お久し振りです
「――本当に、絵心がないなあ、俺」
絵筆を置いた俺は、自分の描き上げた絵を見て自嘲するように笑った。
二年間、こうして毎日描いているというのに、全然上達していない――いや、これでも始めたばかりの頃よりは上達しているはずだ、うん。だってほら、こうして眺めてみれば、何を描いたのかは判別できる。初めの頃はそれすら判然としなかったのだから。
「……まあ、こんなところかな」
ひとり、つぶやいて独りごちる。これが乾いたら、いつものところにまた置いてくる。俺は立ち上がり、果物ナイフを持ちながらモデルにしていたそれを取り上げた。
時間的にも、そろそろ来る頃だろう――と思っていたら案の定、勢いよく美術室の戸が引き開けられた。
「こんにちはー……あー、滝崎先輩、今日の分もう終わったんですか?」
美術室を一望してすぐに俺を見つけた彼女は、元気のいい声で言った。終わったよ、と応じながら俺はナイフを構える。
鞄を手近なところに放り投げた彼女は、いそいそとやってきて俺の絵を覗き込んだ。
「おー、滝崎先輩、上手になりましたねえ」
「そうか?」
「はい。ちゃんと林檎に見えます」
その物言いに、生意気な、と多少思いはするが、別に糾すこともしない。こいつは、そういう奴なのだ。
俺の唯一の後輩にして美術部の一年生、氷川柚奈という彼女は。
というかこいつ、そもそも相当に絵が上手いからな。中学までにも何度となく入賞を重ねているというし。
「林檎、林檎、林檎……本当に林檎が好きなんですねえ」
壁際から、割と雑に重ねられている俺の日々の努力を眺めて、氷川は言った。俺は剥き終えた林檎を割りながら、そうか? と返す。
「実を言うとそんなに好きでもないんだけどな」
「そうなんですか?」
「ああ。嫌いってわけでもないけど。俺は林檎よりも青が好きだ」
割った林檎のひとかけらを渡しながら言う。ふーん、と氷川はあまり興味なさそうだ。
「これ、前にも訊いたことありましたけど、この美術部の伝統なんですか」
「それは前にも答えたけど、別に伝統ってわけじゃ――いや、そうだな。伝統にするか」
今思いついて、今決めた。これからは、これをこの美術部の伝統にしてやろう。伝統と言うには歴史が浅い気もするが、なに、何事も始まりはそんなところだろう。
もとはといえば、俺の先輩のリハビリだったものを、俺も真似して何となく始めてみただけだったものだが。
「そういうわけで、お前もこれからはちゃんと描けよ。伝統なんだから」
「たった今始まった伝統でしょう、それ……それに、簡単に言いますけど、それって結構大変なんですよ? 滝崎先輩はそれだけ描いて満足して一日終わってますけど、それ描いてから他の絵も、ってなかなかできないんですから」
確かに、それは俺も、これをするようになってからようやくわかったことだ。一日一枚。言うのは簡単だが、実際にやるとなるとこれが相当難題だった。先輩は、これを欠かさずに続けた上に他の絵も描いていたのだから、今思うと脱帽だ。
「まあ、俺のは手遊びみたいなものだし。どれだけ頑張ったって、あんな青は描けないからな」
「ダメですよそんな、初めから諦めているようでは……しかし、青、青ですか」
言いながら、氷川は美術室のとある壁、そこに掛かっているものへ顔を向けた。
「滝崎先輩の絵はいつ見ても笑ってしまいますけど」「笑うな」傷つくだろ。「でもあの絵はいつ見ても、見惚れてしまいますよねえ」
ふう、と氷川が嘆息混じりに見る絵は、確かに、俺だって今でも、いつ見ても見惚れてしまう。
『青』の絵だ。
ああ、とその絵に見入っていた氷川は、ぽつりとつぶやくように言った。
「実を言うと、私、入学したばかりの頃って結構天狗になってまして」
「ああ、うん」
未だに、見た感じの態度は変わっていないが、入学したての頃はそんな感じはあった。だがそれも仕方がないだろう、中学校の時点で数々のコンクールに入賞していたのだから、得意になるだけの実力はあったのだ。
「それがどうかしたのか?」
「いえ……それがですね、ここの美術部に来たときも、大して凄い人がいたっていう噂も聞かなかったし、冷やかし半分で見に来たんですけど、そしたら」『青』の絵を指さす。「あの絵があって。見た瞬間、これは勝てないって思いましたね。自分じゃどうしたって、これほどの絵は描けないって」
凄い人がいるという噂――まあ確かに、先輩は結局コンクールには一度も出さずに卒業したからな。無理もない。そのお陰で、大学の実技試験で試験官を仰天させたという。
しかし、氷川にしては珍しい弱気な発言だ。俺は先程の仕返しとばかりに鼻で笑う。
「おいおい、初めから諦めているようじゃダメだって、さっきお前が言ったばかりだろう」
「滝崎先輩はもともと大したことないから、別にいいんですよ」「おい」「でも私くらい真剣にやって来た人間からしてみたら、こんなの……いっそずるいって思いますよ」
お前の天狗は抜けていない、と思ったが、生来の性格でもあるのだろう。そこは先輩として、大目に見てやる――それに、そんな奴が完敗を認めた相手が俺の先輩であるということが、ちょっと誇らしくもあった。
