描かれた青
あれから、とうとう二週間が経った。
一度として再び会うことのないまま、それだけの時間を経てしまった。
俺が、作品を出すように沢城先輩に迫った高校国際美術コンクール、その締切も、とうとう過ぎた。
沢城先輩が結局のところどうしたのか、コンクールに出品したのか、それともしなかったのか、俺は知らない。
統也あたりに訊けばわかるかもしれないとは思ったが、そういう形で知るのは何だか嫌だった。統也も、わざわざ俺のところまで来てそれを報告するようなことはしなかった。
ただ、わずかに俺の知り得たことと言えば、園田先輩からもたらされた情報くらいのものだった――沢城先輩は、コンクールの締切より一週間ほど前から、学校そのものを欠席していた、と。
理由は病欠ということであったが、本当かどうかはわからない。園田先輩は素直に信じていて、俺が見舞いに行くべきだと強硬に言っていたが、俺は結局行かなかった。最悪の場合、不登校にでもなってしまったのではないかという恐れもあったけれど、堪えた。
とにかく、コンクールが終わるまではと。
出品したのか、しなかったのか。賞の結果は別にどうでもいい。その結果が出るのもまだまだ先のことだ。とにかく俺は、沢城先輩がどうするのかを、知りたかったのだ。
青を使うのか、使わないのか。
願うなら、沢城先輩がまた青を使ってくれることを。
それだけだった。
だから、コンクールの締切は、ひとつの到達点だった。
もう一度美術室に行ってみようと、そう考えるに足るチェックポイント。
俺は職員室に入った。
勿論、用があるのは校舎内の鍵、美術室の鍵だ。入部以来一度として俺が扱うことのなかったそれは、しかし予想通りに、そこにあった。
脇に置かれているノートを見る。鍵の貸し出しに際し、誰が、いつ持ち出したのかを記入するノートだ。以前なら、そこにはいつも必ず沢城先輩の名前があった。今日は――ない。当たり前だ、鍵は誰にも持ち出されることなく目の前にあるのだから。
それに……ノートを数枚めくっていく。過去に遡る。けれどやはり、数枚に渡って、沢城先輩の名はなかった。ようやく見つけたのも、俺が最後に沢城先輩に会ったあの日、それっきりだ。
それから一度として、俺も、沢城先輩も、美術室に入っていなかった。
その鍵を、俺が取る。
「……初めて、だな」
つぶやく。その声音に、どうしても自嘲の響きが混ざることを隠せなかった。
初めてがこんな形で、なんてな。
自分の名前を、学年を、クラスを、時刻を記入して、俺は鍵を取った。職員室をぐるっと一望し、万が一にも沢城先輩がいないことを確認してから、吐息して、職員室を出る。
歩きながら手の中でもてあそぶ鍵は、軽い。たった一個の小さな鍵と、美術室と銘打たれたカードが結わえられただけのものだ。軽いに決まっている。けれど、その質量以上に、何だか空々しかった。
急ぐでもなく、のんびりとするでもなく、いつもの歩調で、美術室へ向けて歩いていく。途中、どうしても視線はあちこちへ彷徨って、探してしまう。そして、探し人が見つからないことに、当然とは思いながらも、仄かな落胆は感じてしまう。
道中、誰に会うこともなく、美術室にまでたどり着いた。その戸の前にも誰もおらず、静かで、開けられた廊下の窓から練習に励む運動部の声がかすかに聴こえるだけの、放課後。
俺は、今一度左右を確認して、廊下の向こうまで見渡し、誰もいないことも確かめてから、鍵をドアノブに差し込んだ。
ぐりっと回す。
錠の開かれる音がする。
鍵を引き抜いて、その鍵ごとドアノブを握り込み、回し、引く。
引き開けられる戸に巻かれてあふれ出た美術室の風は、暑く籠もっていて、毎日通っていた頃にはすっかり慣れて気付かなくなっていた画材の独特な濃い匂いが頬を撫でていった。
戸を開け放ったまま、俺は動かず、美術室の中を見渡す。
当然のこと、そこには誰もいない。
あの日からほとんど何も変わらないままの部屋だった。
いつも沢城先輩が林檎を置いている机も、キャンバスを掛けているイーゼルも、沢城先輩が座っている椅子も、依然と何も変わらないままに、静止していた。
「…………」
俺の胸中に去来したのは、一体何と言う感情なのだろう。落胆か、失望か。
教室の中に入っていく。俺の、俺だけの足音が虚しく響く。鞄をいつものところに置いて、俺は窓を開けた。
誰も入っていなかったからだろう、教室の諸所に埃がうっすらと積もっていた。それも、俺が窓を開けたことによって吹き込んだ風で、舞い上がる。
「…………」
俺は、吐息した。
沢城先輩は――きっと、描かなかったのだろう。
確かめることはしないけれど、何となく、そう思った。
喧嘩別れ、と園田先輩は言っていて、だからこそ仲直りしてほしい、とも言っていた。俺はやはり、あれは別に喧嘩ではなかったと思うし、だから喧嘩別れなんてものではないとも思うのだけれど、別れてしまったものは、このまま別れてしまったままになるのだろうと、思った。
苦く、思う。
後悔が、色味を帯びる。
俺があんなことを言わなければ、今だって俺も沢城先輩もこの場所にいただろう。益体のない時間を過ごしただろう。それを充実として捉えていただろう。
俺が沢城先輩を責めなければ。
