と思うんだけど……」

 即応して反問すると、途端に自信のない反応をする園田先輩……何だか、何だかな。いや、さすがに失礼だよな。この人馬鹿だなとか思うのはな。仮にも先輩だしな。

 ふと見ると、向こうの沢城先輩は口許を手で覆い、反対側を向いて肩を震わせていた。


「冗談はともかく、聞いていなかったことは素直に謝ります。で、何です?」

「ああ。えっとね、何でも数日前に、園田先輩は同学年の男子に告白されたんだそうだ」

 うわ、色恋沙汰か。興味ねえ。

 途端に渋い顔になる俺だったが、幸か不幸かそれは氷嚢に隠れてしまい園田先輩には見えない。

 うん、と園田先輩はやや頬を赤らめながら頷く。

「はあ……そうですか。ええと、おめでとう、ございます?」疑問形になってしまったが、そんなことを開示されても返答に困る。「で、それが何か?」

「うん。あのね、それにどう返事したらいいのかなって」

 返事してねえのかよ。

「はあ……そうですか」だから何のコメントも出て来ないって。「その返事っていうのは、文言というか、台詞っていう意味ですか? どういう文面で応答したらいいのかと」

 困惑しながらも懸命に返す俺の言葉を聞いて、心なしか向こうの沢城先輩の肩の震えが大きくなった気がする。

 こっち向いて下さい。


「ううん、違うの」園田先輩は首を振った。「OKしようか、フッちゃおうかっていう返事」

「……へえ」そっちか。

 知らんがな。

「はあ……まあ、頑張ってください」

「ええ⁉ いやいや、ここまで話聞いたんだから、ザキくんも一緒に考えてよ!」

 ええ⁉

 と声こそ上げなかったが、強いて言うなら「はあ⁉」と怒気混じりに吼えたいくらいの気分だった。

 何で俺が? 全く無関係だろうが⁉ ザキより上位の呪文使ってやろうか? キーマカレーみたいな激辛の呪文をな!


 ところがあろうことか、統也の奴が横から「まあまあ」と口を挟んできた。

「乗り掛かった舟じゃないか。相談に乗るくらいいいんじゃない? 人助けだと思ってさ」

 人助けになど興味ない。

 と答えるとさすがに人でなしに過ぎると俺でも思ったので言わないが、言わないだけだ。

 何でドアごとタックルかまされて鼻血吹いた挙句その犯人の恋愛相談に乗らねばならんのか。

 乗り掛かった舟だろうが行先が違えば降りるだろう。


 しかし、だ……俺は深くため息をついて内心に天秤を用意する。

 園田先輩は聞いてほしくてうずうずしている様子だし、統也も面白がって聞く構えだ。沢城先輩だけはもう既に赤の他人のような顔で絵を描き続けているが、問題はそこだ。ここで頑なに園田先輩を流し、強引に沢城先輩に入部届のサインをもらうことは、やってできないことではないだろう。しかしそれはこの場にいる全員の心証を多少なりとも悪くすることも想像に難くない。まして俺は、ただ入部手続きだけを済ませて二度と再訪しないというわけではないのだ。今後ここにいにくくなるような事態は避けたい。それならば、面倒でも形だけは園田先輩の相談に乗って、その後で沢城先輩にサインしてもらうことの方が確実に平和で被害が少ないだろう。

 天秤は傾いた。いや、気は全く傾かないが。

 なに、別に真剣に親身にならなくてもいいのだ。適当なことを言って曖昧に煙に巻けばいい。


「――わかりましたよ。聞きます。それで、どういう詳細なんでしたっけ」

 大義である、という雰囲気は全面に押し出したのだが、いかんせん鼻に当てっぱなしの氷嚢のせいもあって園田先輩には全く伝わらない。「ほんと?」と明らかに表情を明るくして前のめりになった。

「ありがとうザキくん! きみは優しいね!」

 ザキくんと呼ぶのだけはせめてやめてもらえないだろうか。


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