「題も作者名も書いてないんですけど、これ、滝崎先輩の先輩が描かれたんですよね。何て題でしたっけ」
「『最果ての青』」
俺は答えた。続けて、
「描いたのは、沢城小春先輩だ」
先の春に卒業したばかりのはずだが、もうずいぶん経った気がする。沢城先輩が卒業してから、一度も会っていない。
お互いに会おうとしていないというわけではなく、会おうにも会えないのだ。なにせ、沢城先輩は遠方の大学に進学したものだから。
有名な美大だ。
「いいなあ、いいなあ、滝崎先輩。私もあと一年早く生まれていればなあ。その先輩からいろいろ教えてもらえたのになあ」
「そりゃあ、残念だったな」
足をぱたぱた振りながら膨れる氷川をいなして、ついでにその前から林檎の残りを遠ざけた。
「あれ、滝崎先輩、とうとう私からその林檎すら奪うのですか」
「人聞きが悪い言い方をするな。――今日は客が来るんだよ」
先に連絡を受けていたのだ。今日は久々に、集まろうと。
ああ、と氷川は頷いた。
「宮本先輩と、園田先輩ですね。でも宮本先輩はしょっちゅう来ますし、園田先輩も結構よく来ますよね」
「……まあ、そうなんだが」
統也はまあ、いいとして。何で卒業した後も園田先輩がこの美術部に遊びに来るのかよくわからん。進学したのは確かに、ここから割と近い大学だけれど。美術部の卒業生じゃないのに。
「ふーん……すぐ来るんですか? 私、園田先輩たち好きですよ。賑やかで」
「俺は賑やかなのはあまり好きじゃないんだけどな……」
嫌いでも、ないけどな。
と、氷川がひょいと林檎の載った皿を覗き込んで、あれぇ、と言った。
「でも今日はちょっと大目に切り分けたんですね。あと三つもありますよ。間違えたんですか? 食べますよ?」
「やめんか」
伸ばした手先から林檎をかっさらう。なにを、と追撃しようとする氷川をかわしながら、俺は説明しようとする。
「間違えたんじゃない、今日はもうひとり来るんだよ」
「もうひとりって誰ですか。滝崎先輩、そんなに友達いないじゃないですか」
「失礼な」確かにいないが。「今日来るのは友達じゃなくってだな」
言いかけたとき、美術室の戸がノックもなく勢いよくけたたましく開いた。先の氷川を遥かに上回る勢いだ。いつも思うが、戸を壊す気かこの人は。――そんな開け方をする人など、ひとりしかいない。
「たのもー‼」
「園田先輩、最低限ノックくらいしてください」
俺が半眼で言うと、えへえへと園田先輩は照れた。照れるな。
「まあまあタッキー、久々に会うんだからそんなつれない言い方しないでよ」
ひょいと園田先輩の後ろから顔を出した統也が言う。だが俺はやはり素っ気なく、
「いや、園田先輩は先々週にも来てるし、お前も昨日来てただろうが」
「いやいや、だからこそ今日も無事に巡り合えたことをだね」
「やかましい」
冷たい……と統也は涙を拭うような振りをするが、鬱陶しいだけだ。さっさと入れと手招きをする。
だが、園田先輩が入ってきた途端に俺をそっちのけで走って行った氷川が、園田先輩と統也のさらに向こうを見て、あれ? と声を上げた。
「あの、園田先輩、そちらは?」
「ああ、そうそう」
言いながら、園田先輩は道を空けた。その先に立っている人物を見て、俺は思わず息を呑んだ。
「さっき、ここに来る途中で会ったの。はるにゃんだよ。久し振りでしょう」
ふっふっふとなぜか誇らしげに笑う園田先輩は無視して、俺は立ち上がった。
氷川と園田先輩の横を抜け、統也もスルーして、その人の前に立つ。
「あの、園田先輩、はるにゃんって?」
「ああ、ひーちゃんは初めて会うんだね。ほら、あれ、あの絵」
園田先輩が、あの絵を指さした。つられて氷川もそちらを見る。
そこにあるのは、『青』だ。
「『最果ての青』を描いた、沢城小春。だからはるにゃんだよ」
「だ、だからなんですか?」
氷川が園田先輩のネーミングセンスに戸惑っているが、そんなことはどうでもいい。
俺は、その人を見た。
沢城先輩を。
そう、今日来ることになっていたもうひとりは、沢城先輩だったのだ。沢城先輩は初めて会う氷川に感じよく会釈して、それから改めて俺を見た。俺は何か言おうと口を開くけれど、頭の中が空っぽになってしまっていて、咄嗟に何も出て来ない。そんな俺を、統也と園田先輩は面白そうに、氷川は興味深そうに見ている。
もっと自然な感じで出迎えようと思っていたのに、こうして実際に向き合ってみると、何だか緊張してしまう。
沢城先輩も、俺の言葉を待つようにして、まだ何も言わないままに俺を見返している。
「――えーっと」
ずいぶんと久し振りな気もして、まず何と言ったものかと思いあぐねて……結局、また間の抜けた挨拶になってしまった。
「その……お久し振りです」
そんな、言葉に。
「うん。久し振り」
沢城先輩も、はにかみながらそう答えてくれた。
ここまでお読みくださり、有り難うございました。
またどこかで機会の御座いましたら、よろしくお願いします。