俺が沢城先輩について、『永遠の青』について調べなければ。
そもそも俺が、『永遠の青』を追うことがなければ――
思い悩んだところで、本当にどうしようもないことなのだ。
けれど、思わずにはいられない。
あんなこと、しなければよかった、なんて。
「…………」
やっぱり、と俺は思った。
退部しよう。
ただでさえ俺がいつまでも居座れば、沢城先輩はいつまでもここへ戻って来れないかもしれない。退部届にもまた部長の署名は必要だが、沢城先輩が病気として欠席し続けている現状、絶対的なものではあるまい。顧問の先生のところに置いて来れば、その後は何なりとでもしてくれるだろう。既に用紙も受け取ってある――俺は自分の鞄のところまで戻って、それを探した。
「…………あ」
ない。だが家に忘れてきたとかではなく、ファイルごとないから、恐らく自分の教室に忘れてきたのだろう。取りに戻らなくては。
一旦美術室を出かけてから、やや迷う。――だが、戸の鍵は開けたままにしておくことにした。自分の貴重品は持って出るし、いちいち施錠するのも面倒だ。盗まれて困るようなものも、別にない。
時間に追われるようなことではないが、何となく速い歩きで、教室まで戻った。放課後だ、大多数の生徒は帰るなり部活動に参加するなりしていて、数人が残って談笑している教室もあったが、俺の教室には誰もいなかった。気兼ねなく入って、自分の机を覗き込む。俺が授業中に配布されるプリントもそれ以外のものも雑多に挟みこんでいるクリアファイルは、確かにそこにあった。取り出して、中身を検める――退部届の用紙は、ちゃんと入っていた。よし、と頷いて俺は再び教室を後にした。
少なくない徒労感を感じながらも、俺は二回目の通りを歩いていく。その道すがら、少し考えた――さすがに、何も言わずに退部するのは、礼儀がないだろうか。せめて置手紙くらい、置いておこう。ノートを一枚裂くなりなんなり、紙を用意して――
そんなことを考えながら、俺はようやく美術室に戻ってきた。その戸の前に立った時、俺は別段の違和感を覚えることはなかった。何の変わったこともなかった――戸を引き開けるまでは。
「――あ」
俺は、息を呑んだ。
そこに、先程まではなかったはずのものがあったからだ。
いつも沢城先輩が使っていたイーゼルが、畳まれて隅の壁に立てかけられている。
代わってその位置には、最大サイズのイーゼルが据えられていた。
そして、そのイーゼルに掛けられたもの。
「…………」
俺は言葉もないまま、それに近づいていく。勿論、他に変わったことがないかも咄嗟に確認した。けれど、それ以外は何もなかった。俺の鞄もそのままだったし、他に誰かが隠れ潜んでいるということもなかった。
ただ、それが現れただけだ。
「…………」
俺は、それの正面に立った。
それは、巨大なキャンバスだった。
大きい――けれどきっと、あの『永遠の青』と同じサイズだった。見上げる位置ではなく、同じ高さに正面から向き合うと、その迫力も一層だ。
それにもしかすると、『境界の青』とも。
「…………」
自分の鼓動が、加速していくのをありありと感じた。
抑えようもなく、浅く速くなる呼吸も。
自分の鼓動と息遣い以外に、何も聞こえない。
全身が緊張に強張った。背を、冷たい汗が伝っていく。
「…………」
キャンバスに何が描かれているのか、そもそも何かが描かれているのかすら、今の俺からは見えない。
そのキャンバスには、上から一枚の大きな白布が掛けられていて、キャンバスの全面を覆い隠してしまっていたからだ。
けれど、俺とキャンバスとを阻むのは、その布たった一枚だけだ。
俺は、手を伸ばす。
「…………」
生唾を呑む。指先が震えている。鼓動が、呼吸がうるさい。
一メートルにも満たない、それこそ手を伸ばせば軽く届くだけの距離が、酷く遠く感じる。
いつまで経っても、指先が布にまで届かないような錯覚を覚える。
だが、そんなものは所詮、錯覚だ。
「…………」
指先が、布に触れた。
あとは一息に、掴み、握り込む。
ふ、と一呼吸。迷いを、恐れを確認する。確認した上で、全てを振り切った。
布を取り去った。
バサッと大きく白が翻り、一瞬俺の視界の全てを覆った。けれど、それはただ一瞬のことだ。
すぐに、その向こうにあるものが露わになる。
キャンバスを、俺は目の当たりにする。
「…………」
呼吸が、止まった。
それは、紛うことなく、『青』の絵だった。
俺がかつて一度も見たことのない、けれど確かに何度も見た、あの『青』だった。
『永遠の青』に見た。
『境界の青』に見た。
沢城先輩の母が描き。
沢城先輩自身が描いていた。
そのどの青とも似通っていて、けれども決定的に違う。
風景。
言うなればそれは、空の彼方か。
絶対的な、青だった。
青。
蒼。
碧。
藍。
紺。
縹。
ブルー。
アクアマリン。
ターコイズ。
シアン。
コバルト。
群青。
濃紺。
瑠璃。
露草。
浅葱。
水色。
空色。
海色。
名前のわかる青も、わからない青も、ありとあらゆる青が、一面を彩っていた。
「…………」
俺は、確信する。
この青を描ける人は、この世にただひとりしかいない。
俺はまだ手に持っていた退部届をファイルごと放り出して、全力で美術室を飛び出した。




