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空色パレット、海色キャンバス  作者: FRIDAY
参 無色透明
32/33

これからも


 勢いで窓から飛び出そうとしてしまったが、ぎりぎりでとどまった。ここは二階だ。窓枠にかけてしまっていた足を引っ込め、俺は踵を返した。

 今度こそ、全力で疾走する。

 廊下を駆け抜けた先にあるのは、生徒玄関へ続く大階段だ。これを降りれば、生徒玄関は目の前になる。

 跳んだ。

 二段飛ばしや三段飛ばしどころではなく、一番上から踊り場まで十数段を一気に飛び降りた。着地は、失敗はしなかったのだが、単純に純粋な衝撃で足が痺れて――構ってられるか。二階の窓から飛び降りるのに比べれば何でもない。残る踊り場も連続で飛び降りた。転がるようにして生徒玄関へ駆け込む。靴を履きかえる時間も惜しい――ええい、ままよ。俺は上靴のまま生徒玄関を駆け抜けた。こんなこと、避難訓練でもなければ滅多にないことでちょっとした背徳感を覚える――外に出た。

 まだ、その背は校門まで達していない。

 走る。

 距離としては大したものではなかったのに、準備運動もなく、最初から全力で疾走したために全身が軋んでいる。胸は絞られるように痛むし喉は灼けついている。両脚だって同時につりそうだし、それどころか先程の飛び降りの衝撃も抜けきっていない。けれど。

 なりふりなんて構っていられない。もっと大事なものが目の前にあるのだから。


「さ――」

 声を上げようとして、失敗した。粘度の高い唾が喉に絡んで激しく噎せる。その勢いで足が絡まって転びそうになる。

 だが何とか持ちこたえる。走ることも、やめない。

 もう一度、口を開く。

 腹から音を出す。


「――沢城先輩!」


 声量としては、結局大した大きさにはならなかった。ガラガラと掠れていたし、音が言葉になっていたのかどうかも怪しい。

 けれど、沢城先輩は振り向いた。

 振り返って、脚を止めた。

 その前へ、俺はようやくのこと追いついた。

 距離にして、およそ二メートルか。


「滝崎、くん……」

 目の前で膝に手をついて荒い息をつく俺を、沢城先輩は見る。

 俺は、沢城先輩に何か言おうとして、

「――ぜぃ、ぜぇ、はぁ、――がはっ」

 息が乱れ過ぎてて何も言えねえ。

 しかも、立ち止まった瞬間にどっと全身に襲ってきた疲労感で今にも膝から崩れ落ちそうだ。


「と、とりあえず、息を整えて……」

 ほら見ろ、沢城先輩にまで気を遣われてしまった。

 格好つかないことこの上ない。

 荒い息の中で思わず小さく笑ってしまった。


「――く、ぁ」

 強く息を呑んで、強引に呼吸を整えた。

 膝に気合いを入れて、身を起こす。


「沢城先輩」

「……なに?」

「いや、えーっと――お久し振りです」

「あ、うん……久し振り」


 ここまで考えなしに勢いだけで来てしまっていたため、輪をかけて間の抜けた第一声になってしまった。

 仕切り直そう。


「美術室の絵、見ました。あれ、描いたの沢城先輩ですよね」

 俺の問いに、沢城先輩はやや視線を下げ――けれど再び、それも今度はまっすぐと俺を見据えて、頷いた。


「うん、そうだよ」

「そうですか」


 俺も頷き返して、考える。

 俺が何を言うべきか。

 ここで俺は、沢城先輩に何と言えばいいのか。

 沢城先輩も、何も言わない。

 ただ俺を見て、黙っている。

 俺が何か言うのを、待っている。

 だから俺は、言った。


「綺麗でした」


 率直な感想を。


「『永遠の青』とも、『境界の青』とも違う青でした。今まで見たことのない青で、凄く綺麗で――感動しました」

 まっすぐに、伝える。

「俺は、やっぱり先輩の青が好きです」


 残念ながら、まだじっくりと眺めたわけではない。一分足らずで、すぐに走り出してしまったから、実のところそれだけで感想を述べてもいいものか、というほどだ。

 けれど、それだけの短時間でも、俺が言葉を失うに十分過ぎるくらいだった。

 だがそもそも、焦る必要はないのだ。これからだって、じっくりと鑑賞できるのだから。

 俺の言葉を聞いた沢城先輩は、数秒俺をちゃんと見返していたが、ついっと横へ視線を逸らしてしまった。


「……な、なんか」

 何だかもじもじとしながら、沢城先輩は言う。

「そうはっきり言ってもらえると、嬉しいんだけど、結構照れるね」

「……そ、そうですか」

 そんな反応されたら、こっちまでちょっと恥ずかしくなってくるじゃないか。さっきの俺の発言も、ちょっと聞き違えたら沢城先輩に告白しているみたいだし。


「と、とにかく! ――青、描けたんですね」

「うん」

 沢城先輩は頷いた。

「描けたよ――描いたよ、滝崎くん」

 沢城先輩は、笑った。

 その顔は、最後に見たときよりも随分痩せていて、やつれていて、顔色も悪く、精彩に欠けていて。

 だが、晴れやかな笑顔だった。


「最後まで、描き切ったよ、滝崎くん。コンクールには、間に合わなかったけれど……」

「コンクール? ――ああ、いえ、それは、いいんです」

 青の絵を見た衝撃ですっかり忘れていた。確かに、そういうことだ。あの絵が今美術室にあるということは、コンクールには出品しなかったということだ。けれど、別にいい。

「コンクールというのは、方便というか……沢城先輩が青を描いてくれれば、それでよかったんです」

 あれほどの絵だ。もしコンクールに間に合っていれば、間違いなく大賞を取っていただろうと思うけれど、大事なのはそこじゃない。


「また、描きますよね」

 俺は言った。沢城先輩に問うた。

「まだまだ、描きますよね。これからも、たくさん、描きますよね。――あれで、最後じゃないですよね」


 自分で問いながら、俺はどんどん不安になっていった。

 もし沢城先輩が、あれを最後の作品として描いたのだとしたら。

 俺が心配するようなことではないだろう。他人が首を突っ込んでいいような話ではないだろう。けれど、もうここまで踏み込んだのだ。不安にくらい、なってもいいだろう。


「俺はまた、沢城先輩の青を見れますか」

 問いかけた俺は、沢城先輩を窺う。

 沢城先輩は、じっと俺を見返して――はっきりと頷いた。


「うん。描くよ」

 深く、笑んだ。

「これからも、私は描くよ。たくさん、たくさん――描き続けるよ」

 好きだから、と沢城先輩は笑う。

「私は絵が好きだから――絵も、青も、お母さんも、大好きだから。これからも、描いていく」

 沢城先輩は笑った。とめどなく、大粒の涙を流しながら、沢城先輩は凄く綺麗に笑っていた。

 頬を伝い、顎から次々と滴っていく雫を拭うこともなく、満面に。


 だから俺も、つられて笑った。

 有り難う、と沢城先輩は言った。



「有り難う、滝崎くん」



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